
【2012/07/18 沖縄タイムス】
沖縄タイムスに…
何が?
はぎえちゃんから、写メが届きました!
次なるアップを楽しみに…(*^_^*)
好評(!?)だったため、調子に乗ってストックを連投しています。
今回のテーマは「離我」です。
「わもん」と出会う前に読んだものですが、「離我」という言葉のイメージから連想した場面です。
無響室で自分の心臓の鼓動を聴いた。胸の上に聴診器めいたマイクをあて、機械が体内音を拾いあげて、密室の中央に横たわるあたしの外部から、スピーカーで聞かせる。猫のお腹に耳をあてるよう。ただ、移動している感覚がある。猫のばあいにはそれはない。スピーカーの配置とコンピュータ・プログラムの細工。心臓が外側にあるのではない。あたしが要するに、中心を喪失している感覚だった。肉体からの遊離。あたしがきわめて精神的な存在となる。幽体離脱とはこういう感じだろうか。聴力に集中して、肉体を――重さのある肉体を喪失する。
引用元は、古川日出男さんの『沈黙』
「離我」という言葉を聞いたとき、古川日出男さんの小説の場面が浮かびましたが、どの小説か思い出せず、そのままとなっていました。
先日より少しずつあたりをつけながら手持ちの本を読んでいましたが、やっと発見。
実際、どんな音なのでしょう。
自分自身の内部の音が、外部から聞こえる感覚は。
仕事柄、自分の声を録音したものを聞くことがときどきあります。
自分が発する声と録音されて流れる声は違って聞こえます。
骨伝導、でしたっけ?
初めて自分の声を聞いたときは、「これが自分の声?」と、おそらくは誰もが違和感を持つと思います。
私は自分の心音を聞いたことがありません。
しかし、もちろん心臓が動いていることを感じたことはあります。
外から感じ取ることができたなら、かなりの違和感を感じるのではないかと想像します。
そして、タイミングよく(!?)「へその緒周波数交流」という新語。
聞く匠:やぶちゃん@wamonyabuchan
【わもん入ってる】聞くとは…へその緒周波数交流という新語が名古屋で誕生しました 。 #わもん
2012年6月6日
思えば、胎児のときは母親の胎内で、母親の心音を内部から、自分からすると母親の心音を外部から聞いていたのですね。
そのときの感覚は……、さすがに記憶にありません。
書籍『わもん』には、次のような言葉があります。
まずは、「話し手の心臓の音を聞く」「鼓動を感じる」という感覚をもってみるとよいと思います。
……(中略)……
心臓音は、話し手の命がそこにあることのあかしです。「命の音」と言ってもよいでしょう。それを聞くことは、「命を聞く」ことだと思います。
私は、話し手の「命の音」も、自分自身の「命の音」も、まだ聞いたことがありません…。
全く別のことですが、今回、『沈黙』を再読するにあたって、次のような言葉も見つけました。
あなたの人生のアウトラインを示す情報は受けとっていた、あとは――ここで、あなたの人生に波長をあわせる。どんな音のエレメントが必要なのかは――推理と、直観だった。
これも「わもんな言葉」だと思います。
《わもん黒帯:サノトモ》
『幸せの法則』〜許すということ〜 ◆相手の立場に立つ
◆未来を信じる
◆今を生きる
◆感謝する
◆手離す 私の体験から、過去のネガティブな体験を許すためには上記5つを組み合わせた法則を実践する必要がありました。 文字だけみると、普段から意識して行動している方も多いかな
これを出来ないから苦しんでいるという方も多いですよね 私も、そうでしたが体験したことが過酷であるほどこの法則を意識して行動へ移していくことは、それを上回る苦しみかもしれませんが、必ず乗り越えられます。 どのように、乗り越えたかを書く前にどのような体験だったのかを書いていきます 『父親の暴力と中学2年からのいじめ』 物心をついたときには、すでに私にとって父親は恐怖の存在でした。
帰宅した父の車の音は、避難の合図でしたね。直ぐに部屋へ駆け込んでいました。
逃げられないんですけどね(^-^; 私が小さいときは、直接の暴力ではなく、言葉や周囲との接し方で恐怖を感じていました。 父は、自分の思い通りにいかないことがあると、相手や場所など一切関係なく
怒鳴り散らしてましたね。
いま振り返ると父親の感情のほとんどは
怒りと、悲しみに溢れていました。
(今でも怒鳴り声・・・大きな声は苦手です) 私が成長するにつれて、徐々に身体的暴力が増えてきましたね…。 物が飛んでくるのは日常茶飯事。
棒などで叩かれたり、気に入らないことがあると、私や姉弟が大切にしてる持ち物を持ちだしてきて目の前でメチャメチャに壊すなんてことも…。
弟の大切なオモチャを粉々にされたときの
ことを思い出すと、弟の泣き顔がよみがえって何十年経っても涙が溢れていましたね。 この家庭環境にプラスして
中学2年から卒業まで「いじめ」を体験しました。 それまでは、普通に友達もいて活発な子供でした。かなりのオテンバでしたから恐らく、誰かが私の気付かないところで嫌な思いをしていて私が撒いた種がそこへ来て
突然咲いてしまったのかな。
そんな風にも思えます。 長くなったので
続きはまた…。
高橋茉希(たかはし まき)
源泉わもんセミナーのお申し込みは、こちら→www.21smilesgarden.jp/
【わもんな言葉2−音を聞く】
勝手にシリーズ化しようとしている「わもんな言葉」です。
