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ラワットさんの2015年のDVDのYouTube動画ができました。
この動画は、6月7日(火)から文屋のサイトにて発売する、DVDの予告版として制作され、やぶちゃんのお話から始まっています。
また、このDVDには英語の字幕が付いています。
―ラワット氏とは?
プレム・ラワット日本事務局
premrawat-japan.com/
『LAST HOPE 見聞録』⑱
【独りで行く宣言~開拓者】
薮原は2016年1月16日、生誕53年の誕生日に「独りで行く宣言」をして、2016年4月1日から行動に移している。
その真意には、今現在1000人以上いる「わもん」の黒帯保持者の方たちは、それぞれの現場で頑張ろうということを提案しているので、薮原の悲願「福島完全除染」には巻き込みたくないという想いがある。
たとえば「独りで行く宣言」をせずに、福島完全除染のことを話したら、
「(わもん創始者である)やぶちゃんがやっているから、自分も何か協力しなくちゃいけないのかな」
そういう風には思ってほしくないので、「わもん」とは切り離したのである。
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【福島第一原発への道 ②】
「福島第一原発に入る!」
このミジンコ(直感)に従いすぐ行動に移した薮原であったが、一番の頼みの綱である政治家Nさんから、すぐに断られた。
が、しかしそこであきらめる薮原ではない!
次に出た一手は・・・
当時取引のあったM物産の子会社がペットボトルの水を新潟から福島第一原発に運んでいるという情報を入手した薮原は、すぐにそこの社長さんに会いに行った。
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【福島第一原発への道 ①】
福島第一原発に入ろうと決意した薮原であったが、まず一番にしたことは、旧知の仲の政治家Nさんに電話したことだった。力のある人だったので、簡単に原発に入れるように手配してくれるだろうと思った。
「先輩!これはえらいことですよ!これは早めに方をつけないととんでもなく長引きますよ!先手必勝ですよ!先輩!私を第一原発に入れてください!!」
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エスパーを日本語でいうと「超能力者」ということが多いですが、Wikipediaによると「超能力」は、「ESP」と「サイコキネシス(念力)」に大別することができると書かれていました。
エスパーを英語で書くと「esper」です。
語尾の「-er」は人を表す接尾辞ですので、エスパーとは「ESPを持っている人」ともいえます。
「ESP」というのは「ExtraSensory Perception」の頭文字をとったもの。
直訳すると「超感覚的知覚」です。
Wikipediaでは、「ESP(超感覚的知覚)」の種類として3つ挙げられていました。
「テレパシー」「予知」「透視・千里眼」です。
この3つであれば、できるとは言えませんが、できそうな気がします。
「テレパシー」は、ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること。
「あの人ならば、こう考えるだろう」と思いを馳せることはできます。
その断定形が「テレパシー」なのではないか。
「予知」も、「こうなるだろう」はしばしば思いますが、「こうなる」と断言できるのが「予知」ではないか。
「透視・千里眼」にしても、「かもしれない」ではなく、「だ」。
何となくそのような気がします。
やぶちゃんは「超能力」とは言わず、「超・能力(ちょうてんのうりょく)」と言います。
このときの「超」は、「超スピード」とかの「超」で、「とてもすごい」というような意味です。
本来持っている能力を磨き続けた結果、とてもすごい能力になったということです。
誰も持っていない特殊能力のことではありません。
五感・知覚を研ぎ澄ませたものが「ESP(超感覚的知覚)」。
「超能力者」と聞くと胡散臭いイメージもありますが、「エスパー」の語源をみると「わもん聴覚」を磨き続けた延長線上にありそうです。
《しもん協会:サノトモ》
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LAST HOPE ひとりの志が世界を変える~『音・行・信』で世の中を良くする~
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「最後の希望として『音・行・信』Sound・Action・Believeを胸に動き続ける」
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現在開催中の『「ひとりの志が世界を変える」リンポチェ師と歩む平和への祈り2016』ツアー。
2/16(火)の博多での前夜祭を皮切りに、17日は広島、18日は大阪、そして19日金沢、20日八戸、21日東京(黒帯限定)、22日名古屋、23日沖縄と続きます。
各会場レポートは、わもん名人初段のくろちゃんの投稿をご覧ください。
ひとりの志が世界を変える〜リンポチェ師と歩む平和への祈り〜初日(前夜祭)スタート
ひとりの志が世界を変える〜リンポチェ師と歩む平和への祈り〜二日目(広島会場)
博多の前夜祭と、本日(2/18)の大阪に参加し、その中で私が最も気になっている言葉がリンポチェ師のいう『宇宙の音』という言葉です。
リンポチェ師は英語で『sound of universe』と表現していました。
宇宙はひとつの音とともに生まれ、その音は今も鳴っているし、私たちの中にもある音でもあり、出すこともできる。
その音が、マントラの最初の音としてよく使われる「オーム(Om)」という音である。
このような内容だったと思います。
言葉に興味がある私は、「sound of universe」という言葉を聞いたとき、「universe」の「uni-」は「ひとつ」という意味だなと思っておりました。
ユニフォーム(uniform)やユニコーン(unicorn)などの「uni-」です。
unify(統合する)や United States(合衆国)などにも関連しています。
とすると、「universe」の「-verse」とは何か?
