Fw:わもんな言葉66−非言語《わもん黒帯三段: サノトモ》

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あまり公で言ったことはありませんが、ひそかに思っていることがあります。

それは、「『言葉使い』になりたい」というものです。

「言葉遣(づか)い」ではなく、「言葉使(つか)い」。

魔法を操る人を「魔法使い」というように、言葉を操る人という意味です。

それならば、「言葉を話す人は誰でも『言葉使い』ではないか」という声が聞こえてきそうです。

また、「『わもん』は、言葉ではなく、音を聞くのではなかったのか」という声も聞こえてきそうです。

確かに「わもん」は「非言語コミュニケーション」を大切にしています。

音を入口に人の話を聞くことを提案しています。

しかし、言語・言葉を蔑ろにしているわけではありません。

むしろ、言葉も大切にしています。

書籍『わもん』を開けば「絶対尊敬」「完全沈黙」「話聞一如」などの言葉が出てきますし、やぶちゃんの話の中では、「離我」や「ミジンコ」など独特の用語が出てきます。

「わもんな言葉」も、なんだかんだと続いております(^-^;)

「わもん」という言葉自体も今までにないオリジナルな言葉です。

私はよく「言葉とは入れ物だ、器だ」と言っています。

今までは、その容器に何が入っているのだろうか、ということが興味の中心でした。

話を聞くときは、話し手の言葉という入れ物に入っている、その人の思考や感情を理解しようと聞いていました。

最近は、それに加えて、その人の考えや感情を入れるのに、よりふさわしい入れ物はどんな入れ物だろうかということも考え初めています。

こんな風に言葉が使えたら、どんなに素晴らしいでしょうか。

わもんの独特な用語は、このような過程で生まれてきたものと思います。

さらに言うと、「音」も入れ物です。

「心」が入ると「意」となります。

漢字は上手くできていますね。

「言語に非ず」と書いて「非言語」ですが、非言語を言語の一種と捉えることもできます。

例えば、実物の馬は、言語ではありませんが、馬を指さして非言語と呼ぶ人はいません。

「言語ではないけれども言語のようなもの」を非言語と呼んでいます。

「わもん」とは、「言語+非言語コミュニケーション」。

それをベースとした「言葉使い」を目指しています。

サノトモ

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