Fw:わもんな言葉69−人が走り出す《わもん黒帯四段: サノトモ》

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以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。

やぶちゃんに出会う前からです。

自分が書いているブログ内の未完了記事のひとつ(^-^;)

今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。

「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。

冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。

そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。

そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。

『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す

ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。

以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。

「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」。

最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。

「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。

「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。

一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。

「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。

主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。

「私」が離れて、「人」が主語になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。

(興味がある方は以下もご参照ください)
 ・『(ら)れる』のコーチング論(1)−受身・被害・自発・可能・尊敬
 ・『(ら)れる』のコーチング論(2)

サノトモ

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