たしか「韻文」のことを「verse」といったような…、とリンポチェ師の話を聞きながら考えておりました。
(このあたりは修行不足のところがあります…)
韻文とは詩の形式の文章。
詩には音があり、リズムがあります。
「universe」とは「ひとつの韻文」「ひとつの詩」。
『宇宙の音』は単一の音ではなく、ひとつの曲ではないか。
こんな想像をしていました。
また、本日の話の中では、「あらゆる音」とも表現されていたと記憶しています。
光をプリズムで分解すると七色になりますが、透明な光の中にすべての色が含まれているとも考えることができます。
あらゆる音を集めて聞くと、それは透明な音で、それが「宇宙の音」ではないか。
だから「宇宙の音」はどこにでもあるけれど、気づかれていないのではないか。
こんな想像をしていました。
「宇宙の音」に出会うことができる『「ひとりの志が世界を変える」リンポチェ師と歩む平和への祈り2016』ツアー。
「宇宙の音」に毎日触れるやぶちゃんの変化も楽しみです。
《わもん研究所所長:サノトモ》
現場で通用する黒帯のあり方をやぶちゃんに学ぶ『Let’s わもん’s Way Program』(黒帯限定講座)。
その冒頭で「わもんフィロソフィー」の映像が流れます。
文章はさのとも、朗読はまきちゃん、映像編集はさとたかです。
何度か「あの文章はどうやって書いたの?」という質問を受けましたので、この場を借りて残しておきたいと思います。
やぶちゃんから依頼を受けたのは、昨年(2015年)の2月。
なぜ覚えているかというと、昨年、1ヵ月エブリディ(5月)、47都道府県エブリディ(7・8月)、100日連続エブリディ(9〜12月)を成し遂げたつよっさんの本『聞き合う社会』の出版記念講演会に参加したときに依頼を受けたからです。
「『わもんフィロソフィー』をつくってほしい」
「小学生にもわかるようなものを」
「『Let’s わもん’s Way Program』の冒頭に、音声といっしょに映画みたいにテロップで流れるようなイメージ」
やぶちゃんから依頼された内容はこれだけです。
ただ、そのときに浮かんだ文章があります。
それが「わもんフィロソフィー」の最初の文「人は、死ぬ瞬間まで、輝き続けることができる。」というものです。
当時の黒帯心徒塾の中で頻繁に話されていた内容でもあり、この文章だけはどこかに入れたいと思いました。
その他、「わもん」と聞いて連想すること、たとえば「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」や「心ある一人」、あるいは「話す」「聞く」ということなど、それらを取り入れた文章にしようと作りました。
朗読することもありましたので、一文を短く、そして読むときのリズムを考慮しながら書き進めたため、詩的な文章となりました。
小学生にわかるかどうか、というところは微妙なところがありますが、朗読と映像が加わったものを見たところ、我ながらいいことを書いているなと思います(^^)
この「わもんフィロソフィー」を、わもん書家つっちーが書にしたためてくれました。
来たる1月23日に、Facebook上で頻繁に見ることができると思います。
こちらも楽しみです(^^)
ちなみに「フィロソフィー(philosophy)」の意味は「哲学」ですが、「知(-sophy)を愛する(philo-)」というのが原義です。
愛知県ともご縁がありそうです(^^)
《わもん研究所所長:サノトモ》
シャーロック・ホームズのファンのことを「シャーロッキアン」といいます。
やぶちゃんのファンのことを「ヤブロキアン」といいます。
そして、
「くろちゃんのファンのことを『クロマニアン』と呼ぼう!!」
こんな現象が起きています。
ちなみに、やぶちゃんはシャーロキアンで、くろちゃんはヤブロキアンです。
さて、シャーロキアンは英語で書くと「Sherlockian」で、シャーロック・ホームズの「シャーロック(Sherlock)」に、接尾辞の「-ian」を付けて構成されています。
「-ian」は、「ミュージシャン(musician)」や「マジシャン(magician)」などに使われています。
とすると、「ヤブロキアン」は「ヤブロック(Yaburok)」に「-ian」を付けた言葉、「クロマニアン」は「クロマン(Kuroman)」に「-ian」を付けたものとなるはず!!
ですが、実際は違います(^-^;)
英語と日本語では異なる法則が用いられているようです。
いや、英語と日本語での違いではなく、個人に帰する違いなのかもしれません。
「ヤブロキアン」の名付け親は、くろちゃん。
「クロマニアン」の名付け親は、くろちゃんをこよなく愛する方々。
既存の枠に捉われない方々ですので、英語の法則にも捉われない。
枠に捉われない生き方をされている方々が「クロマニアン」なのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
2015年10月2日、わもんマスタートレーナーまきちゃんの本が出版されました。
タイトルは『信じる力は翼になる』。
まきちゃんがこれまでの人生経験から学んだこと・気づいたことについて書かれています。
まきちゃんにお会いしたことがある方ならわかると思いますが、「日常をテーマパークに」という言葉どおりに、まきちゃんはいつも笑顔で楽しそうな雰囲気を漂わせています。
この本に書かれているような波乱万丈の人生を歩んできたようには見えません。
“ディズニーで働く中で、多くの体験を通じて人の輝きと可能性を信じきる力を育てていただいた。
そして、”わもん”では人を信じきる力の真価、誰もが持っている無限の可能性をみせてもらっている。
この出逢いで、紆余曲折、波乱万丈だった私の人生の体験すべてが意味のあるものになった。”
「信じる力は翼になる」という表現を借りていうなれば、辛く苦しいことや困難なことを乗り越えたというよりは、「(翼でもって)飛び越えた」といった方がいいかもしれません。
この本の中に、「信じる力の深さとパワーを身を持って体験できた」として書かれているエピソードがあります。
2度目のガンになり、その治療方法の選択で「命の決断」をしたときの話です。
“私が2度目のガンになった時、治療方針、術式もいろいろある中、ほんとにこれでいいのかな? 迷い悩んだあげく、これでいこうと命の決断をしたとき、やぶちゃんに「ええやん!!」って言ってもらえてほんとに勇気をもらった。”
“信じてもらえることで、自分を信じることができた。本当の自分と繋がることができたのだ。治療方法の選択は命が懸かっている重い決断だったから、たった一人、私の決めたことに「ええやん!」と言ってくれて、深いところで信じてくれる人がいることで、どれほど心強かったことか!生きる勇気が溢れてきた。”
“命の決断に対して「ええやん!」って言ってもらったことで生きる勇気をもらえて、心が軽くなった。”
誰かに信じてもらうことが勇気となり、自分を信じる力が増していきます。
軽くなることで飛びやすくなります。
以下、結城浩さんの『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』からの引用です。
“「ねえ、母さん」
「なあに?」デザートメニューを熟読していた母が顔を上げた。
「僕は――何やってんだろうね」
「美しい母と食事」
「なんだか――崖から落ちていく気分だ。何も準備ができていないのに……あとひと月で高三。あと一年で受験。毎日が過ぎて、崖が近づいてきて――地面がなくなる。どうやって歩けばいいんだろう」
「空を飛べば?」と母が言った。「地面がないなら、空を飛べばいいのよ」
「え?」
「二枚の翼をぱたぱた動かせば、飛べる。信じられないかもしれないけど、あなたは飛べる。左と右、一対の翼があれば十分よ。崖があるのは飛ぶために決まってるじゃない――あなた、何が怖いの?」”
《わもん研究所所長:サノトモ》
現在、わもん界を中心としたさまざまなプロジェクトが走っています。
その中のひとつに「五段〜七段60人プロジェクト」というものがあります。
これは、「今年(2015年)12月23日までに黒帯五段〜七段の人数を60人以上にしよう」というプロジェクトです。
9月8日現在、五段〜七段の人数は31人、そして四段の人数は47人。
年内に名人を目指している方(少なくとも3人)はいますので、単純に考えると、47人の四段の方のうち32人が五段になればいいということになります。
もちろん、現在三段の方や、まだ見ぬ方が年内に五段となってもOKです。
しかし、先ほど「単純に考えると」と書いたのは、このプロジェクトが発足した事情があるためです。
なぜ、五段〜七段の人数を60人以上にしようとしているのか?
