Fw:わもんな言葉34−年内名人《わもん黒帯二段: サノトモ》『で…サノトモちゃんは、どうよ?( 笑)byやぶちゃん』

2013/ 2/24 15:55

いつの間にできたのか、正確には思い出せませんが、わもん黒帯は「初段」から「七段」まであります。そして、黒帯七段の次が「名人」です。

その「名人」位を年内(2013年)に取る、という方が現れました!

まずはこちら、ヤブログ放送室「年内名人」をお聞きください。
“http://yabuchan.jp/yabubroadcast/2013/03/13/0958/”

私がこの放送の中で「年内名人」という言葉を聞いたとき、まず思ったのは、
「アクセントの滝がひとつだ」ということです。

日本語にもアクセントはあります。

英語のような「強勢アクセント」「強弱アクセント」ではなく、
「ピッチアクセント」「高低アクセント」です。

試しに、以下の4つの単語を発音してみましょう。
わかりやすいように3文字の単語です。

 カラス
 タマゴ
 オトコ(が)
 オトナ(が)

最初の「カラス」は、「カ」の音が高く、「ラ」「ス」の音が低い頭高型と言われます。次の「タマゴ」は、「タ」が低く、「マ」で高くなり、「ゴ」で低い中高型。
3つ目の「オトコ」は、「オ」は低く、「ト」「コ」で高く、その後に続く助詞では低くなる尾高型。最後の「オトナ」は、最初は低く、「ト」「ナ」で高く、その後に続く助詞も高い平板型です。

先ほどの4つの単語の音の高低をまとめると以下のようになります。

 頭高型:高低低
 中高型:低高低
 尾高型:低高高(低)
 平板型:低高高(高)

で、「高」から「低」になるところ、音の高さが下がるところを「アクセントの滝」といいます。

ここで、アクセントの滝を「’」で表すとすると、

 頭高型:例)カ’ラス
 中高型:例)タマ’ゴ
 尾高型:例)オトコ’(が)
 平板型:例)オトナ(が)※何もつけない
となります。

ここで言いたい重要なことは
「日本語では、単語ひとつにつき、アクセントの滝はひとつ(あるいは、ない)」
ということです。

先に「『年内名人』はアクセントの滝がひとつだ」と言いました。
それは「『年内名人』でひとつの単語になっている」ということです。

ヤブログ放送室の中では、「年内名人」という言葉を「きれいな言葉」「美しい四文字熟語」と表現しています。

「年内名人」という言葉は、「年内」と「名人」を合わせた複合語でもあるので、アクセントの滝は「年内」にひとつ、「名人」にひとつあってもいいわけです。
現に、「年内」は「ね’んない」、「名人」は「めいじ’ん」です。
放送室の中でも、アクセントの滝がふたつのときもあります。

語形成の過程で、複合語から単語となるひとつの目安として、アクセントの滝が複数なのか、あるいはひとつ(あるいはゼロ)なのか、ということも言えるかとおもいます。そこから考えると、アクセントの滝がひとつである「年内名人(ねんないめいじ’ん)」はひとつの単語といってもいいでしょう。

2つの単語がひとつになる。
ここに、きれいさ、美しさがあるのではないか。

思えば、わもんでは「聞き手」と「話し手」がひとつになる「話聞一如」の状態を目指しています。

「全体は部分の総和以上である」というのはゲシュタルト心理学の基本テーゼですが、話し手と聞き手がひとつとなったとき、より大きな、より深い話ができるのではないかと思います。

そして「年内」と「名人」がひとつになったとき、これも、より大きな、より深い言葉に…。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉33−自己わもん《わもん黒帯二段: サノトモ》『修身』

2013/ 3/10 16:44

写真は…昨日(3/10)の第54回黒帯心徒塾in京都で10分に渡る長い長い1対Nの二人羽織わもんをクリアーして、7人目となる二段認定直後のサノトモちゃんです(二段仲間の祝福に囲まれて…)

……………………………………………………

儒学の四書のひとつである『大学』に八条目というものがあります。

「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の8つです。

「格物」から「修身」をまとめて「修己」、「斉家」から「平天下」をまとめて「治人」。

儒学は「修己治人」の学問だと言われます。

己を修め人を治める、です。

さて、先日(3/10)の「黒帯心徒塾in京都」で、「修身」という言葉がでてきました。

冒頭の『大学』も頭に浮かびましたが、もうひとつ、昨年読んだ本も思い浮かびました。

『国民の修身』という本で、帯には「戦前の修身教科書を再現!」と書かれていました。

実はこの本、特に「修身」のことを知りたいと思い買った本ではありません。

監修者の渡部昇一さんの名前に魅かれて買った本です。

渡部昇一さんの『知的生活の方法』という本があり、この本は、私が本をよく読むようになったきっかけの本。

その中の最初にシェイクスピアの『ハムレット』の言葉が引かれています。

“最後に、最も大切なる訓……己に対して忠実なれ、さすれば夜の昼に継ぐが如く、他人に対しても忠実ならん。(坪内逍遥訳『ハムレット』第一幕第三場より)”

この本を読んだ頃は、『大学』も読んでおらず、「修身」という言葉も知りませんでしたが、「己に対して忠実なれ」という言葉は頭に残りました。

そして、本日、「修身」という言葉を聞き、「己に対して忠実なれ」という言葉も頭に浮かんだ次第。

『国民の修身』の「修身」とは、今でいう道徳のようなもの。

「修身」は「身を修める」と書きます。

身を修める「修身」、己を修める「修己」、そして「己に対して忠実なれ」

『大学』の八条目の中の、「誠意(意を誠にす)」「正心(心を正す)」にもつながります。

自分の中の不安、疑問は「二人羽織」を通すと増幅されます。

先日の心徒塾では、そのことをまざまざと体験しました。

不安、疑問は、己に対して忠実でないときに湧き上がります。

己に対する不安、疑問です。

己に対して忠実なること、「自己わもん」へとつながります。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉32−エンドポイント《わもん黒帯初段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

3/3(日)、長居公園での「第35回 大阪42.195kmフルマラソン大会」に参加しました。

自身としては、3回目のフルマラソン大会出場です。

初めてフルマラソンに挑戦したのは、昨年のこの大会。

初めての挑戦での結果は、リタイアでした…。

今回の目標は「歩かず走り続けて完走」

2回目のフルマラソン挑戦でゴールすることはできたのですが、かなりの距離を歩いていました。

そこで今回は「走り続けて完走すること」が目標。

そして、走り続けることができれば、4時間半は切れるだろう、と。

が、結果は…、途中で欲が出てしまいました…。

完走はしたものの途中歩いてしまっています。

しかし、自分の現在の力を出し切った感はありますので、結果には納得しております。

さて、長居公園での、このフルマラソンは、1周2,813mを15周する周回コース。

給水所は1か所ですが、周回コースなので15回あります。

1周目、快調に走ります。

しかし、少しペースが速い。

キロ5分30秒くらいで走っていました。

2週目・3周目…と、「もう少しペースを落とそう、キロ6分くらいで走ろう」と思いつつも、「このままでもいけるかも」と別の声が聞こえてきます。

給水を小まめに取りつつ、キロ5分45秒〜50秒くらいで走っていました。

そんな調子で8周くらい走っていましたが、太ももの筋肉がかなり張ってきました。

ちょっとペースは落ちたものの、まだ走れる感はありました。

で、残り4周となったところで時計を見ると、3時間5分という表示。

「1周15分で走れば、サブ4目前!」

悪魔の声(?)に乗ってしまいました…。

ペースを上げます。

残り3周というところの途中で、膝がきました…。

無理して走ると痛くなるやつです。

ここでは素直に歩きに切り替え。

そして歩いたり走ったりしながら、ラストの1周は走ってゴール。

歩かなければ…という感はありますが、まあそこは今の実力か、とも思います。

「エンドポイントに向かっていかにハンドリングするか」

今回のエンドポイントは「歩かずに走り続ける」ということだったはずなのに、そこに「悪魔のささやき」が入り込んだ結果、ちょっと無茶してしまいました。

「直感」と「悪魔のささやき」の区別をつけることができていなかった、ということです。

区別をつけるには、いかに自分のことを信じ切れるか。

「いけるかも」ではなく、「いける」と思ったならば、いってもいいのかもしれませんが…、う〜ん、難しい。

まだまだ修行が足りません。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉31−野生《わもん黒帯初段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

「わもんな言葉」へようこそ!

今回はサノトモが自由に語ります!

さて、やぶちゃんからお題がきております。

お題は「野生」

ヤブログ放送室『わもんの現場』で述べられているようなことではなく、サノトモの切り口で語ってほしい、とのリクエストです。

サノトモの切り口となると、まずは言葉から、となります。

「やせい」という漢字は2種類あります。

「野性」と「野生」

ここでは後者の漢字の方です。

野に生きると書いて「野生」です。

「野生」ということ考えると、野生動物、野生植物という言葉(カテゴリ)がありますが、野生の人とはどんな人でしょうか?

誰しも、どこかしらの野(フィールド)で生きています。

そこは、自分が選んだ場所かもしれませんし、やむを得ずいる場所かもしれません。

自分のいるその場で、自分のできることをして生きている人、それを「野生」というのかもしれません。

「草莽崛起」とは吉田松陰の言葉。

「在野の人よ、立ち上がれ」という意味です。

本日、第3回わもん黒帯特典シークレット講座に参加してきました。

テーマは「天職と使命」

勝手に思っていることですが、「生きる」というのは「いき・きる」から来ていると思っています。

残りの命を使って、どこに向かって行くか?

今いる場所で立ち上がり、死んだときに「生ききった」と思えるような生き方を!


