Fw:わもんな言葉69−人が走り出す《わもん黒帯四段: サノトモ》 Posted on 2014年3月14日 by やぶちゃん ▼SNSでシェアをしてやぶちゃんを応援しよう![?] 以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。 やぶちゃんに出会う前からです。 自分が書いているブログ内の未完了記事のひとつ(^-^;) 今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。 「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。 冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。 そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。 そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。 『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』 ■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。 以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。 「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」。 最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。 「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。 「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。 一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。 「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。 主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。 「私」が離れて、「人」が主語になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。 (興味がある方は以下もご参照ください) ・『(ら)れる』のコーチング論(1)−受身・被害・自発・可能・尊敬 ・『(ら)れる』のコーチング論(2) サノトモ
Fw:わもんな言葉69−人が走り出す《わもん黒帯四段: サノトモ》
以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。
やぶちゃんに出会う前からです。
自分が書いているブログ内の未完了記事のひとつ(^-^;)
今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。
「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。
冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。
そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。
そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。
『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す
ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。
以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。
「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」。
最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。
「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。
「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。
一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。
「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。
主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。
「私」が離れて、「人」が主語になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。
(興味がある方は以下もご参照ください)
・『(ら)れる』のコーチング論(1)−受身・被害・自発・可能・尊敬
・『(ら)れる』のコーチング論(2)
サノトモ