それは、「推薦人問題」を解決したいと考えているためです。
ここでは詳細は省きますが、「推薦人問題」というのは、三段認定に必要な推薦人が限られてしまうという問題です。
三段認定前には、少なくとも五段〜七段の方5人の方の推薦が必要です。
特に北海道や東北、九州など、黒帯さんの人数が多いにもかかわらず五段〜七段の人数が5人に満たない地域では、推薦人を選ぼうとしてもなかなか選ぶことができない、という状況があります。
その推薦人問題を解消する目安として、「今年中に五段〜七段の人数を60人以上にしたい」という思いがあります。
そして、三段の人数を増やしたいということのさらに先には、聞く力を持った人を増やしたい、日本の聞く力を深めたい、という思いがあります。
未来から現在を見て、「2015年12月23日までに五段〜七段の人数を60人以上にする」という目標があります。
目標設定では、期限を設けることが重要になります。
いつまでにどうするか。
また、「2015年12月23日までに五段〜七段の人数を60人以上にする」というのは、プロジェクトチームでの目標です。
では、自分はどうするのか。
他人事から自分事へ。
すべては自分へのメッセージとして。
あの手この手、千手観音手。
《わもん研究所所長:サノトモ》
前回の「わもんな言葉128−できる」のなかでお伝えした「心聞士塾」が先日開講され、1日目・2日目が終了いたしました。
心聞士塾は、心聞士を育成していく塾ですが、心聞士塾を受講しただけでは、心聞士にはなれません。
心聞士になるためには、現在、2つの条件があります。
ひとつは、心聞士塾を受講し認定されること、そしてもうひとつは、わもんの名人になることです。
あり方が深まった上でやり方が活きるということを形にしたような条件です。
「孫子の兵法」と言われる兵法書、『孫子』のなかの有名な語句に以下のものがあります。
“彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。”
岩波文庫版『孫子』の訳を引用すると、「敵情を知って身方の事情も知っておれば、百たび戦っても危険がない」という意味です。
実は、これには続きがあります。
“彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。
彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。”
このように書かれると、私の場合は、「彼れを知りて己れを知らざれば、どうだろう?」と考えてしまいますが、それはさておき。
心聞士塾では、やり方として「わもん至法」を学んでいきます。
そして、「わもん至法」の基本的な考え方のひとつとして、「必ず目的を果たす」というものがあります。
「わもん」は、「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」ですので、いわば「己れを知る」に近いと感じます。
そして、「わもん至法」では「事実集積」なども扱い、敵ではありませんが、いわば「彼れを知る」に近いと感じています。
とすると、「わもん」であり方を深めた名人が「わもん至法」でやり方を身に付けることは、「彼れを知りて己れを知る」ことではないか。
さて、今回の心聞士塾の1・2日目は、私が講師として板の上に立ちました。
参加者の方に満足いただけたようですので、自分自身に○(まる)をつけましたが、同時に、まだできたことはあったという伸び代も見つかりました。
一番勉強させていただいたのは私のような気がします。
まだまだ自分のことをわかっていないようです。
さて、自分のことをわかっていないのに、「わもん至法」の解説をするというのは、「彼れを知りて己れを知らざれば」にあたりそうなのですが、どうだろう?
《わもん研究所所長:サノトモ》
いよいよ、この7月から「心聞士塾」が開講します。
わもんな言葉でも取り上げたことのある「心聞士」。
僭越ながら、私も心聞士塾の講師の一人として、「わもん至法」の解説に携わっています。
プレッシャーもなくはないですが、それよりも楽しみの方が勝っています。
海のものとも、山のものともわからない「心聞士」。
そのような「心聞士」を育成していく仕組みである「心聞士塾」。
この「心聞士塾」の内容もまだ明確にはわかっておりません。
それでも楽しいと思えるのは、おそらく、まだわからない「心聞士」や「心聞士塾」が具体的になっていくその過程を間近でみることができるからではないかと思います。
「心聞士」というひとつのアイデア(ミジンコと呼んだ方がいいかも)からはじまって、具現化していく。
見えなかったものが見えるようになってくる。
形のないものが形になっていく。
そのプロセスに関わり、ともに作り上げていくことに楽しみを感じます。
「できる」とは「出で来る」。
「作品ができた」など、何かが出来上がるときにも使います。
イメージとしては、浮かび上がる、出来上がるというように、上へ向かう方向性です。
深く沈んでいたものが浮かび上がり、見えるようになる感覚です。
一方で、「できる」とは、可能も意味します。
誰にでも可能性はあります。
その可能性が具体的になったとき、「できる」と思えるのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
内田樹さんの講演録である「最終講義」(『最終講義 生き延びるための七講』所収、文春文庫)の中で、声の響きについて言及されていた箇所がありました。
“アイデアの尻尾をつかまえたときに、それをたどっていけるかどうかは知的なイノベーションにおいて死活的に重要なことですが、それにはその場が声の響きがよいかどうかが深くかかわっています。”
内田さんが勤められていた神戸女学院大学の建物でもあるヴォーリズの建築の特徴として「声の通りが良い」ということを挙げ、「声が気持ちよく響くという音声環境は学校教育にとっては大切な条件」である、と言っています。
「音声の悪い教室とよい教室ではそこで営まれる知的営みの質に決定的な差が出てくる」、つまり、声が気持ちよく響く音声環境では、アイデアの尻尾をつかまえたときに、それをたどっていきやすいということです。
“何か思いついて、それを口にすると、その言葉につられるように次々とあとの言葉が紡がれてくる。センテンスを言い終わる前に、次のセンテンスがうまく繋がる。それは自分の発している言葉の持つ音楽性というか、物質性というか、そういうかすかな手がかりがとらえられるからできることなんです。”
ここでは、学ぶ個人と、学ぶ環境ということで語られていますが、「話し手」と「聞き手」としてとらえなおすこともできるのではないかと思います。
聞き手は、話し手の話す場、環境をつくります。
話し手が何でも話せるような安心空間をつくることもできます。
逆に、聞き手次第で、話しにくい雰囲気がつくられてしまうこともあります。
聞き手は、話し手にとっての環境となりえます。
話し手が話すときの音声環境によって、そこで営まれる知的営みの質に決定的な差がでてくるならば、環境としての聞き手の役割は重要になります。
話し手の声がいかに気持ちよく響くような環境をつくることができるか。
聞き手がつくる環境が、話し手の知的な営みに影響します。
話し手の気づきや知的イノベーションを促すことができます。
そのためにも、まずは自分自身の響きに意識を向けるといいかもしれません。
どんなときに声が気持ちよく響くのか。
どんなところで不快な響きが出てくるのか。
そうすることで、周りの響きにも意識が向くと思います。
響きを感じるところからはじめませんか?
《わもん研究所所長:サノトモ》
“You see, but you do not observe. The distinction is clear. For example, you have frequently seen the steps which lead up from the hall to this room.”
“Frequently.”
“How often?”
“Well, some hundreds of times.”
“Then how many are there?”
“How many? I don’t know.”