Fw:わもんな言葉30−トップランナー《わもん黒帯初段: サノトモ》

2013/ 2/10 18:09

やぶちゃんのブラックバンドには、「トップランナー」の刻印があるとのこと。

すべって、確認できておりませんが…。

それはさておき。

先日よりやぶちゃんねるの《やぶちゃんマインド一日一語》でトップランナーのあり方が掲載され始めました。
yabuchan.jp/yablog/2013/02/20/000133/

そして、ちょうどその日、『講孟箚記』の中に以下の言葉を見つけます。

“「己を枉ぐる者は、未だ能く人を直くする者あらざるなり。」
此の語、誠に切実と云ふべし。全章の議論、此の一転に至り、皆是脱卸するなり。世の政を為すもの、大抵己が身心に原くることを知らず。文武を興し節倹を崇み廉恥を励ますなど云ふ類、号令篠の如く下れども、悉く皆張釋之が所謂具文となり、毫も其の効なき者は、人心は上の令に従はずして、上の好みに従ふものなるを以てなり。今、在上の君子、真に能く斯に心付き、晏安偸惰の欲を絶ち、身を戦場に置くの思ひをなし、以て率ひ先んずるときは、令せずして下民自ら従ふべし。”

『講孟箚記』というのは、吉田松陰が獄中で囚人相手に行なった、『孟子』講義。

「己を枉ぐる者は、未だ能く人を直くする者あらざるなり」というのは『孟子』滕文公下の首章にある言葉です。

「自分を曲げる者で、人をまっすぐにすることができる者はいたためしがない」というような意味ですが、松陰はこの言葉を評して「誠に切実といわねばならない」と言っています。

意訳すると、「世の中で政治をなす者は、たいてい自分の身心が根本であることを知らない。いろいろな命令を下しても、形だけで少しも効果がない理由は、人の心はお上の命令には従わず、お上の好みに従うものであるからだ。今、上にいる為政者が、真にこの心に気付き、楽をしたい怠けたいという欲を断ち、戦場に身を置く思いで、率先してするならば、命じなくとも民は自ら従うだろう。」というような意味です。

松陰は政治の話を出していますが、トップランナーのあり方はここにあります。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉29−バタフライ・ミッション《わもん黒帯初段 :サノトモ》

2013/ 2/10 18:09

ヤブログ放送室『黒帯10人誕生』 ”http://yabuchan.jp/yabubroadcast/2013/02/13/1944/”

この放送を聞いて、思い出した話があります。

それは、アナロジー(類推)の力を紹介する話です。

出典は…、忘れてしまいました(^-^;)

ただ、いろいろなところで読んだり聞いたりしてます。

まずは、問題1。

腫瘍を取り除く方法で、外科手術はできず、レーザー(放射線?)を使って治療するしかない状況。

しかし、腫瘍を破壊するための強さのレーザーを使うと、他の健全な部分も破壊してしまう。

健全な部分を破壊せず、腫瘍だけを破壊するにはどうするか?

という問題です。

そして、問題2。

お城を攻めようとしています。

そのお城へ攻める道はいくつもあるけれども、その道は少人数しか通れない。

お城を落とすためには大人数で一気に攻めなければならないが、どうしたらいいのか?

問題1だけ見せられて解答できなかった率よりも、問題2を見せてから問題1を見せたときの解答率が高かった、という話です。

ヤブログ放送室『黒帯10人誕生』の中では、いろいろな例え話がでてきますが、「レーザー照射」の例え話が出てきます。

思い出した直接的なきっかけは、この「レーザー」とか「照射」とかの単語だとは思いますが、イメージの連鎖は続きます。

心ある一人。

バタフライ効果、ミッション。

ロックオン。

黒帯が10人も誕生したのは、その場の一人ひとりが自分なりの翅をパタパタと動かし、それがひとつに集中した結果なのではないか。

そんな気がしています。

となれば、黒帯が増え続けていくと、どんなことが起こるのか。

楽しみです。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉28−枠を外せばワクワクする《わもん黒帯初段 :サノトモ》

2013/ 2/10 18:09

最近、思い出した話があります。

北村薫さんの『謎物語』に掲載されている話です。

“ テレビで、ディズニーのアニメをやっていた。子供が見ている。
犬のプルートが、りすのチップとディールを追いかけ、せっかくのクリスマスツリーを倒してしまう。ミッキーがおなじみのかん高い声で叱る。
――駄目じゃないかっ、プルート!
 そこで、
「プルート、口惜しくないかねえ」
といったら、子供はきょとんとしている。注釈してやった。
「ねずみに飼われてさあ」
 受けた。それからしばらく、ミッキーとプルートの物真似が流行った。子供がいう。「――駄目じゃないかっ、プルート! ――何だと、ねずみのくせに。ガウ、ガウ」下剋上。パニックに陥るミッキー。「――あ、こら。どうしたんだ、プルート。何をするんだ、やめろ、やめろっ」
 声色が案外うまいので(ミッキーファンの方には申し訳ないが)、これが、かなりおかしかった。

このような話が好きです。

ミッキーファンの方には申し訳ありませんが。

そして、北村薫さんは続けます。

先述のミッキーとプルートの物真似を、子供があきもせず演じたのは、

“示された見方、切り取り方に意外性があったからだろう。今まで当然のものとして受け入れて来たことに異論が唱えられた――そこに不思議な面白さを感じたのであろう。”

今まで当然のものとして受け入れてきたこと。

これは、ひとつの「枠」だと思います。

その枠に異議が唱えられ、不思議な面白さが感じられる。

ワクワクする。

よくわかります。

しかし、北村さんの言葉はまだ続きます。

“しかし、考えてみると、不思議なのはどちらか。”

りすの姿で木のうろで生活するが、人間ように思考し会話するチップとディール。

ミッキーは服を着て人間の生活をしていて、プルートは首輪をしてミッキーに飼われている。

プルートと同じ犬であるにも関わらず、グーフィーは服を着て「あっひはー、ミッキー」などと登場する。

“ これだけ複雑な《人間関係》を子供は、すらりと受け入れている。いや、誰でもそうだろう。
 わたしは、それが《当たり前》であることに感嘆したのである。そこで、つい、《お前たち、すごいことやっているんだぞ》というのを、別の形でいってしまったのだ。”

現実の枠から物語の枠へ。

物語の枠から現実の枠へ。

「枠」それ自体は善くも悪くもなく、必ずあるものかと。

その枠を認め、ときには枠から外に出ると、ワクワクが湧くのかもしれません。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉27−ハト《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

先日、『未来への羅針盤〜源泉わもん〜in大阪1DAY集中講座』に参加し、「源泉わもん」について書きました。

実は、ハトが仕込まれています。

ハトとは何か?

ハトは鳩です。

詳しくは、やぶちゃん生中継「やぶはらニュース(2013年1月18日付)」をご覧ください。

手品(マジック)では、袖から、内ポケットから、ハンカチから、と、様々なところから、意外なところからハトが出てきます。

マジシャンはいつどのようにハトを仕込んだのか?

今まで、本の引用を中心に「わもんな言葉」を書いていたことが多かったのですが、『聴和坐』に参加して「聴和坐」、そして「聴和」という2つの記事を書きました。

「源泉わもん」に参加している当日、やぶちゃんに言われます。

「本の引用ではなく、参加したその余韻で感想みたいに書くのもいいね」

「わもんな言葉は、週1くらいでほしいね」

笑ってやり過ごしますが、ハトが仕込まれます。

――今日、源泉わもんに参加しているな。

――前回の記事から1週間くらいたつな。

あぁ、今回の「源泉わもん」に参加した余韻で――。

と、まあ、こんな感じです(笑)

手品やマジックにはタネがあります。

詳しくは知りませんが、魅せるマジシャンは、おそらく、いろいろなところにタネを仕込んでいて、お客さんの反応や出方によって使い分けているのだと思います。

こうされたら、このタネで、ああされたら、あのタネで、と。

今回は使われないタネもあるかもしれません。

ハトを仕込んでも、そのハトに今回は出番がないかもしれません。

しかし、それはそれでいいのです。

仕込まれたハトも、慌てる必要はありません。

むしろ、おとなしくして暴れない方が、ネタはばれないでしょうし。

自分のペースでも、マジシャンが上手くさばいてくれるでしょう。

書いていると、何だか自分が仕込まれているような気がしてきました(^-^;)(笑)

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉25−とんさき《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

岡山には「とんさき」という言葉があるそうです。

「尖がった先」を略して「とんさき」です。

ちなみに、Googleで検索すると、「がっさき」とも呼ばれる豚の内蔵のことがでてきました(^-^;)

ここでの意味は(もちろん!)違います。

「出る杭は打たれるけれども、出過ぎた杭は打つことができない」と、どなたの言葉かは知りませんが、いろいろなところで聞くことがあります。

何か突出したところは、その人ならではの強み。

強みは武器になります。

尖がった先もまた然り。

「一廉の人物」というのは、辞書でひくと、ある一つの方面ですぐれている人物のこと。

辞書でひいて、「ひとかど」という漢字を「一廉」と書くことを知りました。

「ひとかど」という言葉は、「とんさき」という言葉から連想したのですが、「ひとかど」は「一角」と思っていました(^-^;)

話はズレましたが、ちょっと考えてみてください。

他人と比べると、なかなか「とんさき」を見つけることができません。

たいていのことは、上には上がいる。

勉強にしろ、スポーツにしろ、1位をとれるのは1人だけ。

しかし、私たちは皆、過ぎ去った「過去」とまだ見ぬ「未来」の狭間にいます。

時代の最先端を過ごしています。

自分を省みると、最先端にいることがわかります。

今、ここ、自分が「とんさき」ではないか、と思うのです。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉24−聴和《わもん黒帯初段: サノトモ》

2013/ 1/14 19:07

”吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。”

『論語』の中で有名な言葉のひとつです。

孔子が晩年に自分の振り返った言葉であるとも言われています。

この章句より、年齢を表わす言葉が生まれています。

15歳を「志学」、30歳を「而立」、40歳を「不惑」、50歳を「知命」、60歳を「耳順」、70歳を「従心」。

先日、「聴和坐」に参加したことなどから、『論語』とわもんについて考えています。

『論語』をわもん的に解釈してみるとどうか、というようなことです。

今までの「わもんな言葉」は、わもんでの言葉や考え方をもととして、本の引用等、別の言葉で書いてきたのに対して、今回は逆。

別の言葉をわもん的に解釈してみようという試みです。

学に志し、自立し、迷わなくなり、天命を知り、人のことばを聞けるようになり、そして心のおもむくままに実行しても道を踏み外すことはなくなった。

年齢は別として、わもんとの関連を考えてみると、聞き方の過程のようにも聞こえました。

生き方と聞き方。

共通項は多々あるかと思います。

孔子が学問に志したように、この人の話を聞くと決める。

そして話し手の話に一点集中する。

惑わず迷わず、心の湖面を揺らさず、完全沈黙。

その人の命を聞くことで、そうしてやっと、その人の話が本当に聞ける。

そうなると自分が思うこと、なすことすべてが、話し手につながっていく。

このような境地を「聴和」と呼んでも差支えがなさそうな気がします。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉23-聴和坐《わもん黒帯初段: サノトモ》

先日、「聴和坐」という、本間先生&やぶちゃんのコラボ勉強会に参加してきました。

申し込み時点では、「聴和坐」という名前だけがホームページに出ていただけで、どんなことをするのか、何をするのか、ということは載っていませんでしたが、予定が空いていたこともあり、すぐに申し込みをしました。

