Fw:わもんな言葉118−あの手・この手・千手観音手《わもん研 究所所長: サノトモ》

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以前、沢庵禅師の『不動智神妙録』からの引用を使って「わもんな言葉」を書いたことがありました。

「わもんな言葉8−わもん聴覚」です。

実は、その引用部分の前後には、千手観音について書かれています。

「わもん聴覚」での引用部分も含めると、以下の文章です(池田諭さんの訳です)。

“千手観音だとて、手が千本おありになりますが、もし、弓を持っている一つの手に心がとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役にはたちますまい。一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つのです。
いかに観音とはいえ、どうして一つの身体に千本もの手を持っておられるかといえば、不動智を身につけることができれば、たとえ身体に千本の手があったとしても、立派に使いこなせるのだということを人々に示すために作られた姿なのです。
たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
このことを悟った人は、つまり千手千眼の観音と同じです。”

一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つ。

一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見える。

さて、「あの手・この手・千手観音手」。

ありとあらゆる手を打つことを意味します。

そのうちの一つの手に心をとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役には立たないのかもしれません。

たとえば、何かしら一生懸命、ありとあらゆる手を打って出した結果があるとします。

のちのち、その結果が出たときは、この手が一番有効だった、と振り返ります。

次に同じような結果を出したいときに、一番有効だった手しか打たなかったらどうでしょうか。

おそらく同じような結果はでないのではないかと思います。

振り返りは大切ですが、一つの手にとらわれてしまうと、残りの手が役に立ちません。

「あの手・この手・千手観音手」を、いつでも・どこでも・誰にでも。

《わもん研究所所長:サノトモ》

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