Fw:『幸せの法則』〜許すということ〜≪新生活・結婚・ガン・離婚≫《高橋茉希( たかはしまき) 》 Posted on 2012年7月27日 by サイト管理者 ▼SNSでシェアをしてやぶちゃんを応援しよう![?] 『幸せの法則』?許すということ? ◆相手の立場に立つ ◆未来を信じる ◆今を生きる ◆感謝する ◆手離す ≪新生活・結婚・ガン・離婚≫ 私が、高校を卒業して母も私も就職先が決まったので8つ下の弟と3人で家をでました。 心穏やかな生活のスタートだっはずでしたが、1年半ほどして母の再婚が決まります。 穏やかな生活も一変・・・。気を使いながらの生活がスタートしました。 最初は戸惑いましたが、新しいお父さんは素晴らしい人で、母も、弟も、祖母も大切にしてくれましたね。 私とは、飲み友達のような関係で、一緒に晩酌するのが楽しくて仕方がありませんでした。 14年前に他界しましたが、今も生きていたら、毎晩一緒に飲んでいたんだろうな。 幸せな思い出をたくさんくれた父にはとっても感謝しています。 就職先では、同期にもめぐまれて、充実した社会人生活をおくることができましたね。 一緒に旅行へいったり、スキーやキャンプ、バーベキュー♪ワクワクする日々でした。 その後、働き始めて6年位したころ、どうしても人と接する仕事したくなり、転職を決意! 正社員で働く前に色んな職種を体験したいなと思い、軽い気持ちで始めたテーマパークでのアルバイトでしたが、この時の決断が、その後の人生を大きく左右するとは思ってもみませんでした。 そして、27歳の時に結婚、28歳の時に発病。 結婚後半年の出来事でした。子供もいませんでしたし、直ぐに離婚を考えましたが当初は相手の方も支えになると言ってくれたので、一緒に戦うことを決めました。 最初に、気になって検査した病院で「問題なし」と告げられて、帰宅。 安心したのもつかの間。数日して結果に誤りがあるので再来して欲しいと電話が・・・。 大きな病院へいって検査を勧められました。 丁度、この病気の専門家が知り合いにいたのでその方を信じて検査をしてもらいます。 結果は恐らく「黒でしょう」と言われましたがセカンドオピニオンで県立がんセンターへもいくことにしました。 県立がんセンターでは、衝撃的な体験をしました。 カルテに目を通した医師が、最初に私にかけた言葉を今もハッキリ覚えています。 「どうして僕のところに来たの?この程度なら10年くらい医師経験のある盲腸の手術ができる医者なら手術できるよ」 当時、その病気の手術では名の通った先生でしたから正直かなり驚きました。 先生は、大したことないよと言うつもりだったのかも知れませんが、切羽詰っている私にはくみ取ることができず、「で、どうしたいわけ?」と言われて、とても診察してくれそうな雰囲気ではなかったのでそのまま病院を後にするしかありませんでした。 そして、元の病院へ戻り、更に詳しい検査が必要だといわれて組織検査。 この、手術後が大変でした。 先生は「そのうち体に吸収されて腫れもひくから大丈夫だよ」そんな風にいっていましたが 患部は腫れ上がり熱をもち痛みも強くてまったく改善しない。 そこで、違う県立がんセンターへ移ることにしたのですが 先生の最初の一言は 「あら?痛いねかわいそうに・・・痛かったねこれは・・・よく頑張ったね」 ここで、我慢していた感情が一気にあふれ出し、初めて涙を流しました。 本当はとっても痛かったし、不安だったからです。 そして、現状は私が前院で聞いたこととは違い血腫が酷くて原発巣からの広がりが分からなくなってしまっていることを知ります。 