The Wall Street Journal(ニューヨーク)で8/13の外国人記者クラブでの会見の模様が紹介されました

jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/13296

東京電力福島第1原子力発電所で起きた昨年の事故当時、所長を務めていた吉田昌朗氏――。同氏は、危機的状況の最中に何を感じていたかを語った自らのインタビュー映像の公開を承諾した。事故の”あとがき”としては異例なことだ。
映像はもともと「福島の復興・日本の未来」をテーマに福島市で11日に行われたシンポジウムで上映するため、人材コンサルタントの薮原秀樹氏が作成したものだ。薮原氏は昨年10月から月に一度、吉田氏(57)を含む延べ250人ほどの原発作業員に対し、ボランティアでカウンセリングを行ってきた。
日本外国特派員協会で13日に公開されたこの映像は多くの点で特筆に値する。カウンセリングを受けること自体、日本では珍しいことであるのに、カウンセリングを受けていることを認めたとなればなおさらだ。また企業の経営者や上級幹部が公に個人の感情を吐露するのも異例のことだ。
映像を公開した薮原氏は、福島ではカウンセリングを否定的に見る向きがあると指摘する。
だが映像のなかで吉田氏は、事故について書かれた報告書などでは「われわれの肉声が通じない。調査委員会を通すと肉声がなかなか届かない。私一人ではなく、いろいろな仲間の経験をちゃんと伝えたい」と話している。
吉田氏は28分の映像のなかで、事故当初の最大の課題は原子炉を安定化させることだったと強調している。東電は全面撤退を望んだと言われていることに対し、吉田氏は「われわれが現場を離れることは絶対にあってはならない。現場では一言も絶対に(撤退とは)言っていない」と断言した。
昨年12月に食道ガンを理由に所長を辞任した吉田氏は映像の中で、命を危険にさらし、悲惨な状況のなか現場で作業をした同僚たちへ深い謝意の言葉を繰り返し述べている。吉田氏は、一歩間違えればさらに悲劇的な結果になったかもしれない事故をこの程度に抑えたことで英雄視されることがよくあるが、映像のなかで、自分は何もしていない、実際に現場に行ってくれた同僚らこそ称賛されるべきだと何度も発言している。食事や睡眠も十分ではなく、「大変な放射線があるなかで、現場に何回も行ってくれた同僚たちがいる」と吉田氏は話す。
吉田氏はまた、自身や作業員らが死亡するかもしれないとの恐怖を感じたことについても語っている。3号機で水素爆発が起こったときのことだ。結果、犠牲者が出なかったことについて、吉田氏は「仏様(のおかげ)かな」と話している。
吉田氏は13日のビデオ上映に同席はしていない。
福島第1原発の作業員らの状況は特に厳しいものだったと薮原氏は指摘する。彼らも被災者であるにもかかわらず、悪者扱いされたからだ。作業員の多くは原発の近くに居を構えていたため、他の被災者と同じ苦しみを味わっていた。例えば家族の死や家屋の喪失、家族との別離などだ。しかし報道機関や世間が東電を声高に非難したため、東電の作業服を外で着用することを恥じる作業員や、トラックに書かれた東電の文字を覆って見えなくする従業員もいたという。なかには結婚をキャンセルしたケースもあったと薮原氏は話す。従業員の給与は30%カットされ、もちろんボーナスは支給されない。
薮原氏は、このような状況に置かれた人間がうつ病の兆候を見せるか、自殺を考えるのは何ら不思議ではないと指摘する。薮原氏は、従業員が口々に将来に光が見えないと言うのを聞いたという。
記者:Yoko Masuda
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By Yoko Masuda
In an unusual postscript to the Fukushima Daiichi nuclear accident last year, the manager of the plant at the time — Masao Yoshida — has agreed to the release of a video in which he talks about what he was feeling during the thick of the crisis.
The video was originally produced for a symposium in Fukushima, the prefecture where the crippled plant is located, which has suffered the most contamination from the release of radiation. It was created by a human resources development consultant named Hideaki Yabuhara, who’d been providing volunteer counseling, once a month, for Mr. Yoshida and 250 other workers at the plant since October of last year.
The video, which was shown to a group of foreign journalists Monday, is remarkable in many ways. Counseling is rare in Japan, and admitting to receiving counseling even rarer. It’s also unusual for managers and executives to express personal feelings in public.
Mr. Yabuhara, who presented the video on Monday, said that some in Fukushima regarded counseling as a “frivolous” activity.
But in the video, Mr. Yoshida explained that “the human element has been lost” from the many investigative reports written about the accident, and that he and his colleagues needed to “find ways to properly convey the experience.”
In the 28 minute video letter, Mr. Yoshida stressed that his primary concern at the time of the accident was how to stabilize the reactors. In response to claims that Tepco wanted to pull everyone out of the site at one point, Mr. Yoshida said that he’d never considered such a thing, stating that “it was clear from the beginning that we couldn’t run” and that “nobody on the ground said anything about pulling out” of the site.
The 57-year-old, who retired from his post last December due to esophageal cancer, repeatedly expressed gratitude towards his co-workers for risking their lives and working under dire conditions. While Mr. Yoshida is often regarded as a hero for containing what could have been a greater disaster, in his video letter he repeatedly said that he himself had done nothing and that his workers were the ones to praise. Even though they hadn’t gotten enough sleep or food and “the level of radioactivity on the ground was terrible,” the workers at the plant pushed their physical limits and “leaped at the chance to go” to the reactors to try to fix the situation, Mr. Yoshida said in the video.
On the video, Mr. Yoshida also talked about how he feared he and his crew would all die, when hydrogen explosions were rocking the reactors. Since nobody died, Mr. Yoshida, a Buddhist, said he felt “the Buddha was looking out for us.”
Mr. Yoshida wasn’t present at Monday’s video presentation.
Mr. Yabuhara said the situation of the Fukushima Daiichi workers was particularly tough because they’re seen as villains — even thought they’re also victims of the disaster. The workers — many of whom lived in the area around the plant — suffered the same hardships as other victims, such as deaths in their families, loss of homes, or separation from families. Yet the widespread media and public condemnation of operator Tokyo Electric Power Co. meant that some workers felt ashamed to wear their Tepco jackets outside, while others covered up the Tepco signs on their trucks, Mr. Yabuhara said. In some cases, marriages were cancelled, he said. The workers also suffered a 30% reduction in salaries, and of course, no bonuses.
Mr. Yabuhara said it would not be at all strange for someone in such circumstances to show signs of depression and consider suicide. He reported that various workers have told him “We have no hope. There is no light in the future.”