本間先生とやぶちゃんがそろっていれば、面白くないわけがない、というのが大きな理由ですが、「聴和坐」という名前にも魅かれて。

聴和坐」の名前を聞いて(見て)思ったことは、当然のことながら「調和」という言葉の「ちょう」を、「聴く」の「聴」とかけている、ということ。

「調和」と「聞く」。

最近、『論語』をはじめとする儒教の四書を読んでいて、その四書のひとつ『中庸』が頭に残っていましたし、わもん黒帯二段の試験(?)として、1:Nの二人羽織わもんというものがあり、ファシリテーション・場づくりのことも考えていました。

そんなときに「調和」という言葉が目に入ります。

その場の調和を取れるようになれば、その場の中庸を取れるようになれば、ファシリテーションは上手くいくかも、と感じます。

また、「聴和坐(ちょうわざ)」から「超技」も思いつきます。

技を超えるもの。

「技を超えるもの」というのは、技でないわけではありません。

「超スピード」というのは、ものすごく速いスピードというような意味で、スピードの一種。

ならば、「超技」というのは「ものすごい技」です。

さらには、「聴和坐」の「わ」は「話」とも置き換えられる、というのもありました。

これらのことから「聴和坐」は、ファシリテーションのものすごい技を体感できるのではないか。

スーパーファシリテーションの勉強会だ、と勝手に想像。

その後、「聴和坐」の概要が公開され、上記想像は変更となりましたけれども(笑)

しかし、当たらずとも遠からず(?)、実際に参加した「聴和坐」のなかで、このような名前になった理由が述べられました。

そして後半には、「バタフライ効果」という言葉が出てきて、「蝶」の「業」、「バタフライミッション」という言葉が誕生!

「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスで台風となる」

現在の社会は複雑になっています。

複雑系においては、無視できるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となるかもしれません。

ひとりひとりの羽ばたきが大きな力となるかもしれない。

個人の働きが、個人を超えて、地球全体への働きとなるかもしれない。

聴和坐」は自分の想像を「超えた」勉強会。

私自身にとっては、英語を学校で習い始めたときから、もともと「言葉」に興味があり、大学では「言語学」を勉強し、そのかたわらで「複雑系」のことにも興味を持っていた時期があり本をいろいろと読み漁っていました。

そのころに『論語』も読みはじめています。

そして、仕事上で「コーチング」のことを知り、本間先生の本を読み、本間先生のツイッターから「笑顔のコーチング」のことを知り、「笑顔のコーチング」で「切磋琢磨」という言葉の語源が『大学』という書物にあることをしり、四書五経に興味を持ち、最近では『孟子』を読んでいたりしています。

また本間先生のツイッターからやぶちゃんのことを知り、「わもん」も知りました。

今まで興味を持っていたことが次々とつながっていき、ハーモニー(調和)となっていったような、そんな感じがしました。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉22−黒帯《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

最近ずっと気になっていた本を読みました。

オイゲン・ヘンゲル述『日本の弓術』です。

通っていた高校には弓道部があり、弓道場もありましたが、私は弓道部員ではありませんでしたし、弓を引いたこともありません。

なぜ気になっていたかといえば、おそらく、最近読んでいる『論語』や『孟子』の影響ではないかと思っています。

『孟子』公孫丑篇には次のような言葉があります。

“仁者は射るが如し。射る者は己を正しくして後に発つ。発って中らざるも、己に勝てる者を怨みず、諸を己に反み求むるのみ。”

矢が的に当たらず、自分に勝った者を怨むことなく、自分自身を省みるということです。

心の矢印を自分に向ける、ですね。

『日本の弓術』では日本の弓術(弓道)について、以下のように述べています。

“弓を射る「術」とは、…(中略)…純粋に精神的な鍛練に起原が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。”

このことを本の中では「射手の自分自身との対決」と表現していますが、この自分自身との対決の本質について、さらに言います。

“射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中ててしかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に深いのである。”

オイゲン・ヘンゲル氏は日本滞在中に阿波先生のもとで弓道を学びました。

その体験をもととして、ドイツで行なった講演の日本語訳が『日本の弓術』です。

中島敦の短編「名人伝」も思い出しました。

『日本の弓術』の中で私が非常にグサッときた言葉が、阿波先生がヘンゲル氏を戒めた言葉です。

“「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」”

いろいろなところでスキルを求めがちです。

もっと上手くするにはどうすればいいか。

効率的に行うにはどうすればいいか。

いい方法はないだろうか。

大半のものごとは「あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする」でもいいかもしれません。

テストを例にとると、合格すればいい、ということならば、スキル(技)は有効だと思いますし、技巧家でもいいと思います。

しかし、真剣に取り組むようなことならば、技巧家で止まりたくはありません。

『日本の弓術』に所収されている小町谷操三さんの「ヘリゲル君と弓」には、阿波先生の「射道について」という放送の要旨があり、そこには「養由基は柳の葉を百歩の外から射抜くこと百発百中であったのに反し、孔子の射は百発成功であった」という話がありました。

そして、「百発百中は凡射であり、百発成功は聖射である」とも。

さて、わもん黒帯は初段から七段まであり、そのあと「名人」「匠」「聖」「玄」とあります。

百発成功は「聖」射であるならば、「玄」はどれほどなのか。

『論語』の言葉を借りれば、
“之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。
之を瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。”
です。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


ストローク・エナジーチャージ《ヤブログ特派員…わもん黒帯初段:ナカジ》

【2012/12/14 小布施中学校1学年 第2回特別授業】

サウンド・チューニング・トレーニングに励む
1年生のみなさん。

やぶちゃんは会場全体を回りながら
一人ひとりに
ストロークを贈っていきます。

「そのうなずき方、いいよ」

「いい表情だね」

「いい姿勢だよ。その調子」

リスニングタイムが終わると、
全体へ向けて

「やぶちゃんが
『いい聞き方だね』と声をかけた方は
自信をもってください。
お世辞は一切言いません」

なかでも
すばらしい聞き方をしていた生徒さん何人かを
みんなの前へ招き……

「どんなことに気をつけて聞いていたのか」
「どんな気持ちで聞いていたのか」

を発表してもらいました。

やぶちゃんは……

一人ひとりが発見した
「いい聞き方」のポイントを
全体で共有しながら……

「感化」を促し……

みんなの「聞く力」を一気に高め……

同時に……

あえてみんなの前で
ストロークを贈ることで……

一人ひとりの心に
エネルギーを宿していくのです。

《ナカジ》


わもんな言葉21-サウンドチューニング《わもん黒帯初段 :サノトモ》

最近はないですが、カラオケに行ったことがあります。

曲に合わせて歌うのですが、私の場合、妙に高い声になります。

多分、キーが合っていないということでしょう。

元々が低い声なので、曲に合わせると高くなるのだと思っています。

カラオケの機械には、キーを上げたり下げたりする機能もついていますが、どのくらい上げたり下げたりすれば自分のキーに合うのかわからないので、触ったことはありません(^-^;)

音楽でキーというのは、その曲の基準音です。

基準となる音のことをキーといいます。

キーが合っていないというのは、先のカラオケの例でいうと、その曲の基準音と私の基準音が合っていないということになります。

ということは、人にもそれぞれ基準音があるということです。

最近、わもんで「サウンドチューニングトレーニング」ということをやっています。”yabuchan.jp/yablog/2012/12/20/213911/

実際に体験したことはまだありませんが、相手(話し手)の音に自分(聞き手)の音を合わせるトレーニングです。

相手のキーに、自分のキーを合わせるトレーニングです。

なぜ話し手のキーに合わせるのか?

ひとつの理由としては、ペーシングの効果と同じことがいえると思います。

キーを合わせることで、話し手は自分のペース、自分のキーで話すことができます。

話し手がキーを合わせようとすることは、冒頭のカラオケの例でいうと、その曲に自分の声を合わせようとすること。

話し手は、どこか無理をしてしまったり、「合っていないな」と違和感を感じたりしながら話すことになります。

ともすれば、自分の話に自信が持てなくなったりするかもしれません。

そのような話し手の心配事を取り除くようにすること、話し手が安心して話をするような環境を作ることが聞き手の役割です。

キーを話題にしたのでもうひとつ。

音楽、曲には、「キー」の他に「スケール」というものがあります。

「キー」は音ですので「ド」「レ」「ミ」など、西洋風にいうと「C」「D」「E」など、和風にいうと「ハ」「ニ」「ホ」などで表します。

「ド」の音は、西洋風では「C」、和風では「ハ」。

で、よく「ハ長調」とか「イ短調」とかあります。

西洋風にいうと、「Cメジャー」「Aマイナー」です。

ここでの「長調(メジャー)」「短調(マイナー)」が「スケール(音階)」です。

「メジャースケール」とか「マイナースケール」などといいます。

「長調」は楽しく明るい調子、「短調」は暗く思い調子、というような印象ですが、スケールというのは、どのような音階を使っているのかを表わします。

「ドレミファソラシド」というのはスケールのひとつで、「ド」を基準音(つまり「キー」)とした「音階(ここでは「メジャースケール」)」となります。

あまり詳しくはありませんし、言葉での説明も難しいですが、基準音の「ド」から1オクターブ高い(あるいは低い)「ド」の間でどのような音を使っているのか、というのが「スケール」です。

ピアノの鍵盤を思いうかべるとわかりやすいかもしれませんが、「ド」から1オクターブ高い「ド」まで、白い鍵盤と黒い鍵盤は合わせて12個あります。

このうちの白い鍵盤の音のみを使ったのが「Cメジャースケール」です。

スケールにもいろいろあります。

先の「サウンドチューニングトレーニング」がキーを合わせるトレーニングとすれば、(今のところ名前しか知らない)「サウンドウェーブチューニング」というトレーニングは、スケールも合わせるトレーニングのような気がします。”yabuchan.jp/yablog/2012/12/16/133838/

いや、「耳コピ」の方が近いかもしれません。

話し手の「キー」と「スケール」に合わせて、聞き手がハモると、話し手はさらに歌いやすく(話しやすく)なるのではないでしょうか。

ジャムセッションなどもできそうです。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉20−教化より感化《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

「教化」と「感化」、それぞれを手元の国語辞典でひいてみると以下の意味が載っていました。

【教化】(名・他サ)教えて感化すること。
【感化】(名・他サ)知らず知らず・いい(悪い)ほうに変化させること。

見出し語とその意味の間には、(名・他サ)という略号があります。

「名」というのは「名詞」、「他サ」というのは、「他動詞・サ行変格活用動詞」という意味です。

「教化」「感化」という語は、名詞としても扱われますし、動詞「する」を伴って「教化する」「感化する」というように動詞としても取り扱われます。

「教化する」「感化する」はどちらも他動詞で、文を作るときには目的語を伴います。

例えば、「国民を教化する」「国民を感化する」というように、「〜を」という目的語を伴います。

さて、「教化」「感化」ともに「教・化」「感・化」というように、「教」「感」それぞれに「化」(接尾辞?)をつけた語です。

これら「教」「感」は、動詞としては「教える(あるいは、教わる)」「感じる」となります。

「教化する」「感化する」と「教える(教わる)」「感じる」の関係を考えてみると興味深いことがわかります。

先に「国民を教化する」「国民を感化する」という例を挙げましたので、そこから考えてみましょう。

「国民を教化する」で「教える」のは誰でしょうか?