“Quite so! You have not observed. And yet you have seen. That is just my point. Now, I know that there are seventeen steps, because I have both seen and observed. By the way, …”
冒頭から英語で驚いた方もいらっしゃるかもしれません。
上記の引用は、シャーロック・ホームズ「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』所収)からの一節です。
ホームズファンならばたいていは知っている有名な箇所です。
ホームズは、「きみ(ワトソン)は見ているが、観察はしていない。(You see, but you do not observe. )」と言って、階段を例に出します。
ワトソンも何百回と見ている、ホームズの部屋へとあがる階段です。
「じゃ、何段ある?」
ホームズからの質問にワトソンは答えられませんでした。
ここでは階段の段数について述べられていますが、何も階段の段数を数えることが観察というわけではありません。
「見る」と「観察する(観る)」の違いは、その対象の特徴を表現できるかどうかということもあるのではないかと私は思っています。
ホームズは段数を言い表すことで表現しました。
絵を書いたり、階段の模型をつくったりして表現することもできるでしょう。
対象を頭の中に写し取っているとも言えます。
「わもん」では、人の話を聞く際、言葉ではなく「音」に意識を向けます。
見るわけではありませんが、音を観察します。
音が観察できているかどうかは、その音を表現することができるかどうか。
実際にその音声や声色を出すという表現もあれば、言葉で説明したり、音階で説明したり、表現方法は様々です。
できるだけ忠実に表現するならば、その人の言葉や声の強弱、音圧、音調等と、同じ声を出すことになります。
ものまねや似顔絵など、似ていると思うものは、全く同じではないけれど特徴をよく捉えています。
特徴を捉えるためには、観察が必要です。
観察をすることで、特徴あるいは本質が浮かび上がってきます。
まずは観察、そして洞察。
さて、この「わもんな言葉」は何回目でしょうか?
《わもん研究所所長:サノトモ》
ふと思いました。
「決める」という漢字「決」は、なぜサンズイなのだろう、と。
サンズイの漢字は、たいてい水と関係しています。
「決める」と「水」の関係は?
漢和辞典を引いてみると、「決」の右側の部分「夬(カイ)」は、「手の指一本をコ型に曲げ、物に引っ掛けるさま。また、コ型にえぐるさま。」を表したもので、サンズイを伴うことで、「決」は「水によって堤防がコ型にえぐられること」を意味するようです。
「ずばり切る」「がっぽりと切る」ことから、決定の意味に転じたと書いてありました。
堤防がえぐられると、水はその方向に勢いよく流れていきます。
「決める」ことで、エネルギーがその方向に流れていきます。
何かを決めると、やり方を探しはじめ、行動にうつります。
人は、多かれ少なかれ、様々なことを決めて生きています。
小さなこともあれば、大きなこともあります。
あるいは嫌々「はい」と返事をしてしまうこともあるかもしれません。
嫌々「はい」と返事してしまったことは、周りが決めたこととも言えます。
周りが決めて、流されてしまった状態です。
自分の生き方をしたいと思うならば、自分で決めて、流れをつくっていきましょう。
《わもん研究所所長:サノトモ》
「ルンバ?」
先日、今後の黒帯心徒塾の予定を確認しようと「やぶちゃん暦」を見ていたところ、目に入ってきました。
それまでは、ガチ壁心徒塾が予定されていた日時のイベントタイトルが、「ガチ壁心徒塾」から「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」に変更されていたためです。
最近の黒帯心徒塾に参加していればイベントタイトル変更の話を聞くことがあったのかもしれませんが、私が前回参加した黒帯心徒塾では出てきていなかった話。
「『ルンバよ、さらば!!』とはどのような意味合いなのだろう?」
言葉に魅かれる私としては、考えずにはおれません。
「おそらくは、何かを『ルンバ』に例えているのだろうな」と。
かといって、考えたところで答えがでるはずもなく、保留しました。
そして本日、「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」のイベントページができていました。
実際どういった意味合いで名付けられたのかは聞いていませんが、イベントページに書かれている内容から「ルンバ」の意味合いを想像してみます。
まずはイベントページを確認。
「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」の講座内容の欄に、以下の内容が書かれていました。
“これまでの自分の思考、行動パターンを乗り物や機械に例え、
その思考行動パターン故の悩み(ルンバ(自動掃除機))に別れを告げて
新しい乗り物、機械に買い替えるというプログラム。
やぶちゃんがしている、判断決断の早さはどこからくるのか?
やぶちゃんから学ぶ運気があがるメソッドです。”
「その思考行動パターン故の悩み(ルンバ(自動掃除機))に別れを告げて」ということから、「ルンバ」は「思考行動パターン故の悩み」を指しています。
さすがにこれだけでは、つまらないですので、さらに深読みしていきます。
「ルンバ(Roomba)」は、アイロボット社が製造しているロボット掃除機です。
スイッチを入れるだけで自動的に部屋中を動きまわり掃除をしてくれます。
実際にルンバの動きを見たことはありませんが、単純に考えると次のような動きをするものと思われます。
・真っ直ぐ進む。
・障害物や段差があれば方向を変える。
(ホームページを見ると、スピードを変えたり、ゴミセンサーがついていたりとありますが、詳細は省きます。)
悩みも同じようなものなのかもしれません。
あっちに進もうとしては障害物があって方向を変え、こっちに進もうとしては壁があり…。
部屋の中であっちへ行き、こっちへ行き、しているような状態が「悩み」です。
部屋から出れば悩みは解決できるのかもしれませんが、「これまでの自分の思考、行動パターン」では、部屋を出ることができません。
そこで、扉を開いてあげます。
すると、その開いた扉から、ルンバの行動パターンであっても、部屋の外に出ることができます。
部屋の外に出たルンバはどうなるでしょう?
同じ行動パターンで掃除をし続けます。
ルンバは乗り物ではありませんが、ルンバに乗っているとしましょう。
「悩み」とは、部屋の中をぐるぐると動きまわっている状態です。
扉が開いて部屋の外に出たとしても、同じ思考行動パターンだと同じことの繰り返しです。
誰かに扉を開けてもらわないとさらに外へはいけません。
さらに外へ行くには、ルンバに別れを告げて、違う乗り物に乗り換えたくなるかと思います。
あくまでも、ルンバは掃除機で、乗り物ではありません。
掃除をするために効率のいい思考行動パターンを持っています。
「思考行動パターン故の悩み」というのは、どこかに出かけていきたいのに、掃除をするための行動パターンをし続けているために部屋から出ることができない状態ということもできます。
天命への道を進んでいきたいならば、ルンバのような思考行動パターンではなく、別の思考行動をとっていこう。
「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」とは、そのような講座なのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
先日の京都での黒帯心徒塾(2日目)のこと。
午前中、自己紹介前の「わもんトピックス」では、主に2つの話題がありました。
ひとつは、今回のブログのタイトルにしている「なんか星」について。
もうひとつは、「つよっさんの聞き合うライブ」について、です。
わもんを知りたい、学びたいと集まってくる人は、よく次のようなことを言います。
「なんかわからんけど、参加してみた。」
「なんかありそうだと思い、1度参加しようと思った。」
「なんか魅かれるものがある。」
「なんか……。」
「なんか」という言葉を使うことが多いのです。
なので、もういっその事、このような人たちは「なんか星」から来た「なんか星人」としよう、という話。
そして、つよっさんのライブについての話に移ります。
5月中の31日間連続エブリディ聞き合うライブを終え、次は7月より47都道府県エブリディ、そして9月からは100日連続エブリディのライブを予定しているつよっさん。
この場で100日連続エブリディライブをすべて、東北の会場で開催することを決めました!