シリーズ化とはいえ、不定期な更新ですので、ご了承ください。
とはいえ、「わもん」の提唱者である、やぶちゃん(藪原秀樹さん)から、ツイッターで励ましの言葉をいただいたのはありがたいかぎりです。
さて、「わもんな言葉」についてですが、あくまで「わもんな言葉」です。
「わもんの言葉」とは異なります。
私は本を読むことが好きで、本を読んでいると「あ、『わもん』だ」と思うような文章がときどき見つかります。
「『わもん』は実用学」なので、おそらくは「わもん」を探せば至るところにあるのでしょうが、私にとっては本を読んでいるときに気付くことが比較的多いような気がします。
そこで、私が「『わもん』だな」と感じた文章などを紹介していこうという試みです。
なので、「それは違うだろ!」というようなものもあるかもしれませんが、ご容赦ください。
今回のテーマは「音を聞く」
結城浩(著)『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』の登場人物エィエィの言葉です。
「ときどき《音楽がわからない》という人がいる。うまく言葉にできひんことをすべて《わからない》と片付ける人やな。音楽を、そのまま味わおうとしぃひん。言葉にできなくてもいいんや。言葉にならんから、音にしてるんやから。言葉にしたがる人は、音を聞いてへん。言葉を探してばかりで、演奏者が生み出した、かんじんの音を聞いてへん。音が響く時間を、音が広がる空間を、味わってへん。言葉探すな、耳をすませ!
……ということや」
エィエィが音楽について力説しています。
「言葉にならんから、音にしてるんやから」
「わもん」では、話を聞くとき、言葉だけでなく、音も聞くことが大切です。
音の高さや調子、大きさなど、言葉の意味だけではなく、その言葉に載せている音も感じ取る。
音だけでなく、表情やしぐさ、視線や身じろぎ、など。
非言語的なものを含めて「わもん」コミュニケーションです。
言葉にはできないもの、ならなかったものが、口調や声の高低、音量や音階、表情や態度に現れているのではないかと思っています。
「わもん」はそれらも「感じろ」と。
私自身はまだまだ修行の身ですので、なかなかこの域まで感じることができませんが、「言葉探すな、耳をすませ!」…ということです。
《わもん黒帯:さのとも》
2-5 ご褒美をあげる
ここまで、ダイエット習慣を継続する為に、私のオススメの感情コントロールを書いてきました。
これも感情コントロールのひとつです。そして誰もが大歓迎、簡単で嬉しいコントロールの仕方です。
タイトルの通り、自分にご褒美をあげるという方法です。
どんな時に?
一週間で落とす目標体重を達成した時?
ランニングで10kmの自己ベストを更新した時?
いえいえ、もっともっと。。。すぐにできることです。
10kmラン中の5km地点で、ジュースを1本!その後の10kmラン終了後にジュースを1本!
それって、水分補給じゃないですか?と思った人、そうです確かにただの水分補給です。
しかし、炎天下の中、ランニングをして、喉がカラカラになり、休憩地点までガマンして、ガマンして、ガマンした後に、ジュースで喉を潤します。これって最高のご褒美ではありませんか。その休憩地点に到達することがワクワクします。それまでの喉をカラカラにして走るという行為がなければ、絶対に味わうことのできない喜びです。
だから、ご褒美なんです。頑張ったご褒美ですから、堂々と受け取ってください。
このように、ひとつの運動の中でも目標を小刻みに設定して、小さなご褒美をその都度贈っていくとモチベーションを高く、維持することができると思います。
お気づきだとは思いますが、私がお伝えしたいのは、ご褒美でもそうでなくても、しなくてはならない行為なら、プラスに解釈してやりましょうということです。
水分補給というのは、運動中特に夏にはやらなければならない、健康上必要な行為です。
もちろん、本当に喉も渇くわけですが、同じことをするなら、水分補給とドライに捉えるのではなく、ご褒美としてと捉えて、モチベーション維持の感情コントロールに利用しないともったいないと思うのです。
ご褒美は、受け取るタインミングとその事前の行為で、衝撃的な効果をだすことがあります。
例えば、2010年の7月に初めて小布施見にマラソンに参加した時のことです。
2月くらいから練習をしていたのですが、色々な事情で直前の一ヶ月、ほとんど練習ができませんでした。
初めてのハーフマラソンで、炎天下、練習も不足していたため、5kmくらいから歩き出してしまいました。
とてもとても、長い21kmでした。あまりにも暑く、苦しくて、もう今年だけでいいやと思いました。
一回参加したらもう十分だと思ったのです。
そう思って、走っていた(歩いていた?)18km地点です。まだあと3kmもあると思ったところで、なんとアイスを配っていたんです。何種類か配っていたんですが、私が受け取ったのは忘れもしません。パピコのコーヒー味です。冷たくて喉が癒されてすごく幸せな気持ちになりました。パピコは2つに分かれているので、ひとつなくなってももうひとつ
あります。なんとも幸せな気分です。
ゴール後、やぶちゃんにマラソンを勧めたという家具の大正堂、渋谷社長に、「来年も18km地点のアイスを食べるために参加します。」と宣言しました。
小布施の夏の、あの18km地点で、しかもパピコのコーヒー味が最高のご褒美!