ここでは表示されていませんが、「教える」という行為をする人は「国民」ではありません。

「国民を教化する」というのは、誰かが「国民」を(に)教えて変化させる、という意味です。

では、「国民を教化する」の「教」を「教わる」と考えてみましょう。

そうすると、国民が教わって変化する、という意味になります。

同じように「国民を感化する」という例ならば、国民が感じて変化する、という意味になります。

構造的に対になるように解釈するならば、「国民を教化する」は「国民が教わって変化する」、「国民を感化する」は「国民が感じて変化する」。

「国民が教わって変化する」よりも「国民が感じて変化する」の方が、何となく国民の主体性が感じられます。

自ら変わった、という意味合いが強く感じられます。

「教化より感化」というのは、相手を変えようとするのではなく、自然に変わってもらうことです。

以下は、株式会社わもんのHPからの引用です。

“わもんが目指しているもの。
「人を動かす」から「人が動き出す」ことを目指しています。
徹底して聞きこむことで、相手の中にある答えを自然と見つけ出します。
そのとき、相手は自らの答えを理解納得して自ら動き出すようになる。
そして、究極は動き出すから走り出すへ。”

サノトモ


Fw:わもんな言葉19−他者理解は自己理解

2012/ 8/ 5 18:43

今回は趣向を変えて、本の引用ではない「わもんな言葉」です。

昨日(12/9)の心徒塾の帰りの電車の中で、やぶちゃんと常ちゃんと私の3人で話をしていたとき、「型」についての話題がでてきました。

話の聞き方について型がない、ということだけでなく、心徒塾の進行でのやり方にも型がない、という話です。

その際、最近ブログか何かで読んだ話を思い出しました。

「型のない人というのは『かたなし』で、型はあるけれどもその型にとらわれないのは『型破り』だ」

という内容。

家に帰ってからどこで読んだか確認すると、ブログには違いないけれども、ツイッターの内容でした。

blog.jp.twitter.com/2012/12/rt1129125.html
Twitterブログ:週間リツイート(RT)ランキング(11月29日から12月5日)

“「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」”

先日、中村勘三郎さんがお亡くなりになり、その勘三郎さんのおっしゃっていた言葉のようです。

「守破離」という言葉を思い出します。

思うに「型」というものは、最初から存在していたわけではないと思います。

先人の方々が磨き上げてきたものが「型」ではないかと。

歌舞伎のことはよく知りませんが、歌舞伎の型は先人達の何らかの思いがあり芸を磨いてきた結果生まれたものという認識です。

ならば、「型」は守るだけではならなくなります。

磨き上げていた思いがあるならば、現在ある「型」をそのまま「型どおり」にするのではなく、現在ある「型」を磨き上げていくことが本当の「型」ではないかと。

そして、試行錯誤の過程にあるのが「型破り」ではないかと。

こんなことを考えているときに「枠」も同じだなあと思いました。

何らかの試行錯誤(あるいは1回のみかもしれませんが)の結果、「枠」ができる。

「型」ならば何らかの意図が含まれているように思いますが、「枠」はどうでしょうか。

何となく、「枠」と聞くと、形骸化しているように響きます。

そして、「枠」はなかなか気付かないものです。

では、「枠」に気付くにはどうすればいいか。

それには、「他者を理解すること」が一番だと思います。

自分と他者の違い、それが「枠」だと思います。

それを他者の「枠」ととるか、自分の「枠」ととるか。

サノトモ


Fw:わもんな言葉18−在り方《わもん黒帯初段: さのとも》

2012/ 8/ 5 18:43

坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』に「通人」についての記述がありました。

「通人」とは、もともとは遊里の言葉だったようで、今ではあまり聞くことはない言葉ですが、「事情通」とか、「通なはからい」とかで使われる「通」と同じ意味で、「通な人」のことです。

少し長くなりますが、以下引用します。

“ 情については、「情がわかる」といういい方をしない。そのような語法があっても理解はできるが、「事情がよくわかっている」とかのばあいを除いて、つまり対象化できる場合を除いては、「わかる」とはいわない。それは「通じる」ものである。事情のばあいでも、「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」のほうが日本語らしい表現である。「通じる」というのは、「わかる」というのに近いが同じではない。「英語がわかる」というのと「英語に通じている」というのとでは、相当にニュアンスが違う。「通訳」とか「通辞」は、このニュアンスをうまく表わしているいい言葉である。
 分析して理屈がわかっていて、原理からの演繹ができても、「通じている」とはいえない。細かいニュアンスや裏の意味や雰囲気まで知っているのでなくては、「通じている」とはいえない。ヘーゲルをもじっていえば、「わかっているからといって通じているとはいえない」のである。しかも頭でわかるのではなくて、心でわかる(あえてこの言葉を使うが、本当は心が通じ合うというべきであろう)のでなくてはならない。そのようなわかり方である。いいかえれば、その世界の言葉が全面的にわかることである。わかるは訳なのだ。”

たしかに「事情がわかっている」よりも「事情に通じている」という方が、より深く理解している表現です。

その世界の言葉が全面的にわかっている人が「通人」。

「わかる」は「分ける」ことからはじまると考えると、分けた後につなげて道をつけているのが「通じている」という状態なのではないかと思います。

これは、「聞く」ことにも当てはまるのではないか、と感じました。

「相手がわかる」聞き方より、「相手に通じる」聞き方。

「わもん」での聞き方に「通じ」ます。

「わもん」での聞き方の説明で、よく「地下水脈でつながっている」という言葉を使うことがあります。

「つながっている」と「通じている」もつながります。

先の『「分ける」こと「わかる」こと』の引用には、続きがあります。

“ ここまでくれば、じつは、もう「わかり方」などといったものではなくて、「ふるまい方」のできるのが通人であり、わけしりなのである。「わきまえ」もそうである。原意は「分ける」かも知れないが、「わきまえている」といえば、わかっているとか知っているというだけでなくて、「ふるまいかた」についていわれていると考えたほうがいいのである。”

「わかり方」だけではなく「ふるまい方」ができるのが「通人」。

相手の話を聞くとき、「わかり方」「聞き方」ができるだけでなく、その「在り方」でいられる人が、わもん通な人です。

《わもん黒帯初段:さのとも》


Fw:わもんな言葉17―声なき声《わもん黒帯: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

井筒 俊彦さんの『意識と本質』は、「本質」をどのように捉えているかという問題から、東洋哲学を共時的に構造化してみようという試みで、東洋哲学のみならず西洋哲学も含めて、様々な「本質論」が取り上げられています。

その中で、「わもん」の考え方に近いと感じたのは、「禅」ではなく、「芭蕉の本質論」でした。

もちろん「禅」も、あるいは私が今まで少し触れてきた「儒教」(『意識と本質』の中では、「宋代の理学」「孔子の正名論」として取り上げられています)も重なる部分は多々ありますが、「芭蕉の本質論」での「物に入りて、その微の顕われる」という箇所が、「わもん」における聞き方・在り方に非常に似ていると感じました。

以下はその一節。

“そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。一瞬の、ひらめく存在開示。人がものに出合う。異常な緊張の極点としてのこの出合いの瞬間、人とものとの間に一つの実存的磁場が現成し、その場の中心に人の「……の意識」は消え、ものの「本情」が自己を開示する。芭蕉はこの実存的出来事を、「物に入りて、その微の顕われ」ることとして描いている。「物に入る」とは、ものが「……の意識」の対象ではなくなること、つまりこの出来事が、人の側においては、二極分裂的意識主体の消去であることを指し、「その微が顕われる」とはものの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕わすことを指す。”

「本情」というのは、『意識と本質』での言葉を借りると、「個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的『本質』」「事物の存在深層に隠れた『本質』」です。

事物の奥に隠れひそんでいた「本情」、変わることのない普遍的本質がちらっと光ることを「物の見えたる光」と表現しています。

その瞬間は、自分が事物を見ているというような「……の意識」は消えています。

この出来事を「物に入りて、その微が顕われる」と表現し、自分と事物という二極分裂はなく、自分の側から見れば(言葉では二極分裂してしまっていますがご了承ください)「物に入る」ということになります。

換言すると、自分と事物の境界がなくなり一体化する、ということです。

そのとき事物の「微」すなわち「本情」が顕われます。

自分と事物の境界はありませんので、自分が「本情」を感じます。

最近、「わもん」での聞き方の際に、よく「重心を相手におく」という言い方がなされます。

先に引用した芭蕉の本質論では、対象を事物として説明していますが、対象を話し手の「話」「言葉」と置き換えると「わもん」の聞き方に似ています。

相手の言葉をしっかりと聞いていると、その「本情」がちらっと光る。

この出来事が、聞き手である自分においては二極分裂的意識主体の消去であることを指し、相手の側では普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで聞こえない「声なき声」が自らを顕わすことを指します。

芭蕉はこの「物の見えたる光」を俳句という詩的言語に結晶させます。

「わもん」では「声なき声」を、言語的あるいは非言語的な表現として結晶させていくことではないかと思います。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉16―絶対点《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