そして、その応援団長として、つよっさんの盟友まっちゃんが指名されました!
「同じこと(つよっさんの100日連続ライブ)はできんけど、できることをしていく!」と。
続く自己紹介の内容は、「なんか星」と「つよっさんの思い」を聞いた感想が並びます。
「自分にもなんかできることがある」など。
それを聞きながら、私も思いました。
「自分にも何かできることがあるだろう」と。
さて、何ができるだろうかと考えながら、他の人の自己紹介を聞いていると(注:わもんでは、自己紹介中も「聞く」修行です。このときは自己紹介に集中せず違うことを考えていました。反省。)、「なんか星」という言葉がときどき聞こえてきます。
何ができるだろうか、と考えながら聞いていたせいか、「なんか星」と聞こえる度に、次のように言われている気がしました。
「なんかせい!」
「お前にも何かできることがあるだろう! 何かしろよ!」と。
《わもん研究所所長:サノトモ》
なぜか「アジト」と呼ばれることが多い「わもんシェアハウス」。
以前までは名人くろちゃんとさのともの2人で住んでいましたが、先月より住人が増え、4人になりました。
決して悪巧みをしているわけではありません(^-^;)
あまり知られていないかもしれませんが、くろちゃんとさのともの2人で「わもんの話」という音声を You Tube にてお届けしております。
住人が増えてからの様子はそちらをお聞きください。
さて、なぜ「アジト」と呼ばれるのか?
「アジト」と聞くと、私(さのとも)は何となく秘密結社のようなイメージを持ってしまうのですが、語源を確認したことがなかったので、調べてみました。
手元の国語辞典では、ロシア語のагитпункт(agitpunkt、アギトプンクト)を由来として「(左翼運動者などの)秘密本部」という意味(^-^;)
その他、Web上で検索すると、英語 agitating point(アジテーティング・ポイント)の略という由来もありました。
Wikipedia には「労働運動、地下組織の宣伝司令部」と(^-^;)
ここまででは秘密結社のイメージが拭い去れませんので、もう一歩踏み込んで(というよりは、イメージをよくするために)「agitating point」に目を向けてみます。
agitate(アジテイト)というのは、単純に思いつく訳語は「扇動する」です。
しかし、あらためて辞書を引くと、「激しく揺り動かす」という意味がありました。
ラテン語 agitare「激しく揺り動かす」というのが語源で、そこから「扇動する」という意味が派生したようです。
ならば、「アジト」とは「agitating point」、激しく揺り動かす起点となるところとも言うことができるかもしれません。
名人くろちゃんの会社は「日本の聞く力を深める 株式会社聞く力。」
そして、わもんでは今年2015年、「社会に現象を起こす」年としています。
このような活動の起点としての「アジト」としましょう!
決して、悪巧みをしているわけではありません(^-^;)
《わもん研究所所長:サノトモ》
ツネちゃんが名付けた「最終責任者シップ」。
あらゆる現場で、自分が最終責任者であるという意識のあり方をいいます。
「シップ」というのは、「フレンドシップ(friendship、友情)」や「リーダーシップ(leadership)」などと同じ「シップ(-ship)」で、「シェイプ(shape、形)」と関係があり、状態や性質、能力や技量などを指し示します。
さて、今年の9月にイギリス・ロンドンで予定されているツネちゃんのスピーチでは、「最終責任者シップ」はどのように英訳されるでしょうか?
「最終責任者シップ」の英訳は未定ですが、思いついた英単語は「responsibility(責任)」でした。
「responsibility」という単語は、「responsible」という形容詞の単語に「-ity」という接尾辞を付けて名詞化した単語です。
そして、「responsible」という単語は、「response」という名詞に、「-ible」という接尾辞を付けています。
「response」は、日本語でいうと「返答」や「反応」という意味があり、「応答が早い」「反応が早い」というときに「レスポンスが早い」などと使うこともできます。
「response(レスポンス)」に接尾辞「-ible」を付けて「responsible」。
接尾辞「-ible」は、「できる」という意味のある英単語「able」から来ています。
「be able to 〜(〜できる)」というフレーズを聞いたことがある方は多いでしょう。
「responsible」というのは、日本語でいうと「責任がある」という意味ですが、「応答できる」「反応できる」という意味が含まれます。
つまり、「responsibility(責任)」というのは、「応答できる能力」「反応できる能力」のことです。
余談ですが、「able(できる)」+「-ity(名詞をつくる接尾辞)」で、「ability(アビリティ、能力)」です。
「最終責任者シップ」を考えたとき、最後の最後に反応できる状態、あり方を指すともいえると思います。
自分が、この場の状況に対して、最終の責任者として、油断せず覚悟を持って臨むあり方。
何が起ころうとも、指をくわえて見ているだけではなく、いつでも反応・対応できる状態を保っておくこと。
それが「最終責任者シップ」ではないかと考えています。
《わもん研究所所長:サノトモ》
先日、わもん創始者やぶちゃんと、元ディズニーマスタートレーナーまきちゃんによるコラボセミナー「やぶまきミジンココラボ『種と仕掛け』〜究極の承認力と信じる力を徹底解明〜」が開催されました。
参加は・・・、
しておりませんm(__)m
その代わりといっては何ですが、ヤブログ放送室『種と仕掛け』をお聞きください。
ここでも様々な「種」、言葉を変えると「ハト(マイクロバト)」を飛ばしています。
わかる人にはわかる、わからない人にはわからない「種」です。
「種」もしくは「ハト(マイクロバト)」について私自身の例でいうと、以前に「わもんな言葉27−ハト」という記事を書いています。
この記事に関連する「源泉わもん」も、まきちゃんとやぶちゃんによるコラボセミナーです。
何だか妙な符号ですね(^-^;)
そもそも「セミナー(seminar)」の語源は「苗床」です。
「セミ(semi-)」は「種」を意味します。
田植えでは、田んぼに種を蒔くのではなく、苗を植えます。
苗を育てたものが「苗床」です。
種から苗を育てて「苗床」をつくり、田植えではその苗を植えていきます。
稲作では苗を植えることが主流かと思いますが、畑では、苗を植えた方が育てやすいもの、あるいは直接種を蒔いた方が育てやすいもの、様々あると思います。
誰かに「種」を飛ばすときも、「種」のまま蒔いた方がいいのか、それとも「苗」として植えた方がいいのか、いろいろありそうです。
そして、その種を蒔く、あるいは苗を植える土地を耕すことを「場づくり」というのです。
《わもん研究所所長:サノトモ》
縁あって、「わもん至法」の作成にかかわらせていただいております。
「わもん至法」とは、「わもん」があり方として、その「わもん」をベースにしたやり方のことを指します。
もともとは「わもん兵法」と呼んでいたのですが、「兵法」と聞くと「戦略」や「戦術」を思い起こし、「戦い」をイメージすることから、別の名前をつけようということで「わもん至法」となりました。
「至宝(最高の宝)」にもつながりますね。
ナカジさんが「至法」の「至」という漢字の成り立ちを調べたところ、もともと「至」という漢字は、矢が目標地点に飛んでいき、刺さった様子から作られた漢字だということです。
私の手元にある漢和辞典にも、「『矢が下方に進むさま+一印(目指す線)』で、矢が目標線まで届くさまを示す」とありました。
ついでといっては何ですが、「至法」の「法」という漢字も調べてみたく思い、同じく漢和辞典で引いてみたところ、漢字の「法」の成り立ちが以下のように記されていました。