ニュースJAPAN 生出演【2012/08/13 】

吉田昌郎前所長にインタビューした薮原秀樹氏に話を聞きました。

福島第1原発の吉田昌郎前所長がビデオメッセージで、事故当時の状況を生々しく語りました。
2011年10月から、吉田前所長以下、作業員延べ250人のメンタルケアを無償で行ってきた人材育成コンサルタント・薮原秀樹氏に、今回のインタビューについて聞きました。

(吉田前所長と3度にわたり会われたということですが、インタビュー以外で吉田前所長と話して印象的だったところは?)
吉田所長はですね、大阪出身の方なんですね。私も徳島生まれ、大阪育ちですので、大阪弁でやり取りができたんですけども、本当に表裏がなくてですね、立派な指揮官だなという印象があります。それとですね、私わもん』というコミュニケーションの手法で、吉田所長の了解をいただいて、福島第1原発重要免震棟に入れていただいたんですが、一番最初に申し上げたいのは、私は原発賛成・反対、そのどちらの位置でもなくてですね、エンドポイントを吉田所長と話し合って、『福島完全安全宣言』というところに置かせていただいております。

(インタビューも撮られたということですが、インタビューの中で吉田所長が一番訴えたかったことは?)
事故調のインタビューに、ずいぶん多く答えておられるんですが、今回の福島でのビデオの中でもおっしゃっているんですが、肉声がどうしても届かないと。現場の声が、どうしても届かないということをおっしゃっておられます。

(作業員の方とも2011年10月から、定期的にメンタルケアをされているということですが、そういった作業されている方たちの声というのは?)
10カ月にわたり、毎月延べ250人ほどの方にお話を聞いてきたんですけどね、心中はすごく複雑です。自分たちがいったん被害を受けて、加害者になっている。今もう世論はですね、東電に対していろんなご意見があるので、悪いなあと思っているんですけど、自分たちも家が流されたり、お身内がいなくなったりですね、そんなところがあるので、非常に皆さん、複雑な思いを抱えておられます。

