2007年6月に「わもん」は誕生しました。
その誕生のきっかけとなったのが、チベットのセラ寺で行われていた「問答修行」の風景です。
「問答修行」というのは、文字通り、質問と回答を繰り返し行っていくことで、仏教についての理解を深めていく修行法のようです。
座っている答え手に、立っている問い手が問いを投げかけます。
その際に問い手は、手を打ち、足を踏み込んで問いを投げかけます。
その問いに対して、答え手が答えていきます。
河口慧海さんの『チベット旅行記』に、問答修行の問答の内容について書いたところがありましたので、それを参考にして例を挙げてみます。(口語風に書き換えています。)
問:「仏というものは人であるか?」
答:「そうだ」
問:「ならば、仏は生死から逃れられないだろう?」
答:「仏は生死を逃れている」
問:「いや、仏は生死から逃れられない。なぜなら仏は人であるからだ。人は生死を逃れられない。お前は仏は人だと言った」
答:「仏は人にして生死を逃れている。仏の生死は、仮に生死を示現しているだけだ」
このように問い手は、問い詰めるように質問をしていきます。
答え手はそれに答えていくことで仏教についての理解を深めていきます。
2015年2月、ザ・チョゼ・リンポチェ様とやぶちゃんとの「リンポチェ師と歩む平和への祈り」ツアーの中で、この問答修行の一端を見ることができました。
問い手がリンポチェ様、答え手がやぶちゃん。
手を打ち、足を踏み鳴らすことはありませんでしたが、リンポチェ様が問い、やぶちゃんが答えていきました。
その風景を見たとき、私は「質問が早い」という感想を持ちました。
やぶちゃんが答えるや否や、リンポチェ様の次の質問が出てきます。
もし私が問い手だったら、答えを聞いて、次の質問を考え、それから質問する、というようにテンポが遅くなってしまうと思います。
3日目の東京での際、私の隣にはわたふ名人二段が座っていて、「あれは、やぶちゃんの答えが先にわかっていないとできない」と言っていました。
やぶちゃんが答えを探す場面もありましたが、その探している間にも問いを投げかけます。
質問、問いを繰り返していくと、答えに行き詰るところがあります。
そこが思考の枠の端っこだと思っています。
その枠から一歩でも先に進める問いと答え。
ここが問答修行のはじまりです。
わもんではあまり質問は行ないませんが、この思考の枠を超えたところを聞きに行きます。
先日、台湾にて「リンポチェ師と歩む平和への祈り」が開催されました。
どのような問答があったのかは知りません。
しかし、きっとまた一段と深まっているだろうと思います。
《わもん研究所所長:サノトモ》