Fw:わもんな言葉85−今・ここ・自分《わもん黒帯四段: サノトモ》

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先日、とある会社(としておきます)のミーティングにオブザーバーとして参加いたしました。

やぶちゃんがファシリテーターをするミーティングを見てみたかったからです。

やぶちゃんはじめ、ミーティングにご参加された方々のご厚意に甘えさせていただきました。

ありがとうございます。

内容はここでは申し上げませんが、ミーティングの流れを大まかにいうと、「社長の立ち位置の確認」「社長以外の方々の立ち位置の確認」「それぞれの立ち位置の微調整」という流れでした。

ミーティングの中で、私にも発言の機会があり、野球の守備範囲の例を挙げたので、野球に例えてみます。

例えば、バッターの打った球が、センターとレフトの間にフライとなります。

センターとレフトを守っているそれぞれが、「どちらが取ろうか」とか、「センター(レフト)が取るだろう」と思っていると、取れる球も取れない時があります。

俗に「お見合い」という現象。

このお見合いを防ぐには、声をかけ合う必要があります。

それぞれがわかっていたとしても、声をかけ合って確認し合う必要があります。

今回のミーティングは、それぞれの方々が声をかけ合って確認し合っていたような印象です。

ファシリテーターの役割は、その声のかけ合いを促すこと。

声をかけ合うことで、自分の立ち位置もわかります。

そして、その立ち位置を自ら微調整していきます。

さらに印象的だったのは、ファシリテーターの立ち位置。

ファシリテーター自身も自分の立ち位置について声を出していること。

今、ここで自分が何ができるか。

それぞれがそれぞれの立ち位置にいます。

周りを見て、声をかけ合っていかなければ、自分が立っていることはわかっていても、自分がどこにいるのかわかりません。

皆が目指しているところが違っていると、そこで何をするのかもわかりません。

それぞれの立ち位置を声に出すことで、そしてそれらを確認することで、自分の立ち位置の再確認と微調整が可能になります。

オブザーバーの立ち位置にいた自分も、今、ここで何ができるか、ということも考えさせられました。

その微調整のひとつとして、今、ここで自分は今回の「わもんな言葉」を書いています。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉83−WORLD ツアー《わもん黒帯四段: サノトモ》

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以前の「わもんな言葉」で、「JAPANツアー」について書いたので、「WORLDツアー」についても書きたいと思いました。

2014/1/23の「聞くライブ!ファーストステージ in 広島」を皮切りに、始まった「わもん聞くライブ 2014JAPANツアー」

2014/9/23の広島でのファイナルステージを経て、10月から「WORLDツアー」が始まります。

イギリス・ロンドンからスタートし、カナダ・バンクーバー、アメリカ・シアトル、ニューヨークの流れです。

2015年からはアジア、アフリカへも!!

ところで、以前の「JAPANツアー」の記事を読みなおしてみると、「ツアー(tour)」について書いていて、「JAPAN」には触れていないことに気がつきました(^-^;)

ならば、今回は『WORLD』が起点ですね。

ということで、「world」の語源を調べます。

(気になる言葉の語源を知りたくなるのはなぜ?)

「world」と聞くと「世界」という訳語がすぐに浮かんできますが、手元の辞書には、原義として「人の一生」とありました。

また、Webで検索してみると、「wer(e)wolf(狼人間)」に残っている「wer-」と同根の「人間、人」という意味と、「old」と同根の「年」という意味が合わさっているとのこと。

基本的な単語だと思っていましたが、語源があるのですね。

となれば、「WORLDツアー」は人生を一回りすることにもつながります。

ツアーから帰ってきて一回り大きくなったやぶちゃんを見るのを楽しむか。

それとも、自分を一回り大きくするか。

world も、世界も、世間も知らない私は、このあたりを巡っています(^-^;)

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉83−ディレクション《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「『ディレクション』が得意なことに気がついた!」

「へ?」

「この前、『ディレクション』が得意なことに気がついた!」

「え!? 今さら!?」

「へ?」

「いや、得意でしょ?」

「そう、それに気がついた!」

「いつもディレクションをやっているじゃないですか」

「そう!やってる」

「ディレクションって、英語で書くと direction ですよ」

「ほ〜」

「direction は、ダイレクト(direct)の名詞形ですね」

「ダイレクトに!」

「『直接に』とか『直に』という意味ですね」

「で、ディレクションは?」

「『指導』というような意味もありますし、『方向』というような意味もあります」

「やってるね!」

「やってますよ!」

「『パッとやって、サッとやる』みたいなことしかやってないと思ってた」

「それでも、身振り手振りはついてますよね。言葉だけじゃわかりませんが(笑)」

「身振りや手振りもディレクションかな」

「方向があっていればディレクションでしょう」

「そうか!」

「そういえば、禅語に『直指人心』ていう言葉がありますね」

「ほう。どんな意味?」

「『直に人の心を指せ』ですかね」

「わもん、やね」

「わもん、ですね」

この会話はフィクションです。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉82−覚我《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「『離我』というのは、『浅我』を手放す、というふうに考えると、『深我』に気づいていく、ということに対して何か言葉がほしい」

