Fw:わもんな言葉42−玄(えん)《わもん黒帯二段: サノトモ》

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2013/ 2/24 15:55

以前に、わもんな言葉で「玄」について書きました(「わもんな言葉35−玄」参照)が、その時は読み方が決まっていませんでした。そして最近、「玄」の読み方が決まりました。「玄」と書いて「えん」と読む、とのこと。
さて、なぜ「えん」となったのか。理由は…知りません(^-^;)
推測や言葉遊びも交えながら、紐解いてみます。
普通に読むならば、「玄」は「げん」です。それが「えん」になるということは…「G」がなくなっている。「げん(gen)」から子音の「g」をとって、「えん(en)」です。
「G」から思い起こすものといえば「重力」。重力(gravity)の頭文字をとって、「G」といえば「重力」とか「重力加速度」を意味します。その「G」がなくなったということは、重力がなくなった「無重力」状態。
また「g」は「グラム」という重さの単位でもあります。重さがなくなり、飛び立ったことを表しているのかもしれません。
はたまた「G」がなくなった…「自我」なくなった…「離我」に通じるのかもしれません。
言葉遊びはともかく、やぶちゃんは「玄」について、「私が『玄』になれるのは、亡くなった後かもしれません」と言います。以前の「わもんな言葉35−玄」でも書いたように、「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。「玄徳」というのが、「木にたとえると根に相当するところの徳」ならば、「玄」は木にたとえると根に相当するもの。重力にも縛られず、肉体にも縛られず、人の心に種を蒔き、根を張り、その人の中で生き続ける。そんなわもんな人が「玄」なのかな、と想像します。
吉田松陰は、『留魂録』の中で、以下の言葉を遺しています。“義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。”人間の一生を四季に例え、松陰は自分の死を間近に控え、自分自身にも四季があり花咲き実をつけたはずだと述べます。その実は籾殻なのか、それとも粟なのかは自分の知る所ではないが、この志を受け継ぐ人があれば、それは蒔かれた種子が絶えず、収穫のあった年に恥じないであろう、と。
私自身も、歴史に名を残したいとまでは思いませんが、せめて身近な人の心には残っていたいと思っています。

《サノトモ》

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