(具体的にエピソードで聞かれたことは?)
多くの方がおっしゃっておられますのは、まず奥様が洗濯物を干すときに、東電のジャンパーをベランダに干すことができないので、部屋干しをしているとか。異業種交流会に参加できないので、名刺の数が減ることがなくなったとか、そういったお声をよく聞いております。

(事故当時からお話を伺っていると思いますが、変化は感じますか?)
事故当時は何とか自分たちが命を懸けて、この重要免震棟で支えなければいけないということで、モチベーションが高かったんですが、このメディアに登場して、こんなことを言うのも変な話なんですが、心ないネットの書き込み、いろんな風潮等で、ずいぶんとメンタルが、私が入る10月のころには、下がっておられる方がたくさんいらっしゃいました。

(現場の方から厚い信頼を受けている吉田前所長ですが、2011年11月に食道がんを患われて、今は所長を退いています。最近の様子はいかがですか? 復帰については?)
7月10日にビデオ撮影させていただいた時に聞いた話ですが、ご本人は『戻る意思がある』ということをおっしゃって、強くおっしゃっておられました。今はどうかわかりませんが、7月10日の段階では、そのようにおっしゃっておられました。

(現場もかなりそれを望んでいる?)
望んでいると思いますね。

(かなり信頼厚いと感じましたか?)
ものすごく、いい指揮官だと思います。

2012/8/12 河北新報朝刊『福島第1・吉田前所長 ビデオで心境 福島爆発、がれき飛来 死覚悟事故調通さず情報発信』《サノトモ》

福島第1・吉田前所長 ビデオで心境 福島
爆発、がれき飛来 死覚悟

事故調通さず情報発信

福島第1原発事故で収束作業を陣頭指揮した吉田昌郎前所長(57)が当時の状況や心境を語るビデオ映像が11日、福島市で開かれた出版社主催の講演会で上映された。吉田氏は同原発1、3、4号機で起きた水素爆発について「当初、安否確認できないのが数十人いて、10人くらい死んだかもしれないと思った」と振り返った。

特に昨年3月14日に起きた3号機の水素爆発に関しては「あれだけ(大量)のがれきが(吉田氏らがいた)免震重要棟に飛んできて、自分も仲間も死ぬ、死んだっておかしくない状態だった」と明かした。
政府と東電の認識が対立している第1原発からの撤退問題については「(東電)本店に『撤退』とはひと言も言っていないし、思ってもいなかった」と強調。「われわれが離れて(炉心冷却の)注水ができなくなれば、もっとひどい放射能漏れになる。何とかして安定していた5、6号機も燃料が溶け、もっと放射能が出ていた。そうなると第2原発にも人が近づけなくなり、大参事になっていた」と語った。
高い放射線量の中で危険な作業を続けた同僚らには謝意を示した。名前を重要免震棟のホワイトボードに書かせたという。「現場に行ってヘロヘロになって戻り、睡眠も食事も不十分な中でまた現場に出向いた。最後まで残って闘ったのはどんな人たちか残しておきたかった」と説明した。
吉田氏は政府や国会の事故調査委員会の最終報告前は報道機関の取材や公の場での発言を控えてきた。「事故調を通すと肉声がなかなか届かない。今後はいろいろな形で発信し、経験を伝えていきたい」と述べた。
映像は7月上旬、人材コンサルタントとの対談形式で約30分間収録された。
吉田氏は健康診断で食道がんが見つかり昨年12月、所長を退任。先月下旬、脳出血で手術を受け入院した。現在は執行役員原子力・立地本部付となっている。