言葉、言語というのは、コミュニケーションのひとつの手段です。

自分の思っていること・感じていること・考えていることを相手に伝える、とても便利な道具です。

言葉があることで、人類はさまざまなことを成し遂げています。

旧約聖書の「バベルの塔」の話。

人間が共通の言語を持っていたころ、天に届く塔を作ろうとしていました。

それを見た神は、塔を破壊し、言語をバラバラにした、と。

本当の話か作り話かはさておき、言語、言葉の力がとてつもないことを表現しています。

しかし、言葉もひとつの道具。

コミュニケーションをとるため、協力体制をつくるためなど、ひとつの道具です。

今、読んでいる小関智弘さんの『職人学』という本の中に、興味深い記述がありました。

鏨(たがね)で鉄板を削(はつ)る仕事について、です。

鉄板に引いた線に沿って、左手で鏨を握り、右手でハンマーを振って鏨の頭を叩き切り進めていく仕事です。

ハンマーが正確に鏨の頭に当らないと、ハンマーで自分の左手を打ってしまいます。

ハンマーで左手を打つのが怖いので、目はどうしても鏨の頭を見てしまいます。

すると、先輩職人から「どこを見てハンマーを振っているんだ。鏨の先を見ろ」と罵声が飛びます。

先輩職人に理由をたずねると「俺も、そう教えられた」と。

小関さんはここで、「理屈ではなかったが、理にかなっていた」として次のように書いています。

“鏨で削る仕事というのは、鏨の刃で正確に罫引き線のとおりに鉄板を切る仕事である。だから刃先が罫引き線どおりに切り進んでいるかどうかを、目で確かめながらハンマーを振る必要がある。左手を打たないようにハンマーを振るのが仕事ではない。”

言葉にも当てはまるように思います。

誰かに何かを話すとき、あるいは誰かの話を聞くとき、それは、自分の思いや考えを伝えたい、あるいは相手の思いや考えを理解したいときです。

言葉を正確に伝える、あるいは逆に、言葉を一字一句間違わないように覚えるためではありません。

言葉そのものよりも、言葉のもとにあるものに焦点をあてていきます。

「わもん」では、そこを「絶対点」と呼んでいます。

『職人学』の先の引用にはその続きがあります。

“それができるようになるまで、わたしは何回も左手を腫れあがらせなければならなかったが、やがてほんとうに、先輩職人の言うとおり、鏨の先を見ているほうが、ハンマーは正確に鏨の頭を打つのだと実感できるようになった。”

話を聞くことも、絶対点に焦点を当ててしっかり聞けるようになるまでには、何度も失敗するかもしれません。

しかし、絶対点に焦点を当てて聞いている方が、言葉もしっかり聞けるようになるのではないかと思います。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉15―話すわもん《わもん黒帯初段: サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

「人は“ひらがな”で話を聞いている」

西任暁子さんの『「ひらがな」で話す技術』に書かれている言葉です。

なるほど、と思いました。

文字は別として、音声での言語表現は物理的にみると音の連続です。

横軸に時間、縦軸に周波数をとってグラフに表しても、単語の切れ目や文節の切れ目がどこにあるのか、そのグラフを見ただけではわかりません。

グラフから言葉の意味を読むことはできません。

そうやって耳に入ってくる音の連続を私たちは「ことば」として聞いています。

アクセントや抑揚など、単語や意味のまとまりを示す目印はあるにしても、かなり不思議ですごいことです。

このことをわかりやすく表現した言葉が、冒頭の「人は“ひらがな”で話を聞いている」という表現だと私は認識しています。

「人は“ひらがな”で話を聞いている」ならば、わかりやすい話し方は「“ひらがな”で話す」こと。

『「ひらがな」で話す技術』は、わかりやすく話すための方法について書かれた本です。

この本を読んだとき、「話すわもん」を思いうかべました。

「わもん」は漢字で書くと、「話す」と「聞く」で「話聞」。

「わもん」は「聞く修行」といい、「聞く」に重点を置いていますが、「わもん」の提唱者やぶちゃんは、「わもん」には「話すわもん」と「聞くわもん」がある、といいます。

わもん聞く匠 薮原秀樹 通称:やぶちゃん@wamonyabuchan
【2011/09/16 めざましわもん】《まえがき6》「わもん」=「話」+「聞」です。「わもん」を1本の大樹にたとえるなら、「聞くわもん」と「話すわもん」は、その幹からのびる2本の太い枝です。「聞くわもん」に「話すわもん」が加わると、「わもん力」はグンと高まります。

『「ひらがな」で話す技術』では、「はじめに」の中で、西任さんは次のように言います。

大切なのは、自分の話が「相手にどう聞こえているのか」を徹底的に考え抜くこと。「音」で聞いている相手の頭の中がどういう状態なのか、常に想像することなのです。

おもしろいと思ったのは、『「ひらがな」で話す技術』の最終章が「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というタイトルだったことです。

わもん日めくりカレンダーに「心の矢印を自分に向ける」という言葉があります。

「聞くとき」と「話すとき」では心の矢印の方向が逆。

逆とはいっても、意味においては同じ方向を指しています。

わもん日めくりカレンダーの「心の矢印を自分に向ける」というのは、話を聞くときに、話し手を責めたり、否定したり、誰かのせいにせず、自分に向けること。

一方、『「ひらがな」で話す技術』の「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というのは、相手目線で話すという意味で「心の矢印」という言葉を使っています。

聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(↓↓)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。

《わもん黒帯初段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉14―聞き手未熟《わもん黒帯: サノトモ》

『論語』の中で有名なもののひとつに、次の言葉があります。

 「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う」

人が自分のことをわかってもらえないことを気にするな。

自分が人のことを知らないことを気にしなさい。

というような意味です。

「わもん」でいう「聞き手未熟」と同じようなことを指しています。

「聞き手未熟」とは、書籍『わもん』から引用すると、

「わもん」において、会話がうまく運ばない、話し手が話をしてくれない場合に、その理由や原因は聞き手にあるという真理。思うように話を聞けないとき、話し手の性格や態度、話を聞く環境などのせいにしていると、「わもん力」は磨かれないとする考え方。「わもん」上達のためには、心の矢印を自分に向け、聞けない原因を自分自身のなかに求めることが必要であると心得る姿勢。

です。

冒頭の『論語』の言葉は、『論語』の中でも特に重要視されている言葉ではないかと思います。

その理由は、何度も出てくる言葉だから。

『論語』は、(人によっては別の篇立てをする方もいらっしゃいますが、)20篇から成り立ち、その篇の最初の2字(あるいは3字)をとって篇名としています。

冒頭に挙げたのは「学而篇」の言葉。

同様な言葉が他の篇にも現れます。

 ●「位なきを患えず。立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず。知る可きを為さんことを求む」(里仁篇)
 ●「人の己を知らざるを患えず。其の不能を患うるのみ」(憲問篇)
 ●「君子は能くする無きを病む。人の己を知らざるを病まず」(衛霊公篇)

『論語』の成立過程は詳らかになっていませんが、同じような言葉が頻繁に現れてくるのは、『論語』にかかわる多くの人が、この言葉は大切であると認識してきた結果であると思います。

「聞き手未熟」に即していえば、「人が話をしてくれないことのを憂うな。自分が聞くことができないことを憂いなさい」とでも言えるでしょうか。

私見ですが、「わもん」と「儒教」(「儒学」といった方がいいかもしれません)とは相性がいいように思います。

『論語』は、儒教における四書のひとつ。

そして儒教は、己を修め人を治める「修己治人」の教えだといわれています。

「わもん」とは、「聞く修行」。

話をただただ聞くことを修行と位置づけ、自分自身の聞き方、在り方、生き方を見つめます。

聞くことは、自分自身の修養です。

話し手は「聞いてくれてありがとう」

聞き手は「話してくれてありがとう」

自分自身の「聞く力」、「わもん力」を高めることで、周りの人を輝かせていくことを目指しています。

《わもん黒帯:サノトモ》

2012/ 8/ 5 18:43

わもんな言葉13―同行二人《わもん黒帯: サノトモ》

四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんの笠などに、よく「同行二人」と書かれています。

「同行二人(どうぎょうににん)」というのは、お遍路さんは一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けている、つまり、お遍路さんにはいつも弘法大師(空海)さんがそばについて一緒に歩いていることを表します。

マラソンでいえば「伴走」のようなものです。

この「伴走」もなかなか難しい。

ランナーより早くとも遅くともなく、ランナーに合わせて、ランナーに寄り添って走らなければなりません。

書籍『わもん』に「『同行二人』の心で聞く」という章があります。

その章のなかに、伴走を思い起こさせる文章があります。

「話し手の心に寄りそう気持ちで聞く」ことも、同行二人に似ています。話し手が思いをめぐらせる速度にあわせ、ときにはふたりがならび、ときには聞き手が体ひとつ、うしろから、話し手の心の底へ、どこまでももぐっていくのです。

そして、その直後、

ただ、イメージとしてはわかりますが、簡単にできることではありません。

とも。

「同行二人」の心で聞くことはなかなか難しい。

この難しさは、兼好法師も『徒然草』に書いています。

『徒然草』の第十二段には、

同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かゐたらんは、たゞひとりある心地やせん。

とあります。

同じ心であろう人とじっくりと話をして、趣あることも、世の中のはかないことも、うらおもてなく言い合えることこそ、うれしいことであろうに、そのような人はめったにおらず、少しも違わないようにと向かい合っているような場合は、ただ独りぼっちでいるような気持ちがする。

ランナーが独りで走っているような気持ちになるなら、伴走の意味がありません。

ともに走る。

同行二人で走るのが伴走です。

『わもん』の別の章「『あるがままの自分』で聞く」には、伴走のひとつの例が載っています。

Zさんの話を聞いていて、Uさんは「うらやましい」と思ってしまいました。

しかし、Uさんは「聞き手の感情を出してはいけない。口に出してはいけない」と思い、気持ちをおさえました。

そこで、

横で聞いていたわたしはUさんに「今は素直に自分の気持ちを伝えてみてはどうですか」と提案しました。Uさんは「うらやましいです」と話しました。

「うらやましいです」という言葉を聞いてから以降は、Zさんは表面的な話ではなく、気を悪くすることなく深い部分まで話した、ということです。

聞き手が「つゆ違はざらん」と力んでしまうと、話し手が「たゞひとりある心地」になってしまいます。

聞き手が「あるがままの自分」を受けいれ、力まず、自然体で、しかし真剣に、聞きつづけることによって、話し手を絶対尊敬できるようにもなっていくのです。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉12-ミジンコ跳ねる《わもん黒帯: サノトモ》

直感、閃き、第6感など。

偶然というか、必然というか。

無意識なものが意識上にのぼってくることを、いつの頃からか、わもん関係者のなかでは「ミジンコが跳ねる」という表現をしています。

川窪財(たからちゃん)@kawakubotakara
@3chuuu  ぴょんと跳ねた音…  2012年のわもん流行語大賞にノミネートするであろう 「ミジンコ跳ねた」  直感がこころの湖面から
ジャンプする瞬間を 表します。(笑)
2012年4月5日