本間先生が『2014年WORLDツアーのプロモーション MOVE制作&GLOBALわもんへの道』の中でこのようなことを言った後、出てきた言葉が「覚我」です。

「離我」というのは、我を離れること。

そのときの「我」というのは、非常に浅いところの「我」。

地位とか、立場とか、プライドとか、そういったところの表面的な「我」。

浅く表面的な「我」を「浅我」と名付けられました。

それに対して、深いレベルの「我」を「深我」と名付けられました。

その「深我」に気づいていくこと、それが「覚我」です。

「覚我」という言葉は、「覚悟」という言葉が影響しています。

そこで思い出したのが、「我」と「吾」の違いです。

「覚悟」の「悟」には「吾」があります。

以前に、なんで「われ」という漢字が2つあるのだろうと気になって調べたことがありました。

「我」と「吾」の違いとして漢和辞典に載っていたことは、「我」は目的格・所有格に用いて、「吾」は主格・所有格に用いられたというもの。

主格・目的格・所有格というのは文法用語で、単純にいうと、主格というのは主語をあらわす形式、目的格というのは目的語をあらわす形式、所有格というのは所有をあらわす形式。

日本語でいうと「吾は」とか「吾が」というときは「吾」を使い、「我を」というときは「我」を使うということです。

ちなみに所有格は「我が国」というように、現在ならば助詞「〜の」を伴う形式です。

以前に思いつきで開催した『ミジンコセミナー』の中で、うまくは言えませんでしたが、「深我」というのは一人称の「私」と結びついているように思える、と話をしました。

一人称の私のこと、そして、「我」と「吾」の違いが結びついて、私の中では次のような仮説が生まれています。

「浅我」は「我」、「深我」は「吾」。

目的格・目的語の「我」というのは、何か他のものから影響を受ける「我」。

主格・主語の「吾」というのは、何か動作を主体的に行う「吾」。

「離我」から「覚我」へのプロセスは、能動へのプロセスと重なっているような気がしています。

『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す

《わもん黒帯四段:サノトモ》


Fw:わもんな言葉81−ゴルフ《わもん黒帯四段: サノトモ》

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あ、最初に断っておきます。

今回の「わもんな言葉」は、言葉については書いておりません。

まぁ、今までも「言葉」というよりは、考え方や視点などを書くことが多かったと思いますので、気にはされていないと思いますが。

阿川佐和子さんの『叱られる力 聞く力2』に「下心のススメ」と題された節がありました。

五十歳で始めたゴルフにはまってしまった阿川さんが、ゴルフの楽しさについて書いています。

” なんでそんなにゴルフが楽しいの? ゴルフをやらない人によく質問されます。その話を書いていると、この本が『ゴルフの力』になってしまいそうなので手短にすませようと思いますが、一つには、いつまでたっても「わからない」からではないでしょうか。ときどき「わかった」りするのです。なんだ、こういうふうに打てばちゃんと当たるんじゃないか。簡単簡単、開眼したぞ。するとその次のラウンドでは、「えー、このあいだ開眼したはずなのに」となり、初心者の頃だってこんなに下手ではなかったと思うほどの体たらく。ゴルフを始めて十年。私は何百回、開眼したことか。”

私自身はゴルフをしたことがありませんので、あくまで印象でしかありませんが、ゴルフは精神的なスポーツというイメージです。

止まっているゴルフボールをドライバーやアイアンで打っていくのですが、ボールを打つときの角度が1度違うだけで、ボールの飛ぶ方向は変わり、跳ぶ距離が長くなれば長くなるほど、目標地点からのズレも大きくなります。

風向きや天候など環境に左右される要素もありますが、基本はプレイヤー次第。

脚の位置や腕の振りなどの身体の動きの微妙な違いが、ボールに伝わり、増幅される。

ちょっとした違いやズレが如実に顕れる、非常にデリケートなスポーツのイメージです。

そんなゴルフのプロになろうとしている方を知っています。

やぶちゃんも応援している、てんつくマンです。

てんつくマンは、プロゴルファーになって、全英オープンに出て、ちょんまげで腰にパターを差して、18番ホールで名前を呼ばれて、インタビューで「人間の可能性は無限大や」と世界中にメッセージを伝えるという目標を持っています。

もっと先も見ているでしょう。

目標とは、ゴルフでいうと最終的にボールを入れるカップ。

ボールを打つときの角度が1度違うだけで、ボールの飛ぶ方向は変わり、目標とのズレも大きくなる。

ときどきコツがわかったりしたりするけど、次の一打ではわからなくなったりする。

一打一打での自分自身のあり方が、結果に顕れる。

夢を叶えたり、目標を達成したりする人は、カップを目指しボールを打ち、たとえ打ち損じたとしてもその状況からカップを目指してボールを打ち、最終的にボールをカップに入れていく。

