「わもん」を漢字で書くと「話聞」となります。
「話す」と「聞く」で「わもん」です。
先日、視点が違うということが話題になり、そこで思いました。
人であれ、動物であれ、物理的にはまったく同じ視点(目の位置)から何かを見ることはできません。
隣どうしで座って同じ方向を見ていたとしても、まったく同じところには座っておらず、若干違う視点から見ています。
右眼と左眼が見ていることも、わずかではあるかもしれませんが、まったく同じではありません。
しかし、だからこそ、奥行きがあり、立体的に見ることができます。
物理的にはまったく同じ視点から何かを見ることはできませんが、見ようとすることはできるかもしれません。
そして、それは「わもん」にも通じることだと思いました。
視点の話でいうと、話し手の話を聞くことときには、話し手の視点で見ようとして聞きます。
話し手がどこを見ているか、聞き手の視点ではなく話し手の視点で話を聞きます。
話し手の視点で見ようと、自分の視点を離れることが「離我」することにつながります。
物理的には、話し手の目の前には聞き手がいます。
聞き手が話し手の視点で見ようとして、見ることができたならば、物理的な目の前には聞き手としての自分がいます。
聞き手は自分自身を見ることになります。
「自己わもん」の入り口です。
聞き手は、話し手の話を、話し手の視点で聞くことで、自分を見ることができます。
「わもん」は「聞く修行」として、聞き手という修行が中心です。
しかし、違う視点から見ると「話す修行」として捉えることもできます。
話をするときには、聞き手の視点から話をしようとすることで、自分に話をすることにもつながります。
話し手と聞き手は、合わせ鏡のようなものです。
「話すわもん」も「聞くわもん」もあります。
合わせ鏡を覗くと、際限なく続いているように見えます。
キリがないことと思われるかもしれません。
だからこそ最後は「信じる」ことになります。
「わもん」とは、「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」です。
ここには「話す」「聞く」という言葉は使われておりません。
際限なくキリがないかもしれませんが、その先には輝きがある、そしてそれを信じる力を養っていく。
「わもん」では、そのためのひとつの手段として「聞く修行」を提案しています。
《わもん研究所所長:サノトモ》