「新潮45」掲載記事 2/3

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「一緒に死んでくれ」
10月初旬の面会当日。いわき市まで迎えが来て、Jヴィレッジに向かいました。運転する職員の警戒ぶりがひしひしと伝わってきます。私はかねてから思っていたことを聞きました。「吉田所長には側近がいらっしゃいますか」。事故から半年あまり。吉田所長のメンタルがこれだけ安定しているのは、よい側近がいるからに違いない。案の定、1名の名前が挙がりました。3号機爆発直後に、吉田さんが呼び寄せた方だそうです。少し打ち解けたところで、吉田所長はどんな存在か聞いてみました。
「精神の支柱です」
あの方でなければこの状態に持って来れていない。吉田所長だったから、なんとか食い止めて、我々も頑張ることができた。その言葉に私は感動しました。
Jヴィレッジは協力企業の寝泊まりに使われていましたが、私たちの面会のために部屋が用意されていました。まもなく吉田さんもお見えになった。「1人立ち会ってもいいですか?」と紹介されたのが、車の中で名前の挙がった側近の方でした。私としては、自分は何者か、何のために来たか、まずは口上を述べねばと思っていたのですが、その必要はまったくなかった。吉田所長の話が始まり、口を挟むまもなく30分ほど続いたのです。
吉田所長が繰り返し仰っていたのは、とにかくもっと現場の声を聞いてもらいたい、ということでした。メディアは正確に伝えていない。しかし、特定のメディアだけ自分が語るわけにはいかない。
そのもどかしさのようなものが伝わってきました。それと、「同僚たちが凄かった自分は何もしていない」ということも強調されていました。
やっと一息ついたところで、「私にもそろそろ話をさせて下さい」と断って、まずは現場の方々のご苦労に心から感謝しているということ、国民を代表して御礼を申し上げたいと言いました。それで私の仕事は半分済んだようなものです。側近の方にも、よく支えて下さいましたと申し上げました。吉田さんはその方に「一緒に死んでくれ」と電話したのだそうです。すぐにヘリコプターで向かったけれども、線量が高くて最初はUターンせざるを得なかったとも聞きました。
最初の1週間は本当に地獄だったそうです。そういう極限状態の中で、各号機の間を何度も往復した部下たちがいた。
吉田さんは「地獄で菩薩を見たような思い」と表現しました。吉田さんは曾祖父が仏教に縁があり、若い頃は「坊主になりたかった」ほどで、仏教に造詣が深い。
官邸及び本店の対応の遅れには、「もっとできることがあった」と悔しそうでした。吉田所長は徹底して現場サイドの人です。生きるか死ぬかに直面した南極観測隊の隊長のようなリーダーシップを感じました。「逃げ出そうとは思わなかったんですか」と敢えて聞いてみました。「うん、一度も思わなかったですね」とさらりと即答されたのが印象的です。
面会の最後に、免震重要棟に入れて下さいと切り出しました。私も自由になる時間は
月に2日くらいしかないが、その2日を使って現場の方々のお役に立ちたい。
メンタルケアのボランティアとして入れてもらえないか、とお願いしました。
しばらく考えた後で、自分の責任でとOKをいただきました。
残念ながら11月末の初訪問の直前に病気で退任となり、免震棟での再会はかなわなかったのですが、高橋毅新所長にも引き継いで下さり、毎月1回通っています。言うまでもなく、金銭的関係は一切ありません。
現場所員から聞いた話は表に出さないという約束なので、個別のことは話せないのですが、現場で踏ん張っている人たちが、とても気の毒な状況に置かれている。
東京電力のマークの入った洗濯物は外に干せない。自ら被災しているケースも
多いのですが、家族が避難所で白い目で見られる。一時帰宅の際に、家族に迷惑がかかるからと、家に上がらず車の中から言葉を交わしたという話もあります。
そういう現実や吉田所長の思いを伝えたい。
そもそも福島第一原発の事故収束なしに、福島の復興も日本の未来もない。
にも関わらず、福島への関心は急速に薄れつつある。なんとかしなければという思いから、去る8月11日に福島でイベントを開き、吉田さんにビデオでしていただいたのです。政府事故調の報告発表までは出さないで欲しいということでこの時期の公開になりました。

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