そして、また次のホールでも同じようにカップを目指していく。

そのラウンドだけでなく、次のラウンドへと。

しかし、集中するのは一打一打です。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉80−思いつき《わもん黒帯四段: サノトモ》

13800167963431先日、思いつきで「わもんな言葉 ミジンコセミナー」というシークレットセミナーを開催いたしました。

テーマは「ミジンコ(直感)」です。

セミナーの内容は、シークレットです♪

その中で、反応がよかったのが、「直感」と「思いつき」の違いです。

facebook に「目指せ!わもん黒帯三段越え」というグループがあり、そこにやぶちゃんの言葉が投稿されていました。

 ミジンコとは
 直感のことです
 離我(りが)した直感は
 未来からの予告です
 思いつきでは、ありません

さて、「直感」と「思いつき」の違いは何か。

それこそ、思いつきました(笑)

「思いつき」は「思い」が付いているのではないか、と。

「こうなってほしい」「こうあるべきだ」「こうなるべきだ」というような自分の思いがついたものが「思いつき」ではないか。

そして「直感」は、自分から離れて、自分の思いは脇に置いて、出て来るものではないか、と。

決して「思いつき」が悪いわけではありません。

思いつきでセミナーをやったり、ブログを書いたりする人もいます(笑)

ただ、「思いつき」なのか「直感」なのかと見つめてみることは、自分を見つめる入り口にすることができると思います。

言葉を入り口にして自分を見つめてみようという思いつきで、私は「わもんな言葉」を書いているとも言えそうです。

《サノトモ》


わもんな言葉79-わもん入門塾《わもん黒帯四段: サノトモ》

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今週のヤブログ放送室では、『わもん入門塾講師養成講座への想い』が語られています。

わもん入門塾』という、板の上に立つ方のための養成講座。

誰がやってもどんな方が来ても同じ効果がでるように、「わもん入門塾」には「スクリプト」が導入されました。

スクリプトとは台本。

いよいよ来たな、という感じです。

スクリプトとは台本、と先ほど書きましたが、別の言葉でいうと「楽譜」です。

声楽が結びつきます。

「わもん声楽レッスン」の講師である直樹先生は、『わもん声楽レッスン~直樹先生と対談~』の中で、こう言いました。

「僕らがやっているのは、昔からある音楽を再生しているだけなんです。いい音楽をそのまま受け継いでいて、現代の人たちに生の音で、自分たちが再生して聞かせたいという、それだけの想いなんです。」

録音機材がないとき、音楽を伝えていくために「楽譜」ができました。

そこにはいろいろな情報が書かれています。

作曲者の意図や想い、感情や考え、など。

現代の声楽家は、その楽譜を読み、楽曲を分析し、楽譜ができた当時の音楽を再生します。

今、『わもん入門塾』という曲ができ、楽譜があります。

そしてこれから、楽譜を読み、楽曲を分析して、板の上に立ち、再生する、わもん入門塾講師が次々と誕生していきます。

楽曲『わもん入門塾』を聞く機会が増えていきそうです。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉78−直感《わもん黒帯四段: サノトモ》

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最近、「直感」のことをよく考えます。

「直感」とはそもそも何だろう、と。

何となくわかるようで、何となくわかりません。

羽生善治さんの『直感力』には、「直感」について次のように書かれていました。

“ この形はこういう方向でやればいい、こういう方針で、こういう道順で行けばいいと、瞬時のうちに腑に落ちるような感じとでもいうのだろうか。考えを巡らせることなく一番いい手、最善手が見つけられる。その場から、突如ジャンプして最後の答えまで一気に行きつく道が見える。ある瞬間から突如回路がつながるのだ。
 この自然と湧き上がり、一瞬にして回路をつなげてしまうものを直感という。”

また、別の個所では、次のように書かれています。

“ つまり、直感とは、論理的思考が瞬時に行われるようなものだというのだ。”

私自身は、直感は、数学の公式のようなものだと思っています。

たとえば、二次方程式の解の公式。

二次方程式の解の公式を覚えていれば、二次方程式が出題されたときにその公式に当てはめると解がわかります。

解の公式に当てはめて計算するという過程はありますが、問題がでると瞬時に解がわかります。

これが直感のようなものだと思っています。

しかし、解の公式を覚えていないと二次方程式が解けない、というわけではありません。

因数分解を知っていれば解ける問題もありますし、あてずっぽうで代入してみて当たる場合もあります。

いろいろなやり方があると思います。

解の公式は、どこかの誰かが作って、どこかの誰かが証明して、皆が使えるようにしたものです。

直感のことに話を戻すと、「直感」は、証明されているか、証明されていないのかがわからない公式のみ浮かんできている状態だと思っています。

左辺と右辺はつながっていて、そしておそらくそれは正しいのですが、証明されていないかもしれないので公式と呼ぶことができない、だから使うことにためらいを覚えてしまうのだと思います。

