Fw:わもんな言葉11−心の矢印《わもん黒帯: サノトモ》

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森博嗣さんの本はミステリから読み始めたのですが、最近はエッセイの類が好きです。

現在のベストは『自分探しと楽しさについて』。

「自分」と「楽しさ」について、この2つがほとんど同じものだという考えが、私にとって新鮮な考えで、面白く思いました。

この『自分探しと楽しさについて』からの一節。

「自分」を見つめることは、多くの場合、「他者は自分をどう捉えているだろう」とか、「自分は他者に対して何ができるだろう」というように、実は他者と自分の関係について考察することである。本当に自分だけのことについて考えるのは、かなり難しい。ほとんどできないといって良いだろう。自分にだけ集中すると、自然や他の生き物といった「自分以外」に考えが及ぶが、それらも排除すれば、最後は「無心」に近い情態になるのではないか、とも思える。

私は、「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という箇所から、京極夏彦さんの『塗仏の宴 宴の支度』の文言を思い出します。

不自由あっての自由である。

この文言を読んだときは、ハッとしました。

「自由」という概念というのは、「不自由」だったから生まれたのだと思います。

何かしら抑圧された状態、制限された状態から「自由」を求めたのではないかと思っています。

つまり「不自由」の方が先にあった。

不自由あっての自由です。

しかし、言葉の上では、「自由」が先で「不自由」が後です。

「不自由」という語は、「自由」という語に、打消しの「不」という語を伴ったものです。

「不自由」な状態から、「自由」を求め、「自由」という言葉ができ、「不自由」という言葉ができた。

私にとっては、興味深い発見でした。

冒頭の「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という文言は、「不自由あっての自由である」と同じ構造をしているように思います。

そして、「わもん」での「心の矢印」を自分に向ける、ということも。

「自由」に矢印を向けて「不自由」があるように、「自分」に矢印を向けて「他者」があるように、「聞き手」が自分に矢印を向けることで、自然と「話し手」が浮かび上がるのです。

《わもん黒帯:サノトモ》

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