結局、病巣だったであろう付近を、全摘出手術しなければならなくなってしまいました。 最初の手術で、次の手術の選択肢がなくなってしまったことは、私にとって非常に辛く苦しいことでしたが命と術式の選択ですから仕方がありませんでしたね。 術後の病理検査で詳しい病状も明らかになりました。 早期発見ではないこと、若年性であることから再発のリスクが高いこと 5年後の生存率は若年性のため60?70%程度であることを告げられました。 先生の表情や言葉から死を覚悟しましたね。 入院中の病室では、当時とても珍しい若年性のがんだった為、好奇の目でみられるだけではなく、あれこれ聞いてくる方もいました。 「ステージは?」「結婚しているの?」「お子さんは?」「先生は誰?」「術式は?」中には「それは、私と同じだから5年後には必ず再発するわよ?」なんていう方までいました。 「なんて酷いことをいう人がいるのだろう」驚きにプラスして悲しい気持ちになりましたが、今、思い返すとその方も不安で誰かと同じであることに安心感を求めたかったのかな? そんな風にも思えます。 退院後は、投薬治療がしばらく続き、日常生活の中でできなくなってしまったことが増えていました。 心中は辛くて苦しくてでも、周りには知られたくなくて。 とにかく明るく元気に振る舞おうとしていました頑固ですね(笑) でも、1年後位かな?やっと思えたんです。 残された人生が短いとするならば、その時間を笑って顔を上げて生きていきたい。 できないことを嘆いて生きるよりも、できることに喜びを見出して生きていこうって。 そこから私の目標はテーマパークへの職場復帰です。 現実を考えると病院で「やってはいけない」といわれていることばかりの仕事でしたが、 チャレンジしてみてダメだったら違う道を探せばいい!(元職場のみなさん、ごめんなさい) とにかく戻りたい一心で治療とリハビリをしましたね。 術後2年半で無事に職場復帰。今は発病から12年経ちました! 元気にすごせています。これも病院のみなさんと支えてくれた家族のおかげです。 心から感謝しています♪ こう振り返ると、最初の手術がなかったら現在の担当医にもめぐり合うことができなかった訳ですからすべては、必然なんですよね。 長くなってしまいましたね。 今回も拙い文章にお付き合いいただき、ありがとうございます。 ご縁に感謝と愛をこめて☆茉希拝☆
Fw:『幸せの法則』〜許すということ〜≪新生活・結婚・ガン・離婚≫《高橋茉希( たかはしまき) 》
『幸せの法則』?許すということ?
◆相手の立場に立つ
◆未来を信じる
◆今を生きる
◆感謝する
◆手離す
≪新生活・結婚・ガン・離婚≫
私が、高校を卒業して母も私も就職先が決まったので8つ下の弟と3人で家をでました。
心穏やかな生活のスタートだっはずでしたが、1年半ほどして母の再婚が決まります。
穏やかな生活も一変・・・。気を使いながらの生活がスタートしました。
最初は戸惑いましたが、新しいお父さんは素晴らしい人で、母も、弟も、祖母も大切にしてくれましたね。
私とは、飲み友達のような関係で、一緒に晩酌するのが楽しくて仕方がありませんでした。
14年前に他界しましたが、今も生きていたら、毎晩一緒に飲んでいたんだろうな。
幸せな思い出をたくさんくれた父にはとっても感謝しています。
就職先では、同期にもめぐまれて、充実した社会人生活をおくることができましたね。
一緒に旅行へいったり、スキーやキャンプ、バーベキュー♪ワクワクする日々でした。
その後、働き始めて6年位したころ、どうしても人と接する仕事したくなり、転職を決意!