2012.8.12信濃毎日新聞記事( 長野県)『吉田前福島第1 原発所長映像復興テーマ講演会で上映 福島』《高野コーチ》

吉田前福島第1原発所長映像
復興テーマ講演会で上映 福島
東京電力福島第1原発の事故処理を陣頭指揮した前所長の吉田昌郎氏(57)が「部下は地獄の中の菩薩だった」などと心情を語ったビデオ映像が11日、「福島の復興・日本の未来」をテーマに福島市で開催された講演会で上映された。
上高井郡小布施町の出版社「文屋」の主催で、有料の事前登録をした約140人が集まった。
吉田氏はビデオの冒頭、「私どもの発電所の事故で本当にご迷惑をお掛けしている」と謝罪。その上で「部下には地面から菩薩が湧く地湧(じゆ)菩薩のイメージを地獄のような状態の中で感じた」「今後は現場で一緒になった仲間の経験も伝えていきたい」などと語った。
ビデオ上映後の意見交換で、福島県南相馬市の女性は「事故直後から第1原発で働く身内がいる。胸のつかえが取れた感じ」。別の女性は「事故処理をする人たちの上に私たちの生活がある。そういう人たちが報われる社会にしたい」と話した。
吉田氏のビデオ出演は、文屋が出版した本の著者で吉田氏と親交のある人材コンサルタント薮原秀樹氏を通して実現。吉田氏は食道がんの療養で講演会に出席できないため、先月10日に東京都内で薮原氏がインタビューする形で収録された
薮原氏はビデオ上映後の講演で「原発職員の心が健康になれば廃炉に向けた作業スピードがアップする」と語った。

2012年8月12日 信濃毎日新聞

2012.8.12 日経新聞朝刊「部下は地獄の中の菩薩」《くろちゃん》

2012.8.12 日経新聞朝刊

「部下は地獄の中の菩薩」
福島革?前所房事故時の心情語る
東京電力福島第1原子力発電所の事故処理を陣頭指揮した吉田昌郎前所長(57)が「部下は地獄の中の菩薩(ぼさつ)だった」などと心情を語っ
たビデオ映像が11日、「福島の復興・日本の未来」をテーマに福島市で開催された講演会で上映された。
長野県小布施町の出版社「文屋」の主催で、有料の事前登録をした約140人が集まった。
吉田前所長はビデオの冒頭「私どもの発電所の事故で本当にご迷惑をお掛けしている」と謝罪。
その上で「部下には地面から菩薩が湧くイメージを地獄のような状態の中で感じた」「今後は現揚で一緒になった仲間の経験も伝えていきたい」
どと語った。
上映後の意見交換で、福島県南相馬市の女性は「事故直後から第1原発で働く身内がいる。胸のつかえが取れた感じ」。別の女性は「事故処理を
する人たちの上に私たちの生活がある。そういう人たちが報われる社会にしたい」と話した。
吉田前所長のビデオ出演は、文屋が出版した本の著者で、前所長と親交のある人材コンサルタント、薮原秀樹氏を通して実現。前所長は食道がん
の療養で講演会に出席できないため、先月10日に東京都内で薮原氏がインタビューする形で収録された。薮原氏はビデオ上映後の講演で「原発職員の心が健康になれば廃炉
に向けた作業スピードがアップする」と語った。

【発言の要旨】
東京電力福島第1原発前所長の吉田昌郎氏が11日、ビデオ映像で語った発言の要旨は次の通り。
私どもの発電所の事故で、本当にご迷惑をお掛けしている。深くおわび申し上げたい。
(撤退問題が論議になっているが)私が考えていたのは発電所の安定化。原子炉を冷やす作業をしている人間は撤退できないと思っていた。
店にも撤退ということは一言も言っていない。逃ばられないというのは最初からあった。
現場に飛び込んで行ってくれた部下に、地面から菩薩が湧く地湧(じゆ)菩薩のイメージを、地獄のような状態の中で感じた。私はその後ろ姿に感
謝して手を合わせていた。
3号機の水素爆発後は、破滅的に何か起こってくんじゃないかと感じた。私を含む免震重要棟の人間は死んでいてもおかしくなかった。
免震棟に残っているメンバーの名前をホワイトボードに書いておくようにと部下に指示したとされるが)最後まで残って闘ったのはこんな人間
だぞってのを残しておきたかったのだと思う。
今後は一緒になった仲間の経験も伝えたい。体力が戻ったら、現揚のために力を出したい。