証明するには、直感にしたがって検証するしかない。

自分の直感を信じることができるのは、今までも直感にしたがい、検証し、修正してきたからこそ、信じることができるのだと思います。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉77−手渡す《わもん黒帯四段: サノトモ》

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黒帯心徒塾in名古屋、つねちゃんタイム「トップランナーのあり方」。

今まで「手放す」と言っていたところが、「手渡す」になりました。

あるフレーズが浮かびます。

やぶちゃんに言わせると、「違う回路に入って」いました。

違う回路から出力された言葉は、「渡したものが私になる」。

五段活用をする動詞を名詞化するときには、語末の「-u」を「-i」に換えます。

「話す」の名詞形は「話」、「聞く」の名詞形は「聞き」、「読む」ならば「読み」、「書く」ならば「書き」、など。

「手渡す」ならば「手渡し」。

「手渡す」という言葉を聞いたとき、「手渡し」という言葉が浮かびます。

「トップランナーのあり方」では、何か得たものを手放し、また次のものを得ていくことが語られていました。

新しいものを手にして、それに執着するのではなく、手放し、また次のものを手にしていくことがトップランナーの特徴であるということです。

しかし、手放すというよりは、誰かに手渡す。

何かを手に入れて、そして、それが必要と思われる人に手渡していく。

そのような話を聞くうちに、「渡す」と「私」の対が生まれ、「渡したものが私になる」となったと思います。

他者を認識することで、自己認識が生まれるといいます。

誰かほかの人がいなければ、自分という概念はないのかもしれません。

誰かに何かを渡していくこと、伝えていくことが、「私」をかたち作っている大きな要素ではないか、と考えていました。

だからこそ、聞くことは、話をされる方を輝かせるのではないか、とも。

あなたは誰に何を渡していますか?

そして、「you」を「I」に換えて、私は誰に何を渡しているだろう?

サノトモ


Fw:わもんな言葉76−信じる《わもん黒帯四段: サノトモ》

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森博詞さんの『ブラッド・スクーパ』より。

“こうして突き詰めてみると、つまりは、己を信じることが難しいために、なにかほかのものに縋ろうとする、ということだろうか。それさえ手放さず大事にしていれば、自分は救われる、と考えるのだ。自分を信じることができるならば、最初からなにもいらない。刀も神も、祈ることも縋ることも無意味だ。しかし、その域に達することができるのは、よほどの達人あるいは高僧か。”

私自身、自分を信じているかと問われれば、怪しい。

信じていないわけではないけれども、100%信じているかと問われれば、NOと答えるだろう。

「信じる」というのが言行一致のことならば、言ったことをやっていないことは多々あるし、やったことでも言っていないことも多々ある。

言いたいことを言えないときもあれば、やりたいことをやっていないときもある。

かといって、なにかほかのものに縋っているかと問われれば、こちらも怪しい。

祈ることも縋ることもしていない。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても、どれも中途半端に信じている。

ただし、100%信じていないかと問われれば、こちらもNOと答えるだろう。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても。

信じることに100%とも何もないのかもしれない。

しかし、自分を信じよう、とすることはできる。

自分の言っていることとやっていることが一致しているかどうかは確認することができる。

まずは、自分のできるところから。

サノトモ


Fw:わもんな言葉75−次元《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「やぶちゃんの聞き方は次元が違う」という話を聞きました。

正直、「そこまで違うかな」と少し違和感を持ちました。

それはたぶん、「ものさし」が違うからだと思います。

やぶちゃんの聞き方は確かにすごい。

音を聞き分け、的確な言葉と音を返し、入れる。

話し手に瞬時に飛び込み、潜る。

私にはまだできないことです。

しかし、普通の聞き方の延長線上にある聞き方であると思っています。

まだ遠くなのかもしれませんが、聞き方を深めていけば誰しもが行ける、そんな風に思っています。

あらためて辞書で調べると、「次元」の項に2つの意味が載っていました。

ひとつは数学的な意味での「次元」。

ものの広がりを決める、一番基本的な方向(の数)。

もうひとつは、(段階によって違う)物の見方や立場、という意味です。

私の場合は、「次元」というと前者の意味に取っています。

次元は同じだけれども、深さが違う。

やぶちゃんの聞き方をこんな風に思っています。

言葉は違いますが、同じことです。

話し手の「ものさし」を取りこむのに少し時間がかかったようです。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉74−管理三兄弟《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「印象管理」「音の管理」「思念管理」。