正社員で働く前に色んな職種を体験したいなと思い、軽い気持ちで始めたテーマパークでのアルバイトでしたが、この時の決断が、その後の人生を大きく左右するとは思ってもみませんでした。
そして、27歳の時に結婚、28歳の時に発病。
結婚後半年の出来事でした。子供もいませんでしたし、直ぐに離婚を考えましたが当初は相手の方も支えになると言ってくれたので、一緒に戦うことを決めました。
最初に、気になって検査した病院で「問題なし」と告げられて、帰宅。
安心したのもつかの間。数日して結果に誤りがあるので再来して欲しいと電話が・・・。
大きな病院へいって検査を勧められました。
丁度、この病気の専門家が知り合いにいたのでその方を信じて検査をしてもらいます。
結果は恐らく「黒でしょう」と言われましたがセカンドオピニオンで県立がんセンターへもいくことにしました。
県立がんセンターでは、衝撃的な体験をしました。
カルテに目を通した医師が、最初に私にかけた言葉を今もハッキリ覚えています。
「どうして僕のところに来たの?この程度なら10年くらい医師経験のある盲腸の手術ができる医者なら手術できるよ」
当時、その病気の手術では名の通った先生でしたから正直かなり驚きました。
先生は、大したことないよと言うつもりだったのかも知れませんが、切羽詰っている私にはくみ取ることができず、「で、どうしたいわけ?」と言われて、とても診察してくれそうな雰囲気ではなかったのでそのまま病院を後にするしかありませんでした。
そして、元の病院へ戻り、更に詳しい検査が必要だといわれて組織検査。
この、手術後が大変でした。
先生は「そのうち体に吸収されて腫れもひくから大丈夫だよ」そんな風にいっていましたが
患部は腫れ上がり熱をもち痛みも強くてまったく改善しない。
そこで、違う県立がんセンターへ移ることにしたのですが
先生の最初の一言は
「あら?痛いねかわいそうに・・・痛かったねこれは・・・よく頑張ったね」
ここで、我慢していた感情が一気にあふれ出し、初めて涙を流しました。
本当はとっても痛かったし、不安だったからです。
そして、現状は私が前院で聞いたこととは違い血腫が酷くて原発巣からの広がりが分からなくなってしまっていることを知ります。
結局、病巣だったであろう付近を、全摘出手術しなければならなくなってしまいました。
最初の手術で、次の手術の選択肢がなくなってしまったことは、私にとって非常に辛く苦しいことでしたが命と術式の選択ですから仕方がありませんでしたね。
術後の病理検査で詳しい病状も明らかになりました。
早期発見ではないこと、若年性であることから再発のリスクが高いこと
5年後の生存率は若年性のため60?70%程度であることを告げられました。
先生の表情や言葉から死を覚悟しましたね。
入院中の病室では、当時とても珍しい若年性のがんだった為、好奇の目でみられるだけではなく、あれこれ聞いてくる方もいました。
「ステージは?」「結婚しているの?」「お子さんは?」「先生は誰?」「術式は?」中には「それは、私と同じだから5年後には必ず再発するわよ?」なんていう方までいました。
「なんて酷いことをいう人がいるのだろう」驚きにプラスして悲しい気持ちになりましたが、今、思い返すとその方も不安で誰かと同じであることに安心感を求めたかったのかな?
そんな風にも思えます。
退院後は、投薬治療がしばらく続き、日常生活の中でできなくなってしまったことが増えていました。
心中は辛くて苦しくてでも、周りには知られたくなくて。
とにかく明るく元気に振る舞おうとしていました頑固ですね(笑)
でも、1年後位かな?やっと思えたんです。
残された人生が短いとするならば、その時間を笑って顔を上げて生きていきたい。
できないことを嘆いて生きるよりも、できることに喜びを見出して生きていこうって。
そこから私の目標はテーマパークへの職場復帰です。
現実を考えると病院で「やってはいけない」といわれていることばかりの仕事でしたが、
チャレンジしてみてダメだったら違う道を探せばいい!(元職場のみなさん、ごめんなさい)
とにかく戻りたい一心で治療とリハビリをしましたね。
術後2年半で無事に職場復帰。今は発病から12年経ちました!
元気にすごせています。これも病院のみなさんと支えてくれた家族のおかげです。
心から感謝しています♪
こう振り返ると、最初の手術がなかったら現在の担当医にもめぐり合うことができなかった訳ですからすべては、必然なんですよね。
長くなってしまいましたね。
今回も拙い文章にお付き合いいただき、ありがとうございます。
ご縁に感謝と愛をこめて☆茉希拝☆