神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』の「患者の身になる技法」を読んでいて、ふと思い出したことです。
思い出したといっても、はっきりとは思い出せず、世阿弥の『風姿花伝』の中に、役になりきるというような部分があったな、といった類。
で、探してきた言葉が以下です。
手元にある岩波文庫版の『風姿花伝』は校注のみで現代語訳がなく、また漢字も旧漢字で読みづらかったので、昨年出版された講談社学術文庫版『風姿花伝』も手元にあります(が、未読)。
該当の個所を探したところ、岩波文庫版は旧漢字、講談社学術文庫版はカナで書かれていました。
読みやすくするために、漢字を常用漢字(当用漢字?)にして、旧仮名遣いで引用します。
物真似に、似せぬ位あるべし。物真似を極めて、その物に、まことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白きところばかりを嗜めば、などか花なかるべき。例へば、老人の物真似ならば、得たらん上手の心には、ただ、素人の老人が、風流、延年などに、身を飾りて、舞ひ奏でんが如し。もとより、己が身が年寄りならば、年寄りに似せんと思ふ心あるべからず。ただ、その時の、物真似の人体ばかりをこそ嗜むべけれ。
例えば老人の物真似(演劇でいうと、老人の役)で、それを極めると、老人に「似せよう」あるいは「なろう」と思うような心がなくなる。
極めている人はもう老人そのものなので、老人に「なろう」という気がない、ということです。
その位を「似せぬ位」といっています。
そしてまたふと思い出します。
学習の理論だったか、モデルだったか忘れましたが、学習の段階として4つの段階があるということをが頭に浮かびます。
最初の段階は「無意識の無能」
簡単にいうと「できないことを知らない」状態です。
次の段階は「意識的な無能」
「知ってはいるができない」状態。
3つ目の段階は「意識的な有能」
「やろうと思っていたらできる」状態。
最後は「無意識の有能」で、「無意識にできる」状態。
『風姿花伝』の「似せぬ位」と、学習理論(?)の「無意識の有能」がつながります。
「患者の身になる技法」、話を聞くことに当てはめると「相手の身になる技法」の極みは、「似せぬ位」。
「わもん」でいうと「話聞一如」の状態です。
《わもん黒帯:サノトモ》