やぶちゃんは、この3つを「管理三兄弟」と呼んでいます。

「だんご三兄弟」を文字っています。

となると、「どれが長男で、どれが次男で、どれが三男だろう?」と疑問に思う人が大半だと思いますが、やぶちゃんはその疑問に答えたことはありません(誰も質問していない可能性はあります)。

私の予想は、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。

理由は、「管理三兄弟」の紹介の際、「印象管理」「音の管理」「思念管理」の順番で紹介されている、ということです。

(参考:http://yabuchan.jp/yablog/2014/02/28/081215/)

三兄弟の紹介のときは、長男・次男・三男の順で紹介することがほとんどなので、順番に当てはめると「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男となります。

しかし、これだけでは理由としては弱いので、他の理由を挙げてみましょう。

「印象管理」とは、他の人からどのように見られるか、その印象を管理することです。

髪型や服装、身につける物、使っている道具、表情や身振り手振り、言動や行動など、主に見た目で印象は決まります。

声の調子や言葉遣い、これらも印象に影響します。

「音の管理」は、他の人にどのように聞こえるか、自分の発する音を管理すること。

自分の伝えたいことと音が合っているか、言葉と音が合っているか、出す音を意識し管理しようという提案です。

最後、「思念管理」は、自分がどのように思っているか、自分の思念を管理すること。

思念は音として、印象として、相手に伝わります。

思念が音となり、それが印象となって伝わるのであれば、「思念→音→印象」という順番が考えられますので、「思念」が長男、「音」が次男、「印象」が三男と考えることができますが、ここでは「思念」「音」「印象」ではなく、「思念管理」「音の管理」「印象管理」を考えています。

管理の側面から考えると、「印象管理」→「音の管理」→「思念管理」となるのではないでしょうか。

形あるもの、見えるもの、形式的なものの方が管理するのがたやすくなります。

管理が生まれる順番で考えると、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。

そして、やぶちゃんは「音の管理」を中心に挙げます。

「だんご三兄弟」でも「自分が一番、次男♪次男♪」と歌っています♪

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉73−絶対肯定

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一昔前、といっても二、三年前のことですが、黒帯心徒塾がまだ心徒塾だった頃、やぶちゃんが毎回のように言っていた言葉がありました。

その言葉とは、「受身厳禁」「油断大敵」。

いつしかあまり聞かなくなりました。

その代わりに、前回のわもんな言葉「間がさす」の中で取り上げた、「結界を張る」と言うことが多くなったように思います。

それが偶然なのか必然なのか、意識的なのか無意識的なのか、はたまた私の勝手な思い込みなのか。

実際のところはわかりませんが、私は以下のように考えます。

マザー・テレサの言葉の中に、「私は反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加する」という旨の言葉があります。

実際の活動は、反戦運動も平和運動も変わりないかもしれません。

しかし、「反戦運動」という言葉は、戦いに反対する運動を意味します。

戦いがあることを前提とした運動になります。

戦いがあるから、戦いに反対する運動という意味です。

一方、「平和運動」という言葉は、平和に向けた運動という意味で、戦いがあることは前提としていません。

「受身厳禁」「油断大敵」という言葉は、「受身である」こと、「油断がある」ことを前提とした言葉です。

受身であることを否定する、油断することを否定する意味が含まれています。

そういった言葉を、意識的にか無意識的にか、使わなくなり、代わりに「結界を張る」と言うことが多くなったのではないか、と勝手に考えています。

目標設定やアファメーションの方法として、「肯定形を使う」ということがポイントとしてよく挙げられます。

否定形は肯定形を前提とした言葉です。

「脳は否定形を理解できない」ということもよく聞きますが、否定形を理解できないわけではなく、否定したいもの(ここでは肯定形)をも理解しているためだと思っています。

最後にマザー・テレサの言葉を挙げます。

“思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。”

サノトモ


Fw:わもんな言葉72−間がさす《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「魔が差す」という言葉があります。

手元の辞書を引くと、「悪魔がふとあらわれる。〔ふと悪い考えが起こったときに使うことば〕」という意味が載っていました。

少し意外に思ったのは、「魔がさす」の「さす」という語を漢字で書くと「差す」だったことです。

今まで何となく「刺す」だと思っていました。

試しに「差す」を辞書で引くと、
 ?表面にあらわれる。「赤みが――・嫌気が――」
 ?〔影が〕うつる。「障子に影が――」
などの意味が載っています。

悪魔のささやきが言葉や行動にふと顕れる、あるいは悪魔の影が言動にうつるのが「魔が差す」です。

やぶちゃん曰く、「『魔がさす』は『間がさす』ではないか。」

この「間がさす」の話をするときに合わせて出て来るのが、「結界を張る」という話です。

例えば講演会やセミナーなどの開始前、会場の四隅と四辺に二礼二拝して八方陣を敷く、さらには上下も合わせて十方陣を敷き結界を張る、といいます。

絶対尊敬で会場を包み込み、「間がささないようにする」といいます。

油断なく、隙なく。

油断が言葉や行動にふと顕れる、あるいは心の隙が言動にうつるのが「間が差す」です。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉71−一念無想《わもん黒帯四段: サノトモ》