そして、意識化・言語化することを「ミジンコを捕まえる」と。

無意識という心の湖で、ミジンコがぴょんと跳ねる。

跳ねたミジンコは何もなければそのまま無意識の湖へと戻ります。

そのミジンコを捕まえる。

広大な心の湖面で小さな小さなミジンコがぴょん。

跳んでいるのさえ気が付かないこともあります。

そのミジンコの捕まえ方はまだまだ修行する必要がありますが、まずはミジンコが跳ねていることに気付くことが重要です。

では、ミジンコが跳ねていることに気付くにはどうするか。

それには「完全沈黙」が関係しています。

実家に帰っていたときに読んでいた本は、ソローの『森の生活』。

『森の生活』は、ソローのウォールデン湖畔での自給自足の暮らしの記録です。

「湖」という章では、ウォールデン湖について、水の色や、風景や、そこに住む魚をはじめとする動植物について事細かに書かれています。

その「湖」の章からの一節。

丘の上からだと、どこで魚が跳ねてもたいていは目にはいる。カワカマスにしろシャイナーにしろ、このなめらかな水面に浮かぶ虫を一匹でも捕らえようとすれば、湖全体の平衡を大きくかき乱さずにはおかないからだ。……(中略)……
いや、四分の一マイルも離れたなめらかな水面を、ミズスマシ(Gyrinus)がたえず動きまわっているのさえ発見することができる。というのは、彼らは水面にかすかな溝を掘りながら進むので、二本の分岐線を境界とする、くっきりとしたさざ波が立つからである。

ウォールデン湖について、ソローは「鏡のような湖面」と表現している箇所もあります。

そのような波風立っていない湖面ならば、四分の一マイル(約400m)離れたところからでもミズスマシの動いているところが発見できるといいます。

心の湖面がぴたっと止まった静寂の中でミジンコが跳ねれば、その跳ねた小さな波紋、小さな音に気付くことができるのかもしれません。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉(番外編)-WAMON《わもん黒帯: サノトモ》

「わもん」という言葉を初めて知ったのは、やぶちゃんのツイッター(@wamonyabuchan)から「わもん」のホームページを見たときでした。

「わもん」は漢字で書くと「話聞」と書きますが、私は違う漢字も思い浮かべていました。

書籍『わもん』の版元である文屋の代表である木下豊さんは、『わもん』のまえがきで次のように述べています。

まえがきは文屋さんのホームページでも読むことができます。

 「わもん」と初めて耳にしたわたしはなぜか、「話聞」ではなく「和門」を思いうかべました。和門……なごやかな、平和な世界への入り口……と連想させるほどに、彼はその命名がうれしそうであり、なごやかな気配を漂わせていたのでしょう。

木下さんの場合は「和門」でしたが、私の場合は、ホームページで「話聞」という漢字であることを知ってはいましたが、「和紋」という漢字を思いうかべました。

「和」という漢字を思いうかべたのは、「わもん」の説明のなかで「和製コーチング」という言葉があったため、「紋」を思いうかべたのは、「完全沈黙」の動画から水の波紋を思いうかべたためだと思います。

そして本日、次のつぶやきがありました。

聞く匠:やぶちゃん@wamonyabuchan
8/13!外国人記者クラブでの記者会見決まりました!《福島完全安全宣言へ向けて世界から英知を》と《2020年東京・福島オリンピック開催》を呼びかけます(^^)v
#やぶちゃん

福島から、日本から、世界へ、「わもん」が波紋のように広がっていくように思いました。

「なごやかな、平和な世界への入り口」です。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉11−心の矢印《わもん黒帯: サノトモ》

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森博嗣さんの本はミステリから読み始めたのですが、最近はエッセイの類が好きです。

現在のベストは『自分探しと楽しさについて』。

「自分」と「楽しさ」について、この2つがほとんど同じものだという考えが、私にとって新鮮な考えで、面白く思いました。

この『自分探しと楽しさについて』からの一節。

「自分」を見つめることは、多くの場合、「他者は自分をどう捉えているだろう」とか、「自分は他者に対して何ができるだろう」というように、実は他者と自分の関係について考察することである。本当に自分だけのことについて考えるのは、かなり難しい。ほとんどできないといって良いだろう。自分にだけ集中すると、自然や他の生き物といった「自分以外」に考えが及ぶが、それらも排除すれば、最後は「無心」に近い情態になるのではないか、とも思える。

私は、「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という箇所から、京極夏彦さんの『塗仏の宴 宴の支度』の文言を思い出します。

不自由あっての自由である。

この文言を読んだときは、ハッとしました。

「自由」という概念というのは、「不自由」だったから生まれたのだと思います。

何かしら抑圧された状態、制限された状態から「自由」を求めたのではないかと思っています。

つまり「不自由」の方が先にあった。

不自由あっての自由です。

しかし、言葉の上では、「自由」が先で「不自由」が後です。

「不自由」という語は、「自由」という語に、打消しの「不」という語を伴ったものです。

「不自由」な状態から、「自由」を求め、「自由」という言葉ができ、「不自由」という言葉ができた。

私にとっては、興味深い発見でした。

冒頭の「『自分』を見つめることは、他者と自分の関係について考察することである」という文言は、「不自由あっての自由である」と同じ構造をしているように思います。

そして、「わもん」での「心の矢印」を自分に向ける、ということも。

「自由」に矢印を向けて「不自由」があるように、「自分」に矢印を向けて「他者」があるように、「聞き手」が自分に矢印を向けることで、自然と「話し手」が浮かび上がるのです。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉10−理想像に視点変化《わもん黒帯: サノトモ》

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ヤブログ放送室のお題「わもんなことば」!

現在、1〜9までありますが、待っていたかのように増えていなかった(!?)、「わもんな言葉10」です。

放送室の「わもんなことば」では、日めくりカレンダーの中の言葉のうちの2つ、「理想像に視点変化」と「命を聞く」について語られています。

そのうちの1つ、「理想像に視点変化」を聞いたときに頭に浮かんだのが、夏目漱石『夢十夜』の「第6夜」です。

護国寺の山門で、運慶が仁王を彫っています。

その刃の入れ方は、如何にも無遠慮ですが、少しも疑念を挟んでいないように見えた自分(主人公)が、「能くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心してつぶやくと、近くの若い男がこういいました。
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」

初めて『夢十夜』を読んだのは、中学生か高校生の国語の教科書です。

10話すべては載っていませんでしたが、「第六夜」は載っていました。

この運慶の話が一番好きでした。

そして、大学に入ってから文庫本を買い、読みましたが、やはり「第六夜」が一番好きでした。

ちなみに夏目漱石の作品は、この『夢十夜』(と文庫本に所収の『文鳥』『永日小品』)と、『吾輩は猫である』しか読んだことはありません…。

大学を卒業し働きはじめてから、コーチングのことを知り、勉強をし始めたころ、たしか本間先生の本だったと思うのですが、コーチングのたとえ話として、この「第六夜」の話が出てきました。

本間先生の本を数冊、該当の個所がどこにあったか探してみたのですが、見つからず…m(_ _)m

ツイッターを始めたのは2010年の秋くらいで、本間先生をフォローして、そこから「笑顔のコーチング」のことを知り、やぶちゃんのことも知り、「わもん」のことを知り、と現在に至っております。

私自身の「コーチング」そして「わもん」の理想像は、この運慶のようになりたいというものです。

先はまだ長いと思いますが、目指していきたいと思います。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉9−事実集積が直感を生む《わもん黒帯: サノトモ》

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7月4日のヤブログ放送室のタイトルは「わもんな話」

さすが本家本元!

やぶちゃんの突っ走り宣言です。

さて、こちらの「わもんな言葉」は亜流の道を進みます(笑)

今週の放送の中で、ヤブログ放送室の第1回目のテーマが「エアロビ」というのを聞き、最初の方の放送はあまり聞いたことがなかったので聞いてみると、第2回目のテーマは「シャーロック・ホームズ」

やぶちゃんがホームズファンだというのは、どこかで聞いたことがあったのですが(まぁ、心徒塾かヤブログ放送室のどちらかとはなります…)、ここで聞いたのだったかな…。

ということで(!?)、ホームズ物から「わもんな言葉」を書こうとしたのですが、シャーロック・ホームズ・シリーズの文庫本は実家に…。

たしか、ホームズの物語の中に、「分析的推理」とか「逆向きの推理」という箇所があったと思ったからです。

しかし、シャーロッキアン(シャーロック・ホームズの愛好家とか研究者)とまではいきませんが、私もシャーロック・ホームズのファンです。

で、手元には『ホームズ探偵学序説』という本があります。

久々に手に取って読んでみると、『ホームズ探偵学序説』の中の引用に目的の個所がありました。

引用の引用になってしまいますが、また、長くなってしまいますが、『緋色の研究』からの引用です。
論理家は、たとえば一滴の水から、自分の見たことも聞いたこともない大西洋やナイアガラ瀑布の存在を推理しうる。同様に、人生もまた一本の大きな鎖であり、その本質はたった一個の環から知りうるのである。あらゆる学問と同様、「推理分析学」もまた長年の研鑽の末にはじめて習得しうるものであり、ましてやその完成の域に達するには、人生はあまりに短い。すべからく初心者は、きわめて多大なる困難をともなう倫理的精神的問題に取りかかるまえに、より基礎的な問題からマスターすべきである。たとえば他人に会ったら、ひと目でその人物の経歴や職業を見分けられるようにする。子供じみたことと思うかもしれないが、こうした訓練が観察力を鋭くし、どこを見、何を見るべきか教えてくれるのである。たとえば指の爪、上着の袖、靴、ズボンの膝、人差し指や親指のタコ、顔の表情、ワイシャツの袖口等々――いずれをとっても、その人の職業が端的に顔をのぞかせている。しかるべき観察者がこれらを総合すれば、必ずや何かわかるはずである。

『緋色の研究(A Study in Scarlet)』の中には、ホームズの雑誌記事「人生の書(The Book of
Life)」についての記載があり、上に引用した箇所は「人生の書」の一節。

あらためて読むと、やぶちゃんがヤブログ放送室や他のところで言っていることとリンクしていますね。

ホームズ物語をあらためて読みなおすと、いろいろな「わもんな言葉」がでてきそうです。

文庫本を実家においている理由は、WEB上にテキストがあるから。

しかし、WEB上のテキストは探し物には便利ですが、私は、読むのは本の方が好きです。

久々に正典を読みたくなりました。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉8−わもん聴覚《わもん黒帯: サノトモ》

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夕方にふと「言葉」というのは、「言」の「葉」だな、と思いつきました。