“「水+・(タイ。シカと馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)で、池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま。珍獣はその枠の中では自由だが、その枠外には出られない。広くそのような、生活にはめられた枠をいう。”
「枠」というと少しネガティブなイメージもありますが、「法」には「模範」「手本」というような意味もあります。
「わもん至法」の「至」や「法」の漢字の成り立ちを調べていくうちに、私の中にひとつのイメージが湧き上がってきました。
矢が水中を深く深く進んでいくイメージです。
矢が下方向に、水底に向かって、水を切り裂きながら進んでいきます。
水が去っていくような勢いで。
そして、矢が目標線に届くと、そこには、「珍獣」がいる(笑)
それは、深海魚なのか、ミジンコなのか。
「わもん至法」とは、ミジンコ(直感)を捉える方法なのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
以前、沢庵禅師の『不動智神妙録』からの引用を使って「わもんな言葉」を書いたことがありました。
「わもんな言葉8−わもん聴覚」です。
実は、その引用部分の前後には、千手観音について書かれています。
「わもん聴覚」での引用部分も含めると、以下の文章です(池田諭さんの訳です)。
“千手観音だとて、手が千本おありになりますが、もし、弓を持っている一つの手に心がとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役にはたちますまい。一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つのです。
いかに観音とはいえ、どうして一つの身体に千本もの手を持っておられるかといえば、不動智を身につけることができれば、たとえ身体に千本の手があったとしても、立派に使いこなせるのだということを人々に示すために作られた姿なのです。
たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
このことを悟った人は、つまり千手千眼の観音と同じです。”
一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つ。
一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見える。
さて、「あの手・この手・千手観音手」。
ありとあらゆる手を打つことを意味します。
そのうちの一つの手に心をとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役には立たないのかもしれません。
たとえば、何かしら一生懸命、ありとあらゆる手を打って出した結果があるとします。
のちのち、その結果が出たときは、この手が一番有効だった、と振り返ります。
次に同じような結果を出したいときに、一番有効だった手しか打たなかったらどうでしょうか。
おそらく同じような結果はでないのではないかと思います。
振り返りは大切ですが、一つの手にとらわれてしまうと、残りの手が役に立ちません。
「あの手・この手・千手観音手」を、いつでも・どこでも・誰にでも。
《わもん研究所所長:サノトモ》
「わもん」を漢字で書くと「話聞」となります。
「話す」と「聞く」で「わもん」です。
先日、視点が違うということが話題になり、そこで思いました。
人であれ、動物であれ、物理的にはまったく同じ視点(目の位置)から何かを見ることはできません。
隣どうしで座って同じ方向を見ていたとしても、まったく同じところには座っておらず、若干違う視点から見ています。
右眼と左眼が見ていることも、わずかではあるかもしれませんが、まったく同じではありません。
しかし、だからこそ、奥行きがあり、立体的に見ることができます。
物理的にはまったく同じ視点から何かを見ることはできませんが、見ようとすることはできるかもしれません。
そして、それは「わもん」にも通じることだと思いました。
視点の話でいうと、話し手の話を聞くことときには、話し手の視点で見ようとして聞きます。
話し手がどこを見ているか、聞き手の視点ではなく話し手の視点で話を聞きます。
話し手の視点で見ようと、自分の視点を離れることが「離我」することにつながります。
物理的には、話し手の目の前には聞き手がいます。
聞き手が話し手の視点で見ようとして、見ることができたならば、物理的な目の前には聞き手としての自分がいます。
聞き手は自分自身を見ることになります。
「自己わもん」の入り口です。
聞き手は、話し手の話を、話し手の視点で聞くことで、自分を見ることができます。
「わもん」は「聞く修行」として、聞き手という修行が中心です。
しかし、違う視点から見ると「話す修行」として捉えることもできます。
話をするときには、聞き手の視点から話をしようとすることで、自分に話をすることにもつながります。
話し手と聞き手は、合わせ鏡のようなものです。
「話すわもん」も「聞くわもん」もあります。
合わせ鏡を覗くと、際限なく続いているように見えます。
キリがないことと思われるかもしれません。
だからこそ最後は「信じる」ことになります。
「わもん」とは、「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」です。
ここには「話す」「聞く」という言葉は使われておりません。
際限なくキリがないかもしれませんが、その先には輝きがある、そしてそれを信じる力を養っていく。
「わもん」では、そのためのひとつの手段として「聞く修行」を提案しています。
《わもん研究所所長:サノトモ》
最近のやぶちゃんのお気に入りのひとつ、微塵子(ミジンコ)学。
ときどき、「ミジンコアニメーション」と称して、ミジンコが跳ぶ様子やミジンコをつかまえる場所などを説明しようとしています。
このブログを読まれている方は知っているかと思いますが、やぶちゃんは「直感」のことを「ミジンコ」と呼んでいます。
「ミジンコアニメーション」は、直感について説明しようとするひとつの試みです。
人間には、意識できるところと意識できないところがあります。
意識できるところは「顕在意識」、意識できないところは「無意識」。
無意識の中でどのようなことが行なわれているのかをわかりやすく説明しようとしているのが「ミジンコアニメーション」です。
「ミジンコアニメーション」について、詳しくは実際にやぶちゃんの説明を聞いてもらいたいですが、簡単に説明をすると、次のようなことです。
水面より上を顕在意識、水面下を無意識の領域として、水面下、海底あたりにミジンコ発生装置があります。
その発生装置はスキーのジャンプ台のようなもので、ミジンコがそのジャンプ台を勢いよく滑り降りて水面上に飛び出すようにジャンプします。
直感を捉えることが、ミジンコが水面上に跳ねたときにつかまえることに相当します。
ここでのミジンコは人の姿をしていて、ナンバ歩きで「行ってくるよ」と言ってジャンプ台に向かいます。
そして水面上に跳ね、たとえつかまえてもらえなかっても、懲りずにまたジャンプ台に向かいます。
このようなミジンコは「ミジンコの海」から来ているのではないか、といいます。
さて、話は少し変わって、先日くろちゃんよりおもしろい説を聞きました。
それは「やぶちゃん=ミジンコ」、やぶちゃんがミジンコではないか、という説です。
この説を「ミジンコアニメーション」にあてはめると、やぶちゃんは何度もジャンプ台から跳んでいます。
もしかすると、他のミジンコたちに「こうやって跳ぶんだよ」と見せ続けているのかもしれません。
つかまえてもらえなくても、あきらめません。
そうすると「ミジンコの海」はどこだろう?