毎日jp《ヤブログ:2012夏の文屋座in福島》

mainichi.jp/select/news/20120812k0000m040027000c.html

福島第1原発:吉田所長 ビデオでの発言全文

毎日新聞 2012年08月11日 19時21分

吉田昌郎・福島第1原発前所長のビデオでの発言全文は次の通り。

–第1原発の現場の声を伝えてほしい。

 ◆昨年の大震災、それから私たちの発電所の事故で福島県の地元の方々に本当にご迷惑をおかけしている。この場で深くおわび申し上げる。まだしばらくこういう状況が続くが、我々も全力を挙げて復旧しており、ご理解をお願いする。本来ならこの講演会に自分で出てきたいと思っていたが、昨年末から病気でずっと入院していてまだ体力が回復していない。そういう中でこういうビデオレターということで失礼する。政府などの事故調査委員会が開催されている中で、なかなか一般のマスコミの方に我々の生の声を届けるわけにはいかないと思っていた。事故調査委員会が一段落するまでは変な形でお話しをすることはルール違反になると私は思っていた。そういう中で(今回)話を聞いていただけるということは大変ありがたいと思っている。

–発電所からの全面撤退がささやかれている。事実は?
◆しゃべりだすととまらないが、基本的に私が考えていたのは第1原発をどうやって安定化させるかということに尽きる。そういう時に我々が現場を離れるということは絶対にあってはならない。かといって人命は非常に尊いので、関係のない人といったらおかしいが、事故の収拾に直接関与していない人には避難していただく。ただやはり現場で原子炉を冷やしたり、そういう作業をしている人間は撤退できないと思っていたし、本店にも撤退ということは一言も言っていないし、私は思ってもいなかった。本店には一言も撤退と言っていないということは間違いない。事故調にもそう話をしている。あとでいぶかしく思ったが結局、本店と官邸の間でそういう撤退騒ぎが起こっているが現場では一言も絶対そういうことは言っていない。これは間違っていない。

–自らの命を亡くす覚悟はあったか?
◆覚悟というほどの覚悟があったかはよくわからないが、結局、我々が離れてしまって注水ができなくなってしまうということは、もっとひどく放射能漏れになる。そうすると5、6号機はプラントはなんとか安定しているが、人もいなくなると結局あそこもメルト(ダウン)するというか、燃料が溶けることになる。そのまま放っておくと、もっと放射能も出る。福島第2原発も一生懸命、プラントを安定化させたが、あそこにも人が近づけなくなるかもしれない。そうなると非常に大惨事になる。そこまで考えれば、当然のことながら逃げられない。そんな中で大変な放射能、放射線がある中で、現場に何回も行ってくれた同僚たちがいるが、私が何をしたというよりも彼らが一生懸命やってくれて、私はただ見てただけの話だ。私は何もしていない。実際ああやって現場に行ってくれた同僚一人一人は、本当にありがたい。私自身が免震重要棟にずっと座っているのが仕事で、現場に行けていない。いろいろな指示の中で本当にあとから現場に話を聞くと大変だったなと思うが、(部下は)そに飛び込んでいってくれた。本当に飛び込んでいってくれた連中がたくさんいる。私が昔から読んでいる法華経の中に地面から菩薩(ぼさつ)がわいてくるというところがあるが、そんなイメージがすさまじい地獄のような状態で感じた。現場に行って、(免震重要棟に)上がってきてヘロヘロになって寝ていない、食事も十分ではない、体力的に限界という中で、現場に行って上がってまた現場に行こうとしている連中がたくさんいた。それを見た時にこの人たちのために何かできることを私はしなければならないと思った。そういう人たちがいたから、(第1原発の収束について)このレベルまでもっていけたと私は思っている。

–吉田さんは所員の精神の支柱だった。
◆私は何もしていない。私のとりえは福島第1原発に4回、赴任したことだ。第1原発のメンバーの名前もほとんどわかっているし、協力企業さんも結構つきあいがあり、名前で呼べるんですね。「○○さん、○○くん、大丈夫か」とか。それだけだ。それで声をかけただけだ。私は。何もできていない。みんなやってくれたということだ。いまだにそう思っている。

–事細かなコミュニケーションをとったということか?
◆そうだ。やはり知らない間じゃないということだ。昔から一緒に仕事をした仲間だ。そういう仲間が大変な現場に行って帰ってき、出て行くというのを見ているので、頭を下げるしかない。