その為に、毎年参加したいと思っています。
あまり、ご褒美、ご褒美といって、口に入れるものを増やすとせっかくのダイエットが、と心配になる方や、少しゆるいのでは?と思われる方も、中にはいらっしゃるかもしれません。
感情をコントロールして気分よく、継続していくことがわもん式ダイエットです。
全てに優先して気分よく行うことを大切にしていただきたいと思います。
ここまで継続する感情コントロールということで、私が実践してきたことを紹介してきました。
?不快適領域に足を踏み入れる。
?効果が出ない時はアプローチを変える。
?痩せ続けていると思い込む。
?制約の中で十分に楽しむ。
?ご褒美をあげる。
あくまでも私の例ですが、全て実行できれば、もちろんダイエットは成功します。
なぜなら、効果が出ない時はアプローチを変えながら、成功するまでけ継続するからです。
何度も申しますが、いかに気分よくダイエット習慣を継続していくかということが大切で、その為の取り組み方として、感情をコントロールすることが必要だと思っています。
もちろん私の真似をしていただくのも大いに結構ですし、アプローチを変えて、自分にあったコントロールの方法を見つけていただいてもいいと思います。
感情をコントロールすることができると、目標達成までダイエット習慣を継続していけると思います。
Mr.くろちゃん
【わもんな言葉1】
ジェームズ・ハンター(著)『サーバント・リーダー』の中で、「わもん」のような記述があったのでご紹介。
「積極的に聞くという作業は、頭の中でおこなわれます」。彼は続けた。「積極的に聞くためには、ほかの人の話を聞こうとするあいだ心の中の会話を黙らせておくという、訓練された行為が必要となります。雑音を締め出して、ほんの数分であっても相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力が必要です。積極的に聞くということは、話し手が見るように物事を見ようとすること、話し手が感じるように物事を感じようとすることです。話し手との同一化、共感は、たくさんの努力を必要とするのです」
ここでは、「積極的に聞く」ことについて述べられています。
私たちは何気なく聞いているとき、頭の中ではいろいろなことを考えています。
「何が言いたいのだろうか」
「きっとこういう話だ」
「それはちょっと違うのでは」
「話が長いな」
「今日の晩ご飯は何だろう」
などなど。
「わたしたちは、話すよりも四倍速く考えられるといいます。結果として、聞いているあいだに、たくさんの会話が心の中で雑音として去来します」
積極的に聞くためには、こういった心の中の会話を黙らせておく「訓練された行為」が必要となるとのこと。
「わもん」でいうところの「完全沈黙」ですね。
書籍『わもん』から引用すると、
完全沈黙とは、なにも考えずに、話し手が話を終えるまで聞ききることです。
まず、自分の頭や心をおちつかせ、自分のなかにわいてくる、考えや感情を鎮めていきます。「聞く」というたったひとつのことに、どこまでも集中していくことによって、自分の考えや感情から離れていく感覚です。
そして、話し手に絶対尊敬を贈りながら、どんな話も聞いたままに受けとめていきます。聞き手の「ものさし」(価値判断)はいっさい出しません。話し手の考えや感情を否定しないことはもちろん、賛成もしません。ただ、「話し手はそう思っている」という事実だけを、しっかりと受けとめるのです。
「相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力」
「聞き手の『ものさし』(価値判断)はいっさい出さない」
言葉は違えど、同じことを言っています。
書籍『わもん』には登場していませんが、「離我」ですね。
「話し手との同一化」というのも、わもん用語では「話聞一如」。
話し手と聞き手がひとつになった姿です。
和と洋で同じような言葉が出てくるのはすごいですね。
《わもん黒帯:さのとも》