現実、現場、身の周りが、「ミジンコの海」なのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
「予定帳」ならぬ「未定帳」。
やぶちゃんは自分のスケジュール帳に、「予定」はもちろん、「未定」も記入しているということです。
「未定」を緑の消せるボールペンで記入して、「予定」になったら緑から黒に書き換えるそうです。
興味深いのは、緑で記入する「未定」のことが、直感にもとづいていることです。
昨年10月末、やぶちゃんはニューヨークの国連本部へ行くことができました。
その数年前から、年が変わりスケジュール帳が新しくなるごとに10月末に「ニューヨーク」と緑の文字で記入していたらしいです。
記入していた年にニューヨークに行けなかったら、「あれ、おかしいな」と。
そして次の年のスケジュール帳の10月末には、また緑の文字で「ニューヨーク」と。
2014年に実現しました。
自分のスケジュール帳を見ると、予定は書かれておりますが、ほとんどが自分ではない他の人のスケジュールです。
もちろん、自分が選択して決めた予定ではあるのですが、どこかで決まり定まったものを書いています。
自分自身との約束として書いてあるものはほとんどありません。
スケジュール帳は自分のためにあるもの。
自分自身との約束や、自分がやりたいことが多く書かれていたいものです。
「未定帳」とは、そのようなものなのかもしれません。
《わもん研究所所長:サノトモ》
先日、「日本に生息するミジンコはたった4個体を起源とする北米からの帰化種だった」というニュースがありました。
東北大学大学院の研究チームが日本各地の湖沼でミジンコを採集しDNAの解析をした研究結果です。
「ミジンコはたった4個体を起源とする北米からの帰化種だった ―日本に生息する生物の意外な由来―」
【研究概要】
東北大学大学院生命科学研究科の占部城太郎教授の研究チームは、理科の教科書にも掲載されている和名ミジンコ(Daphnia pulex:写真)が、有性生殖能力を失い雌だけで世代を維持していること、遺伝的多様性が極めて乏しくたった4タイプの遺伝子型(クローン個体)しか分布していないこと、それらすべてが別のミジンコ種との雑種であること、在来種ではなく北米から侵入した外来種であることを明らかにしました。また詳細な遺伝解析から、日本への侵入時期が数百〜数千年前に遡ることがわかりました。外来種の侵入定着は殆どの場合近年の人間活動によるものですが、数百年前の侵入は人間活動では説明出来ません。人の往来が盛んになる前にたった数個体がどうやって北米からやって来たのか、また、遺伝的な多様性がきわめて低いにもかかわらずなぜ長期間にわたって日本で個体群を維持しているのかなど、進化生態学の多くの謎を投げかけています。
本研究成果は、2015年3月30日付けで、陸水・海洋学の国際雑誌Limnology and Oceanography 電子版に掲載されました。
掲載誌や論文については確認しておりません。
プレスリリースの内容を確認したところ、北米からの帰化種だったということよりも、別の箇所に目がいきました。
それは、【研究の意義と展望】の3番目の項目にある「もし、新たな移入個体がなければ、ミジンコはやがて日本から消えてしまうことになるでしょう。」というものです。
詳細は省きますが、現在、日本に生息しているミジンコは絶対単為生殖型(有性生殖をおこなわず産卵し子を産む)で、絶対単為生殖型の生物は交尾による遺伝子組み換えがないため、有害な突然変異が蓄積したり病気になりやすいそうです。
そして、千年程度で集団の寿命が尽きるという理論計算があり、日本への侵入時期が700年〜3000年前だとすると、そろそろ寿命の時期ではないか、ということです。
種の多様性は、種として長く存続していくための仕組みとも言えます。
会社や組織の存続、そして人間という種の存続としても、多様性の仕組みを学び、取り入れることができると思います。
一個人としても、新しい考え方や自分の想定外なことに出くわすことで成長する可能性があります。
本物のミジンコ(という言い方もおかしな話ですが)からも学べることはたくさんあることを学びました。
《わもん研究所所長:サノトモ》
「未来に対して布石を打つ」
先日、ようやくわもん黒帯五段の認定を受けましたが、その前日の夜に浮かんできた言葉でした。
もちろん、未来に対して、今まで何もしていないわけではありません。
しかし、どちらかというと、過去に起こったことに対して何か手を打ったりすることが多く、未来に対して手を打つときも「こうなることはほぼ確実だな」というときにしか手を打っていなかったように思います。
「先手を打つ」ことの大切さは、できているできていないはともかく、認識はしていました。
そして五チャレ(五段チャレンジの略)中も先手を打つことは意識していました。
しかし、私にとっては、「先手を打つ」よりも「未来に対して布石を打つ」という方がなんとなくしっくりきました。
あらためて「布石」という言葉を辞書で引いてみると、「?(碁で)対局のはじめのころにうつ、碁石のならべかた。?(将来にそなえての)用意・準備。」とあります。
「布石」の意味が「将来にそなえての用意・準備」という意味ならば、「未来に対して」という言葉は外して、単に「布石を打つ」でもいいですね。
黒帯五段の課題は「ガチ聞きの伴走」です。
ガチ聞きをしている聞き手の伴走をして、聞き手がさらに深まり、結果話し手に現象が起きれば認定です。
「ポジティブサイクルを回す」という言い方もします。
「先手を打つ」より「布石を打つ」の方がしっくりときた理由をあとあと考えてみると、おそらく「先手を打つ」と意識していたときは、闇雲に「先に、先に」と伴走していたのかもしれません。
しかし、「布石を打つ」と意識してからは、未来に対して、将来に対しての準備するという意識に変わったのではないか、と考えています。
そうなると、ガチ聞きの伴走に入る前に勝負が決まっているということもうなずけます。
「布石徹底」とは、徹底的に布石を打つこと。
私はまだまだ打てる手を打っていないときがあります。
エンドポイントを見据えた上で、しっかりと布石を打っていきたいと思います。
《わもん研究所所長:サノトモ》
「『そこっ』ってなーに?」
小学生から質問があったそうです。
『やぶりん!ミジンコカレンダー』のなかには、やぶりんが指をさして『そこっ』といっているイラストがあります。
ミジンコカレンダーの別の場所には『soko』と書かれているイラストも。
それを見て、冒頭の質問です。
そういえば、ガチ聞きライブのポスターにも「そこっ!!」と大きく書かれていますね。
すこし前のことになりますが、その質問がなぜか、私のところに回ってきました(^-^;)
小学生にわかるように説明するには、どのように説明すればいいか、と。
私は、「こそあど言葉」の説明といっしょにすればわかりやすいかもしれないと考えました。
こそあど言葉というのは、指示代名詞などの語をまとめた呼び方です。
たとえば「これ・それ・あれ・どれ」のように、語頭に「こ」「そ」「あ」「ど」が付いていて何かを指し示す働きがある語を「こそあど言葉」といいます。