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奥泉光さん『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』所収の「盗まれた手紙」の一節。

“ 猫介のことは忘れよう。桑幸は深く決意し、けれども、そう思えば思うほど脳髄の深い所に猫介は居座った。全身の細胞の一つ一つに「春狂亭猫介」が刻み込まれるような気さえした。DNAレベルで猫介は桑幸に取り憑くかのようであった。”

意識的に「忘れる」ことは難しいものです。

覚えることは意識的にできても、忘れることは意識的になかなかできません。

「思い出す」という言葉があります。

何かの拍子に、今まで忘れていたことを思い出す。

ということは、そのとき思い出した事物はどこかしら記憶に残っていたということになります。

思い出すということは、無意識下にあった記憶が意識上に上ってきたと捉えることができます。

忘れるということは、意識上から無意識下に押し込めることとなります。

「押し込める」と書くと、これはもともと意識的に行う動作なので、無意識的に行なうことは難しい。

だから、意識的に忘れることは難しいものです。

「我を忘れる」という言葉があります。

何かに夢中になる、という意味です。

我を忘れるには、我ではない他の何かに夢中になることです。

我を忘れようと、我に固執すると、我に返ってしまいます。

忘我。離我。

話し手に一念無想。

サノトモ


Fw:わもんな言葉70−わもん花縁《わもん黒帯四段: サノトモ》

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先日、「わもん花縁」に参加しました。

副題は「輝くあなたに出逢うフラワーセラピー」

わもん仲間のみかちゃんが講師です。

普段、花を愛でることもなく、こんな機会でもなければ一生、生け花をすることもなかったと思います。

さて、わもんと生け花の関係は何か、と考えているとき、多田道太郎『しぐさの日本文化』所収の「いけばな」と題されたエッセイを読みました。

その一節。

“いけばなは、日本人の身振りの転換したものである。異論があるかもしれないが、私はそう思っている。床の間のいけばなを見ると、私はそれをいけた女性の、ふだんは表現しようと思っても表現できない微妙な彼女のしぐさをそこに見るのである。あるいはそこに「読む」のである。”

女性に限らず男性でも、普段は表現しないできないしぐさはあります。

そういったしぐさを生け花という目に見えるかたちに託してみる。

そして生け花を見る人は、生けた人のしぐさをそこに見ます。

あるいは読みます。

また、同書所収の「つながり」というエッセイには、以下の文章もあります。

“いけばなは人と人をつなぐ。これが私の考えである。女は物言わぬがよし、と古来されてきている。その物言わぬ存在が、いけばなに自らを託すことによって、人と人とをつなぐ強力な媒体となりうる。物言う客と主人とをつなぐことで、物言う人びとよりも、もっと意味深いことを言う、そういう存在になる。”

「わもん花縁」参加後、参加メンバーで話をするなかで、「『壁打ちわもん』だね」という共通する意見がありました。

生け花が壁となり、生けた人と見る人をつなぐ。

あるいは、生けた人と自分をつなぐ。

『しぐさの日本文化』の中では、「しぐさ」とは「抑制のきいたゼスチャア」「舞台の上での身振り」としています。

壁打ちわもんをするときには、普段の自分を抑制した話し方をします。

生け花にも聞き方のコツがあるように思います。

そして、生け花を媒介として、生けた自分と輝く自分が出逢ったとき、その生け花も輝いているような気がしてなりません。

サノトモ


Fw:わもんな言葉69−人が走り出す《わもん黒帯四段: サノトモ》

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以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。

やぶちゃんに出会う前からです。

自分が書いているブログ内の未完了記事のひとつ(^-^;)

今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。

「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。

冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。

そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。

そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。

『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す

ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。

以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。

「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」。

最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。

「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。

「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。

一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。

「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。

主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。

「私」が離れて、「人」が主語になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。

(興味がある方は以下もご参照ください)
 ・『(ら)れる』のコーチング論(1)−受身・被害・自発・可能・尊敬
 ・『(ら)れる』のコーチング論(2)

サノトモ


Fw:わもんな言葉68−アトラクション《わもん黒帯四段: サノトモ》

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「やぶちゃんジェットコースター」〔仮称〕というアトラクションが始まりました。