ということは、「言幹」とか「言根」とかもあってもいいんじゃないかとも。

しかし、そのような言葉はありません。

言いたいことの葉っぱが「言葉」とすれば、言いたいことの「幹」とか「根」とかもあっていいんじゃないかな、と思いを巡らしていると、「言いたいこと」を「植物」に例えているな、とあらためて気づきます。

私たちは何か植物を見るとき、その葉っぱの形状や色などから植物を見分けているように思います。

植物学的な分類方法は知りませんが、常緑樹や落葉樹とかは葉っぱがどうなるかという分類ですね。

銀杏や紅葉などは、葉っぱの形や色に特徴があります。

言葉もそのような傾向があるかもしれません。

その言葉を聞くことで、その人の特徴などを知る手掛かりになります。

しかし、それが全てではない。

植物も葉っぱだけではありませんし、人も言葉だけではありません。

こんなことをうつらうつらと考えていましたが、それほど深く考えることもなく、走りに出かけました。

走った後は、本屋さんへ行くのが習慣です。

何故かと言われても困りますが(^-^;)

で、本屋さんで本を眺めていると、沢庵禅師の『不動智神妙録』の文庫本を発見。

『不動智神妙録』は、沢庵禅師が柳生但馬守に剣禅一如を説いたもので、講談社学術文庫版の『五輪書』に、よく引用されていたものでしたので、買いです。

そして、読み進めていると、以下の文章に出くわしました(池田諭さんの訳です)。
 たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
数時間前に考えていたことが頭によぎり、心がとらえられてしまいました(^-^;)

「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、「言葉を聞いて心を聞かず」というフレーズが浮かびます。

書籍『わもん』の「『わもん聴覚』で聞く」の節に、以下の文章があります。
 たんに「耳で聞く」という意識で聞いていると、どうしても言葉にしばられやすくなります。そこで、「声なき声」をとりこぼすことなく受けとるために、「わもん聴覚」という発想転換をしてみるのです。「わもん聴覚で聞く」という気持ちになってみると、言葉のまわりにあるさまざまな情報を、もれなくつかみとる態勢ができてきます。
「わもん聴覚」の場合、「聞く」というよりも、「感じとる」「察する」に近い感覚です。

「声なき声」を聞くためには、一枚一枚の言葉に心を止めず、話し手の全体を聞くことです。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉7−わもん入ってる《わもん黒帯: サノトモ》

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内田樹先生の「直感と医療について」というブログ記事内に「私はなんとか武道論や身体論を学術的に基礎づけたいと思っているのである。」という言葉があり、内田先生がどのようなことを考えているのか気になりました。

内田先生のことは、恥ずかしながら、ツイッターでしか知らず、どこかの大学教授ということくらいしか知りませんでした。

さらに、内田先生のツイッターのアカウント名が「@levinassien」で、これを『リヴァイアサン』と読み違えていて、社会学とかその系統の教授だと勝手に思っておりました(^-^;)

で、冒頭のブログ記事が頭の片隅に残っていたためか、本日、本屋さんにフラッと立ち寄ったときに、内田先生の名前を見つけ、何か武道論や身体論のことが書かれた著作を読んでみようと思い、書棚を眺めて1冊を選びました。

『武道的思考』というタイトルの本です。

『身体で考える』という対談の本と迷いましたが、対談集よりは著作の方がいいかな、と。

早速読みはじめています。

まだ、途中までしか読んでいませんが、興味深く読めそうです。

「武道」の本旨を「人間の生きる知恵と力を高めること」とし、「人間の生きる知恵と力を開発する技術の体系」と捉えた上で、様々なよしなしごとが書かれています。

文章は、「家事について」という項の次の言葉。

剣と杖を振り続ける稽古について、「私」が「剣」を「揮っている」と、主語と他動詞と目的語の構文でこの動作を捉えている限りは苦役であるとして、

 私たちはそこに「私・剣複合体」が生成して、それが「動きたいように、動いている」という体感構造に身体の文法を書き換えるために稽古しているのである。

それが無意識のうちにできるようになれば、他のどのような「もの」と出会っても、私たちは一瞬のうちに、それと「溶け合って」、自在に動きたいように動くことができるようになるはずである。

「わもん入ってる」を思い浮かべました。

「わもん入ってる」は(おそらく)「intel入ってる」のもじりで、「intel」といえば、パソコンのCPU。

CPUは、「Central Processing Unit」の略で、「中央演算装置」などと訳されます。

「わもん」は「話す」と「聞く」で「わもん(話聞)」。

話すとき、聞くときのひとつの文法、演算装置です。

身体の文法を「わもん」という文法に置き換えるために、「聞く修行」が提唱されています。

「話し手」と「聞き手」という二元的な会話の技術ではなく、一元的な話聞一如の境地。

「道」を極めることは、同じような境地に行きつくのかもしれません。

ちなみに、内田先生のツイッターアカウントは「レヴィナシアン(@levinassien)」で、レヴィナスからきたものだと知りました。

奥付の著者プロフィールによると、専門はフランス現代思想、武道論、教育論。

しかし、「まえがき」では「本業は武道家」とのこと。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉6−話聞一如《わもん黒帯: サノトモ》

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神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』の「患者の身になる技法」を読んでいて、ふと思い出したことです。

思い出したといっても、はっきりとは思い出せず、世阿弥の『風姿花伝』の中に、役になりきるというような部分があったな、といった類。

で、探してきた言葉が以下です。

手元にある岩波文庫版の『風姿花伝』は校注のみで現代語訳がなく、また漢字も旧漢字で読みづらかったので、昨年出版された講談社学術文庫版『風姿花伝』も手元にあります(が、未読)。

該当の個所を探したところ、岩波文庫版は旧漢字、講談社学術文庫版はカナで書かれていました。

読みやすくするために、漢字を常用漢字(当用漢字?)にして、旧仮名遣いで引用します。
物真似に、似せぬ位あるべし。物真似を極めて、その物に、まことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白きところばかりを嗜めば、などか花なかるべき。例へば、老人の物真似ならば、得たらん上手の心には、ただ、素人の老人が、風流、延年などに、身を飾りて、舞ひ奏でんが如し。もとより、己が身が年寄りならば、年寄りに似せんと思ふ心あるべからず。ただ、その時の、物真似の人体ばかりをこそ嗜むべけれ。

例えば老人の物真似(演劇でいうと、老人の役)で、それを極めると、老人に「似せよう」あるいは「なろう」と思うような心がなくなる。

極めている人はもう老人そのものなので、老人に「なろう」という気がない、ということです。

その位を「似せぬ位」といっています。

そしてまたふと思い出します。

学習の理論だったか、モデルだったか忘れましたが、学習の段階として4つの段階があるということをが頭に浮かびます。

最初の段階は「無意識の無能」
簡単にいうと「できないことを知らない」状態です。

次の段階は「意識的な無能」
「知ってはいるができない」状態。

3つ目の段階は「意識的な有能」
「やろうと思っていたらできる」状態。

最後は「無意識の有能」で、「無意識にできる」状態。

『風姿花伝』の「似せぬ位」と、学習理論(?)の「無意識の有能」がつながります。

「患者の身になる技法」、話を聞くことに当てはめると「相手の身になる技法」の極みは、「似せぬ位」。

「わもん」でいうと「話聞一如」の状態です。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉5−一期一会《わもん黒帯: サノトモ》

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物語を読み終えるとその語り口が移ってしまうときがある。語り手が自分の中にいるような気分だ。例えばヒーロー物の映画などを見た後、その主人公になったように思えることもある。

自分が強くなったような錯覚。

今は『アラビアの夜の種族』を読み終えて、そのままの余韻の語り口で書いてみよう。

先日、「『アラビアの夜の種族』を途中までしか読んでいない」ということをブログに書き、その日から読み始める。そして、先ほど読み終えたばかり。

結論から(ではないけれども)いうと、以前に読んでいた。途中で止めていたわけではなかった。内容を忘れていただけだ。読み進めるうちに記憶は甦る。物語が再生される。

古川日出男さんの『アラビアの夜の種族』は、文庫本で3分冊されている。単行本としては1冊。どちらも手元にあるはずだが、単行本の方は見当たらない。文庫本を買ったときにひょっとすると処分してしまったのかもしれない。あるいは実家に持って帰ったか。

いずれにせよ、今手元にあるのは文庫本3冊で、時間があれば読んでいた。おかげで「夜の種族(ナイト・ブリード)」の仲間入りだ。生活に支障をきたすには至らなかったものの睡眠は削られていた。

その中からの引用。
 書物とはふしぎです。一冊の書物はいずこより来るのか?
その書物を紐解いている、読者の眼前にです。読者は一人であり、書物は一冊。なぜ、その一冊を選んでいるのでしょう。ある種の経過で?
ある種の運命で? なぜ、その一冊と――おなじ時間を共有して――読むのでしょう?

読まれている瞬間、おなじ時間を生きているのは、その一冊と、その一人だけなのです。

 一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すのです。

はじめに、語り口が移ってしまいその語り口で書いてみよう、とわたしはいいましたが、引用した部分と最初の語り口が違っているように思う方もいらっしゃると思います。それは『アラビアの夜の種族』には幾人もの語り手がいるからです。著者(訳者といったほうがいいかもしれませんが)の語り、ズームルッドの語り、アイユーブの語り、そして書物自身の語り――様々な語り手がいます。

一冊の書物、物語にとっては、読者、聴き手が必要です。もとめている者のまえに物語は顕現われます。

『アラビアの夜の種族』のなかで、物語は、語り手として聴き手として、人間そのものとして顕現われます。そして人間も書物として。

「本よ」とファラーはいいました。「おれは、おまえだ」
生きている書物だった。あるいは一冊の人間だった。

一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すならば、一人の話し手にとって、聞き手とはつねに唯一の人間であることがいえます。逆もしかり。聞き手にとって話し手は唯一の人間です。

「そして物語は」とズームルッドはいった。「それをもとめている者のまえに、かならず、顕現われます。

ですから、あなたが、わたしたちの目前に」

さて、今回は口調(文体)を変えて語ってみました。

このような語り口のわたしと出会うのは、これが最初で最後かもしれません。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉4−不立文字《わもん黒帯: サノトモ》

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前回の「わもんな言葉3」で『沈黙』を再読したついでに、古川日出男さんの『アビシニアン』を再読。

文庫本が出版された当時に読んで以来なので、話の筋を全く覚えておらず、初めて読むような印象で読めました。

しかし、古川日出男さんの小説は、すごい!