「そこ」というのは、場所を指し示す代名詞のひとつで、場所を指し示すこそあど言葉は、「ここ・そこ・あそこ・どこ」と挙げることができます。
とりあえず、「『そこっ』ってなーに?」と質問をした小学生に、先生が回答するという設定で、少し芝居をしてみるといいかもしれないと提案しました。
まずは、先生が身近なものを探すふりをします。
先生:「あれ? チョークはどこ?」
生徒:「先生、そこにあるよ」
先生:「ああ、ここにあった」
会話のなかに、「どこ?」「そこ」「ここ」というこそあど言葉が入ればOKです。
生徒に「そこ」と言ってもらうのがベストです。
探しものをするときは、「どこ?」といいます。
おおまかにいうと、あるはずのものが見つからないときです。
自分が何を探しているのかわからないときは「どこ?」ではなく「どれ?」と聞きます。
「どこ?」というときは、探しているものはわかっているけれど、それがある場所がわからないときです。
ここでは探しているものはチョークで、そのチョークがどこにあるのかを聞いています。
生徒が「『そこ』にある」というとき、チョークは先生の近くにあります。
チョークは先生に近く、生徒からは少し遠くにあります。
先生からも生徒からも遠いところにあれば、「あそこ」といいます。
先生に近いところにあるので、先生は「『ここ』にあった」といいます。
「こそあど言葉」で、コ系(「これ」や「ここ」など)の語は近くのものを指し示します(近称)。
ソ系(「それ」や「そこ」など)の語はそう遠くないもの(中称)、ア系(「あれ」や「あそこ」など)の語は遠くのものを指し示します(遠称)。
ド系(「どれ」や「どこ」など)の語は疑問詞(不定称)ですね。
このような説明をしなくとも、生徒は意識せず「ここ」や「そこ」の使い方を知っています。
先生:
「やぶりん(やぶちゃん)は、話を聞いているときに、ときどき『そこっ!!』って言うんだ。話をしている人は、何かを探している。その人の抱えている悩みの解消方法だったり、自分の考えや思いだったり、その何かというのは人それぞれだけど、探しているものはわかっているけど、どこにあるのか気づいていないときがあるんだ。そんなときに『そこっ!!』って言う。探しているものは遠くにあるわけではなく、やぶりんが持っているわけでもなく、話をしている話し手さんのすぐ近くにあるよって言っているんだよ。悩みは自分で解決できる。答えは話し手の中にある。みんなの中にその人らしい輝きがある。ほら、気づいていないかもしれないけど、そこにあるんだよ。それを『そこっ!!』という一言で表しているんだよ」
??:「ザック、ザックやなぁ〜」
先生:「だれっ!?」
《わもん研究所所長:サノトモ》
ときどき「私」とはどこまでが「私」なのだろうということを考えます。
たとえば、爪を切ったとき。
切った爪はごみ箱行きとなりますが、その爪はもともと私の一部でした。
しかし、切った後は私ではないと感じます。
髪の毛も同じで、切り落とされた髪の毛はもう私ではないと感じます。
ちょっとグロテスクな表現ですが、腕を切り落としたらどうだろう、足を切り落としたらどうだろう、どこまで私でいられるのだろう、というようなことを想像したりします。
私と私以外の境界はどこにあるだろう、と。
逆のことも考えます。
話している言葉や音、行動やしぐさなどで性格などがわかります。
これらも私の一部になると思います。
ならば、ペンで紙に何か書いているとき、ペンは私の一部になるだろうか、紙はどうだろう。
食べ物ならば、口に入ってきたときは私ではないかもしれませんが、消化吸収されると私の一部になります。
それでも「私」というまとまりは感じることができます。
明確な境界線を引けないだけです。
もしくは、そのときそのときで境界線が違っているだけだと思います。
以下は本川達雄さんの『生物多様性』の中の一節です。
“本書で提案したいのは、空間の上でも時間の上でもまわりと切れてはおらず、次世代や環境という時間的空間的なまわりをも取り込んだ〈私〉観です。まわりとの境界がはっきりせず輪郭がぼやけているのですが、それだけ広い範囲を含むものです。粒子説と波動説という物理学での二つの立場にこじつけて言えば、粒子的ではなく波動的な〈私〉観。バイオリンの音色のように、音は弦の振動も胴の振動も、まわりの空気の振動も、それに部屋の振動も、聞き手の鼓膜や蝸牛中の基底膜の振動も、すべてが関係してつくられている、そんな感じのものが〈私〉なのだというのがイメージです。”
まだまとまってはいませんが、粒子的な〈私〉観が「自我」あるいは「浅我」と、波動的な〈私〉観が「深我」と関わっているような気がしています。
《わもん研究所所長:サノトモ》
これまで様々な方々に出会ってきました。
様々な出来事も経験してきました。
出会いもあり、別れもあり、うれしい経験もあれば、悲しい経験もあります。
しかし、それらすべてのおかげで、今の自分があります。
すべてのご縁に感謝しています。
「全縁感謝」という言葉は、昨年(2014年)10月の「輝くあなたに逢うわもん会in伊勢」にて、本間先生より提案された言葉です。
文字通り、すべてのご縁に感謝という意味です。
昨年10月のことなのに、なぜこの時期にこの言葉をテーマに書いているかというと、つい先日、思い出したためです。
現在、私はわもん黒帯四段です。
黒帯心徒塾では、五段チャレンジとして修行をしています。
五段の課題は「ガチ聞きの伴走」で、ポジティブサイクルを回すことを身につけようとしています。
先日の黒帯心徒塾の中で、私の中から次のようなことが見つかりました。
「私がいてもいなくても、世の中はよくなっていく」
私は、世の中はよくなると思っています。
一時的にはつらく悲しいこともあるかもしれませんが、大局的に見ると世の中はよくなっていくと思っています。
それは、私がいてもいなくても同じことだ、と。
ポジティブサイクルについても同じことで、私がいてもいなくてもポジティブサイクルは回ると考えていたことに気づきました。
ポジティブサイクルが回ること、世の中がよくなっていくことが、私の中で「当たり前」になっていました。
「ありがとう」の反対は「当たり前」といいます。
「ありがとう」は「有り難し」から変化した言葉です。
ひょっとすると、これまで感謝していると思っていたことが、当たり前になっていなかったか。
そんなことを思っていると「全縁感謝」という言葉を思い出しました。
そしてさらに、全縁感謝の「全(すべて)」の中に、「私」が入っていなかったことに気づきます。
私がいてもいなくても世の中はよくなる……。
私がいてもいなくてもポジティブサイクルは回る……。
……私は、自分自身には感謝しているのだろうか、と。
私が経験してきたことは、すべて何かのご縁です。
そしてその経験してきたことは、今までの私が運んできてくれています。
昨日の自分が、今の自分をつくっています。
今まで、自分自身への絶対尊敬が難しいと考えていました。
ここに「因」があったようです。
この気づきを「縁」として、「果」に結びつけたいと思います。
《わもん研究所所長:サノトモ》