Fw:わもんな言葉111−自我《わもん研究所所長: サノトモ》

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ときどき「私」とはどこまでが「私」なのだろうということを考えます。

たとえば、爪を切ったとき。

切った爪はごみ箱行きとなりますが、その爪はもともと私の一部でした。

しかし、切った後は私ではないと感じます。

髪の毛も同じで、切り落とされた髪の毛はもう私ではないと感じます。

ちょっとグロテスクな表現ですが、腕を切り落としたらどうだろう、足を切り落としたらどうだろう、どこまで私でいられるのだろう、というようなことを想像したりします。

私と私以外の境界はどこにあるだろう、と。

逆のことも考えます。

話している言葉や音、行動やしぐさなどで性格などがわかります。

これらも私の一部になると思います。

ならば、ペンで紙に何か書いているとき、ペンは私の一部になるだろうか、紙はどうだろう。

食べ物ならば、口に入ってきたときは私ではないかもしれませんが、消化吸収されると私の一部になります。

それでも「私」というまとまりは感じることができます。

明確な境界線を引けないだけです。

もしくは、そのときそのときで境界線が違っているだけだと思います。

以下は本川達雄さんの『生物多様性』の中の一節です。

“本書で提案したいのは、空間の上でも時間の上でもまわりと切れてはおらず、次世代や環境という時間的空間的なまわりをも取り込んだ〈私〉観です。まわりとの境界がはっきりせず輪郭がぼやけているのですが、それだけ広い範囲を含むものです。粒子説と波動説という物理学での二つの立場にこじつけて言えば、粒子的ではなく波動的な〈私〉観。バイオリンの音色のように、音は弦の振動も胴の振動も、まわりの空気の振動も、それに部屋の振動も、聞き手の鼓膜や蝸牛中の基底膜の振動も、すべてが関係してつくられている、そんな感じのものが〈私〉なのだというのがイメージです。”

まだまとまってはいませんが、粒子的な〈私〉観が「自我」あるいは「浅我」と、波動的な〈私〉観が「深我」と関わっているような気がしています。

《わもん研究所所長:サノトモ》

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