–3号機が爆発した段階では死ぬかと思ったか?
◆今回一番インパクトがあったのは1号機もそうだが、3号機の爆発というのがあった。これは今まで経験した中で非常に、あとから考えれば水素爆発だったが、その時点では何が起こったかわからないという状態なので、これから、もう破滅的に何か起こってるんじゃないかと思った。爆発について。一つは自分が死ぬということ、メンバーも含めて、免震重要棟の人間は死んでたっておかしくない状態だった。3号機なんかは特にそうだった。あれだけのがれきが飛んできて。私は、最初は行方不明者が何人ということを聞いた時に、確か数十人レベルでまだ安否が確認できていないというのが最初の状況だった。ああこれは10人ぐらい死んだかもしれないというふうに思った。そこから時々刻々、だれだれがという話が入ってきて、軽傷の人間は何人かいたが。それから自衛隊の方には本当に申し訳なかった。水を補給しにきてくれた自衛隊の部隊がけがをされて、本当に申し訳ないと思っている。不幸中の幸いで人命にかかわるものではなく、これはある意味、仏様のあれかなという感じ私はしている。

–原発に残ったメンバーの名前をホワイトボードに書くように指示したとのことだが、どのような思いだったか?
◆ほとんどその時のことを思い出せないが、たぶん、要するに最後まで残って戦ったのはこんな人間だぞということを残しておこうということだ。今から思えば。わかんないですよ。私自身。本当に。

–墓標になると思って書いたということか。
 ◆はい。そうだ。

–最後に何かお話はあるか?
◆いずれにしても今回の事象は、いろいろ国会とか政府事故調、民間事故調などで書かれているが、我々は特に政府事故調にはすべてを話をさせていただいた。マスコミの方からいろいろ問い合わせがあるが、お話は全部すべてそちらでさせていただいているので、そこをベースに考えていただければいいと思っている。ただやっぱりなかなか我々の肉声というのは通じない。調査委員会を通すと肉声がなかなか届かない。その部分はいろいろな形でちゃんとメッセージを発信していかないといけないと思っている。私一人ではなくてあそこで一緒にやったいろいろな仲間の経験をちゃんと伝えたい。

–これから第1原発や福島県はどうあるべきか?
◆そういう次元の高い話になると今すぐに答えがないが、やっぱり発電所をどうきちっと安定化させるかがベースだ。そこができていない中で、地元にお帰りいただくわけにはいかないので、そこが最大の(課題だ)。これは事故当時も言っていたが、日本国中だけでなく世界の知恵を集めて、より発電所、第1原発をより安定化させることが一番求められている。いろいろなだれの責任うんぬんということもきちっとやるべきだが、やはり発電所を少しでも安定させる。それには人も必要だし、技術もいろいろな知恵が必要だ。そこに傾注するということが重要なことだと思う。そのうえで、地元の方々に(通常の)生活に戻っていただけるか考えることができる。いずれにしても現場を落ち着かせる、安定化させることが一番重要な責務だ。私はちょっとまだ十分な体力がないが、戻ったらそういう形で現場のために力を届けたい。

毎日jp《ヤブログ:2012夏の文屋座in福島》

mainichi.jp/select/news/20120812k0000m040026000c.html

福島第1原発:吉田前所長 シンポジウムにビデオ出演

毎日新聞 2012年08月11日 19時15分

東京電力福島第1原発事故で、収束作業の陣頭指揮を執った吉田昌郎前所長(57)=現在は本店原子力・立地本部付=が11日、福島市であったシンポジウムにビデオ出演した。吉田氏は「事故で一番インパクトがあったのは3号機の水素爆発(昨年3月14日)だった」と振り返り、「自分も含めて死んでもおかしくない状態だった。(爆発で)10人ぐらいは死んだかもしれないと思った」と述べた。吉田氏が退任後に事故時の心境を語るのは初めて。
吉田氏は冒頭、「政府などの事故調査委員会が一段落するまで、自分が話すことはルール違反と思っていた」と、インタビュービデオを公開した理由を説明。今後の課題については「事故の責任問題もきちっとやるべきだが、第1原発を安定化させることがベースになる」と強調した。
東電が第1原発から全面撤退を検討したとされる問題については、「本店と官邸との間の騒ぎで、現場では絶対に一言も言っていない」と断言。「もし現場を離れれば、5、6号機もメルト(ダウン)し、燃料が溶ける。福島第2原発も人が近づけなくなり、大惨事になる。そこまで考えれば当然(第1原発からは)逃げられない」と述べた。