感覚を言語化するのがとても巧みで、物語化されています。

文芸批評などしたことはありませんので、どこがどのように上手いなどということは私にはできませんが、なぜ今まで再読しなかったのだろう、とちょっと後悔しています。

そういえば『アラビアの夜の種族』は途中までしか読んでいないな…。

古川日出男さんの小説で初めて読んだのは『13』ですが、『13』は視覚について、特に色彩のイメージ。

『沈黙』は聴覚。

そして『アビシニアン』は嗅覚。

もちろんそれだけではないですが、「感覚の物語」「感覚の小説」のような気がします。

「物語の力」を感じます。

で、本題に入って、「わもんな言葉」ですが、『アビシニアン』からひとつ引用するとすれば、次の個所です。

たいせつなことがひとつあった・・・・・・ひとつだけあった。それはこれらの絵がずっとわたしになにかを告げようとしていたことだ。死んだ意味ではない。葬り去られた意味ではない。文字としての意味などではない。そのことは認識できた。だから、ここから――絵を絵として、観賞して観ることにより――得られる印象は、ことばの心愽だと感じた。残像が響きであり、それがほんもののことばの到達する場所を、地点を指し示している。

「わもん」でのテーマを何にしようか迷いましたが、「わもん」の言葉ではなく、「禅」の言葉「不立文字」がいいかと。

不立文字――文字を立てない。

文字や言葉が不要であるというわけではありません。

鈴木大拙さんがどこかで「『不立文字』といいながら、禅には多くの言葉がある」といった意味のことをおっしゃって(書いて)いましたが、伝達の手段として言葉は重要です。

しかし、言葉では伝えられないこともある。

同じく禅の言葉として「直指人心」という言葉があります。

直ちに人の心を指せ。

言葉は「そのもの」ではありません。

言葉は媒介、器、パッケージです。

便利な道具ではありますが、言葉にするときに何かがそぎ落とされてしまいます。

デフォルメされてしまいます。

直ちに人の心を指すには、言葉が邪魔になる場合もある。

不立文字。

ついでながら、禅には四聖句というものがあります。

「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」の4つ。

以前にちょっとブログにも書いたことがあります。

私の中では、「不立文字」と「教外別伝」はセットで、そこから「直指人心」、そして「見性成仏」という流れです。

「文字を立てない」「お経(教え)の外で別に伝える」そして「直ちに人の心を指せ」、そうすれば「本性が見えて仏に成れる」。

そして「見性成仏」をわもん用語(?)に直すと、「聞けば叶う」だと思っています。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉3−離我《わもん黒帯:サノトモ》

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好評(!?)だったため、調子に乗ってストックを連投しています。

今回のテーマは「離我」です。

「わもん」と出会う前に読んだものですが、「離我」という言葉のイメージから連想した場面です。

無響室で自分の心臓の鼓動を聴いた。胸の上に聴診器めいたマイクをあて、機械が体内音を拾いあげて、密室の中央に横たわるあたしの外部から、スピーカーで聞かせる。猫のお腹に耳をあてるよう。ただ、移動している感覚がある。猫のばあいにはそれはない。スピーカーの配置とコンピュータ・プログラムの細工。心臓が外側にあるのではない。あたしが要するに、中心を喪失している感覚だった。肉体からの遊離。あたしがきわめて精神的な存在となる。幽体離脱とはこういう感じだろうか。聴力に集中して、肉体を――重さのある肉体を喪失する。

引用元は、古川日出男さんの『沈黙』

「離我」という言葉を聞いたとき、古川日出男さんの小説の場面が浮かびましたが、どの小説か思い出せず、そのままとなっていました。

先日より少しずつあたりをつけながら手持ちの本を読んでいましたが、やっと発見。

実際、どんな音なのでしょう。

自分自身の内部の音が、外部から聞こえる感覚は。

仕事柄、自分の声を録音したものを聞くことがときどきあります。

自分が発する声と録音されて流れる声は違って聞こえます。

骨伝導、でしたっけ?

初めて自分の声を聞いたときは、「これが自分の声?」と、おそらくは誰もが違和感を持つと思います。

私は自分の心音を聞いたことがありません。

しかし、もちろん心臓が動いていることを感じたことはあります。

外から感じ取ることができたなら、かなりの違和感を感じるのではないかと想像します。

そして、タイミングよく(!?)「へその緒周波数交流」という新語。

聞く匠:やぶちゃん@wamonyabuchan
【わもん入ってる】聞くとは…へその緒周波数交流という新語が名古屋で誕生しました 。 #わもん
2012年6月6日

思えば、胎児のときは母親の胎内で、母親の心音を内部から、自分からすると母親の心音を外部から聞いていたのですね。

そのときの感覚は……、さすがに記憶にありません。

書籍『わもん』には、次のような言葉があります。

まずは、「話し手の心臓の音を聞く」「鼓動を感じる」という感覚をもってみるとよいと思います。
……(中略)……
心臓音は、話し手の命がそこにあることのあかしです。「命の音」と言ってもよいでしょう。それを聞くことは、「命を聞く」ことだと思います。

私は、話し手の「命の音」も、自分自身の「命の音」も、まだ聞いたことがありません…。

全く別のことですが、今回、『沈黙』を再読するにあたって、次のような言葉も見つけました。

あなたの人生のアウトラインを示す情報は受けとっていた、あとは――ここで、あなたの人生に波長をあわせる。どんな音のエレメントが必要なのかは――推理と、直観だった。

これも「わもんな言葉」だと思います。

《わもん黒帯:サノトモ》


Fw:わもんな言葉2−音を聞く《わもん黒帯: さのとも》

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【わもんな言葉2−音を聞く】

勝手にシリーズ化しようとしている「わもんな言葉」です。

シリーズ化とはいえ、不定期な更新ですので、ご了承ください。

とはいえ、「わもん」の提唱者である、やぶちゃん(藪原秀樹さん)から、ツイッターで励ましの言葉をいただいたのはありがたいかぎりです。

さて、「わもんな言葉」についてですが、あくまで「わもんな言葉」です。

「わもんの言葉」とは異なります。

私は本を読むことが好きで、本を読んでいると「あ、『わもん』だ」と思うような文章がときどき見つかります。

「『わもん』は実用学」なので、おそらくは「わもん」を探せば至るところにあるのでしょうが、私にとっては本を読んでいるときに気付くことが比較的多いような気がします。

そこで、私が「『わもん』だな」と感じた文章などを紹介していこうという試みです。

なので、「それは違うだろ!」というようなものもあるかもしれませんが、ご容赦ください。

今回のテーマは「音を聞く」

結城浩(著)『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』の登場人物エィエィの言葉です。

「ときどき《音楽がわからない》という人がいる。うまく言葉にできひんことをすべて《わからない》と片付ける人やな。音楽を、そのまま味わおうとしぃひん。言葉にできなくてもいいんや。言葉にならんから、音にしてるんやから。言葉にしたがる人は、音を聞いてへん。言葉を探してばかりで、演奏者が生み出した、かんじんの音を聞いてへん。音が響く時間を、音が広がる空間を、味わってへん。言葉探すな、耳をすませ!
……ということや」

エィエィが音楽について力説しています。

「言葉にならんから、音にしてるんやから」

「わもん」では、話を聞くとき、言葉だけでなく、音も聞くことが大切です。

音の高さや調子、大きさなど、言葉の意味だけではなく、その言葉に載せている音も感じ取る。

音だけでなく、表情やしぐさ、視線や身じろぎ、など。

非言語的なものを含めて「わもん」コミュニケーションです。

言葉にはできないもの、ならなかったものが、口調や声の高低、音量や音階、表情や態度に現れているのではないかと思っています。

「わもん」はそれらも「感じろ」と。

私自身はまだまだ修行の身ですので、なかなかこの域まで感じることができませんが、「言葉探すな、耳をすませ!」…ということです。

《わもん黒帯:さのとも》


Fw:わもんな言葉−1 《わもん黒帯: さのとも》

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【わもんな言葉1】

ジェームズ・ハンター(著)『サーバント・リーダー』の中で、「わもん」のような記述があったのでご紹介。

「積極的に聞くという作業は、頭の中でおこなわれます」。彼は続けた。「積極的に聞くためには、ほかの人の話を聞こうとするあいだ心の中の会話を黙らせておくという、訓練された行為が必要となります。雑音を締め出して、ほんの数分であっても相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力が必要です。積極的に聞くということは、話し手が見るように物事を見ようとすること、話し手が感じるように物事を感じようとすることです。話し手との同一化、共感は、たくさんの努力を必要とするのです」

ここでは、「積極的に聞く」ことについて述べられています。

私たちは何気なく聞いているとき、頭の中ではいろいろなことを考えています。

「何が言いたいのだろうか」
「きっとこういう話だ」
「それはちょっと違うのでは」
「話が長いな」
「今日の晩ご飯は何だろう」
などなど。

「わたしたちは、話すよりも四倍速く考えられるといいます。結果として、聞いているあいだに、たくさんの会話が心の中で雑音として去来します」

積極的に聞くためには、こういった心の中の会話を黙らせておく「訓練された行為」が必要となるとのこと。

「わもん」でいうところの「完全沈黙」ですね。

書籍『わもん』から引用すると、

 完全沈黙とは、なにも考えずに、話し手が話を終えるまで聞ききることです。
 まず、自分の頭や心をおちつかせ、自分のなかにわいてくる、考えや感情を鎮めていきます。「聞く」というたったひとつのことに、どこまでも集中していくことによって、自分の考えや感情から離れていく感覚です。
 そして、話し手に絶対尊敬を贈りながら、どんな話も聞いたままに受けとめていきます。聞き手の「ものさし」(価値判断)はいっさい出しません。話し手の考えや感情を否定しないことはもちろん、賛成もしません。ただ、「話し手はそう思っている」という事実だけを、しっかりと受けとめるのです。

「相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力」
「聞き手の『ものさし』(価値判断)はいっさい出さない」

言葉は違えど、同じことを言っています。

書籍『わもん』には登場していませんが、「離我」ですね。

「話し手との同一化」というのも、わもん用語では「話聞一如」。

話し手と聞き手がひとつになった姿です。

和と洋で同じような言葉が出てくるのはすごいですね。

《わもん黒帯:さのとも》


Fw:☆サノトモさん☆2012 年6月9 日第35回心徒塾リポート

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【2012年6月9日第35回心徒塾リポート】

サノトモさんの、言語的わもん解釈には、気づきが多いです(>_<)

絡まった糸がほどけるように、シンプルでわかりやすい!

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【ヤブログ特派員No.51キノトモ】