皆がやぶちゃんに乗り込み、急激に深いところへ降りていくアトラクション。

しっかりとつかまっていなければ飛ばされてしまいます。

まずは、話し手自身が自分で潜れるところの最深部へ、やぶちゃんがグンと潜ります。

それにつられて、話し手も、そして周りの人も一緒に潜ります。

話し手自身は自分で潜れるところなので、簡単に(とはいいませんが)潜ることができて、そこから先は聞き手であるやぶちゃんとともに潜っていくことになります。

しかし周りの人は自分とは異なるスピード、深さで潜ることになるため、しっかりとつかまっておかなければならない、というイメージです。

日本語でアトラクションというと催し物とかイベントのような意味合いがありますが、もともとの英語 attraction にはそのような意味はありません。

attraction とは、「魅力」とか「引力」という意味です。

そして、attraction の元となっている動詞 attract は、「引きつける」「引き寄せる」という意味です。

やぶちゃんの潜るスピードに、しっかりつかまって飛ばされないようにするアトラクション。

もちろん、やぶちゃんが引きつける魅力、引力もあるのですが、やぶちゃんは話し手の理想像にロックオンして、そこに引きつけられているだけ。

最大の引力は話し手にあります。

物理学において、ある力学系が時間的に発展し向かっていく先のことを「アトラクター(attractor)」といいます。

話し手のアトラクターにやぶちゃんが引き寄せられ、そして周りも引き寄せられます。

想像を膨らませると、話し手のアトラクターに引きつけられるといえども、やぶちゃんも周りの人たちもそれぞれアトラクターがあります。

話し手のアトラクターへと近づくためには、聞き手が動くしかありません。

万有引力の法則は人間にもあてはまります。

互いに引き合う力が大きい方が、スピードが速くなりますが、話し手に速く近づくには、聞き手がその場に止まろうとする力を極力小さくする必要があります。

それが、自我を捨てること、自我を離すことに関連しているのではないかと思っています。

さらに想像を膨らませると、話し手のアトラクターに、聞き手のやぶちゃんや周りの人たちのアトラクターが混ざることにより、「ストレンジ・アトラクター」となるかもしれません。

初期値敏捷性をもつカオス的な力学系でのアトラクターのひとつが「ストレンジ・アトラクター」です。

蝶の羽ばたきが嵐となる可能性を持っています。

「アトラクション」に参加したときには、自分を忘れてアトラクターに飛び込んでいくことで楽しみや気付きを得ることができるのではないかと思います。

(注)物理学やカオス理論について、多大な解釈が加わっております。ご容赦ください。

サノトモ


Fw:わもんな言葉67−JAPAN ツアー《わもん黒帯四段: サノトモ》

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1/23の「聞くライブ!ファーストステージ in 広島」を皮切りに、3月より「わもん聞くライブ 2014JAPANツアー」が次々と開催されていきます。

ふと「ツアー(tour)」は日本に訳すと何だろう、という疑問が浮かびました。

ぱっと思い浮かぶのは「旅行」ですが、「旅行」とすると、今度は「トラベル(travel)」との違いも気になってきます。

取り急ぎ英和辞典で tour を引くと、原義として『「円を描く道具」→「一周」』と載っていました。

turn とも関係があるようです。

確かに、ツアーと言えば、どこかに行って帰ってくるというだけではなく、各地を巡るというようなイメージがあります。

トラベルといえば、どこかに行って帰ってくるときにでも使えそうです。

ツアーの訳語として、「旅行、周遊旅行」「巡業、遠征」などが載っていました。

「JAPANツアー」というときのツアーに近い訳語は「巡業」ですかね。

「ツアー」と「トラベル」の違いとしてもうひとつ思ったことは、「ツアー」は複数人で行くということです。

「トラベル」ならば一人で行けそうですが、「ツアー」は団体で行くイメージです。

とすると、今年全国を巡る聞くライブは、やぶちゃん一人で巡るわけではなく、わもん関係者も一緒に巡る「ツアー」ということになりますね♪

サノトモ


Fw:わもんな言葉66−非言語《わもん黒帯三段: サノトモ》

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あまり公で言ったことはありませんが、ひそかに思っていることがあります。

それは、「『言葉使い』になりたい」というものです。

「言葉遣(づか)い」ではなく、「言葉使(つか)い」。

魔法を操る人を「魔法使い」というように、言葉を操る人という意味です。

それならば、「言葉を話す人は誰でも『言葉使い』ではないか」という声が聞こえてきそうです。

また、「『わもん』は、言葉ではなく、音を聞くのではなかったのか」という声も聞こえてきそうです。

確かに「わもん」は「非言語コミュニケーション」を大切にしています。

音を入口に人の話を聞くことを提案しています。

しかし、言語・言葉を蔑ろにしているわけではありません。

むしろ、言葉も大切にしています。

書籍『わもん』を開けば「絶対尊敬」「完全沈黙」「話聞一如」などの言葉が出てきますし、やぶちゃんの話の中では、「離我」や「ミジンコ」など独特の用語が出てきます。

「わもんな言葉」も、なんだかんだと続いております(^-^;)

