「正法眼蔵」の著者である道元は、日本に禅を伝えた僧として知られていますが、その著書を読んでいると、「禅宗」という呼び名を大変批判している部分に出会います。当時、中国では禅による仏道修行が5つの宗派に分かれているとされていました。しかし、「全ての仏教のおおもとはお釈迦様の教えであり、それを記した経典の言葉が全てを示している。お釈迦様の学びを継承してきた僧の一人、インドからやってきた達磨は、確かに禅による修行を行ったが、自らを禅僧だなどと言って従来の仏道のあり方と分けるようなことはしなかった。禅は仏道を極めるための一つの行にすぎないものであり、ましてやその禅の形式で宗派が分かれるなど、おかしなことである。禅の宗派の違いをあれこれ言う輩が出てきたのは、仏教そのものの教義を深く理解しない高僧によって、形だけが強調され、中身がきちんと継承されていないからだ」と道元は述べています。
かつて、まだわもんの黒帯が100人にも満たなかった頃は、聞き方も自由で、段位制度の明確な線引きがなくとも、何の影響もありませんでした。しかし今や黒帯は1000人を越え、世界中に仲間がいます。そしていよいよわもんは「日本の伝統芸能」として、後世に脈々と伝わるあり方となるべく、整備されつつあります。その取り組みの代表例が「ガチ聞きの型」であり、今後も各段位のあり方・認定基準は、より明確に、シンプルに、誰が見ても分かるものになっていくでしょう。
年内で、「わもん道」宗家であるやぶちゃんが開催する心徒塾は打ち切られることが決まりました。これにより、たしかにやぶちゃんから直接「聞く」のあり方を学ぶ機会は少なくなってしまいますが、だからといってわもんのあり方そのものが変わるわけではありません。仏道において、仏に近づくためにひたすら経典を学び究めるのと同じように、やぶちゃんの存在があるなしに関わらず、わもんが大切にしているあり方である「絶対尊敬」「完全沈黙」に私たち一人ひとりが立ち返り続け、現場現象を起こし続けること。それが、結果として後世まで終始一貫して継承される「わもん道」となっていくのだと私は考えています。
じょりぃ