「わもん」という言葉自体も今までにないオリジナルな言葉です。

私はよく「言葉とは入れ物だ、器だ」と言っています。

今までは、その容器に何が入っているのだろうか、ということが興味の中心でした。

話を聞くときは、話し手の言葉という入れ物に入っている、その人の思考や感情を理解しようと聞いていました。

最近は、それに加えて、その人の考えや感情を入れるのに、よりふさわしい入れ物はどんな入れ物だろうかということも考え初めています。

こんな風に言葉が使えたら、どんなに素晴らしいでしょうか。

わもんの独特な用語は、このような過程で生まれてきたものと思います。

さらに言うと、「音」も入れ物です。

「心」が入ると「意」となります。

漢字は上手くできていますね。

「言語に非ず」と書いて「非言語」ですが、非言語を言語の一種と捉えることもできます。

例えば、実物の馬は、言語ではありませんが、馬を指さして非言語と呼ぶ人はいません。

「言語ではないけれども言語のようなもの」を非言語と呼んでいます。

「わもん」とは、「言語+非言語コミュニケーション」。

それをベースとした「言葉使い」を目指しています。

サノトモ


Fw:わもんな言葉65−テンション《わもん黒帯三段: サノトモ》

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テニスのラケットには網が張っています。

それをガットといいます。

で、そのガットを張る強さのことを「テンション」といいます。

ガットを張るときには、テンションを指定して張ることになります。

テンションを高くして張るとガットは固くなり、低くすると柔らかく、テニスプレーヤーは、自分のプレースタイルによってテンションを選んでいます。

プロテニスプレーヤーがラケットを数本用意しているのは、ガットが切れたときの備えもありますが、異なるテンションのラケットを数本用意しておいて、相手のプレースタイルに合わせるためでもあります。

ガットを固く張ると、ボールを打ったときすぐに反発します。

スピードのあるショットを打つときに有効です。

逆に、ガットを柔らかく張ると、ボールとガットの接触時間が長くなるので、回転をつけるのに有効です。

私の場合、テンションは低めに張っていました。

スピードショットはあまり求めていませんでしたし、テンションが高いとガットが切れやすいからです。

さて、話は変わって「壁打ちわもん」。

テンションを高くしていくか、テンションを低めにしていくか。

今までの経験上、自分のいつもよりは若干高めに張っておいた方がいいと思いますが、やはり、相手に合わせて、ですね。

サノトモ


Fw:わもんな言葉《番外編》−年内名人2《わもん黒帯三段: サノトモ》

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こんにちは、さのともです。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
さのともは時々ブログを書いていて、
その中の「わもんな言葉」を
やぶちゃんねるに載せていただいています。

今回、番外編としたのは、
一度、「年内名人」というテーマで
わもんな言葉を書いたことがあるからです。

さて現在、年内に名人になると
宣言している方々が増えてきました。
(さのともも、その一人です。)

そして、呼応するかのように、
三段、四段認定者も増えています。

わたふさんや良子さんは以前より、
「三段目指すなら、五段目指さな!」
ということを言っていました。
(のちに「五段」の部分は「名人」に変わります^^)

出典を覚えていないのですが、
コーチング関連の本か何かで、
次のような話を読んだ(or聞いた)ことがあります。

2つのグループに分けての実験です。
片方のグループでは、一人一人に
5円玉を立ててもらうゲームをします。
5円玉を立てることができたら成功です。
もう片方のグループでは、同じく一人一人に
5円玉を立ててもらい、さらに立てた5円玉の穴に
爪楊枝を通すというゲームをしました。
爪楊枝を穴に通すことができたら成功です。

当然、後者のグループの方が
成功するのは難しくなります。
成功した人数も、前者のグループの方が多くなりました。

しかし、5円玉を立てることができた人の数は、
後者のグループの方が多かったそうです。

というわけで、年内名人目指しませんか♪

サノトモ


Fw:わもんな言葉64−言えば叶う《わもん黒帯三段: サノトモ》

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わもんとは、漢字で書くと「話聞」、「話す」と「聞く」です。

わもんの本のタイトルが『聞けば叶う』なので、聞く方に重点が置かれているようにも見えますが、話す方も忘れてはいません。

「聞けば叶う」の対として、「言えば叶う」という言葉があります。

目標や願望、夢などを、口にしたり、言葉に書き留めて置いたりすると叶いやすくなるというのは、よく言われています。

ではなぜ、言葉にすると目標や願望、夢などが叶いやすくなるのでしょうか。

ひとつの理由として、私は、目標や願望や夢という形ないものに形を与えるからだ、と思っています。

言語化することは、具体化することです。

言葉は、良くも悪くも、形を与えます。

枠をつくります。

器、入れ物です。

なので、言葉は中身を見えなくしてしまうこともあります。

表面的な「聞く」は、パッケージを見ているだけで中身を見ていないことだ、とも言えます。

しかし、うまく使えば、散らばっているものをまとめることができます。

そのままでは拡散する気体も閉じ込めておくことができます。

有耶無耶になりそうな、形ないものに形を与えてくれます。

言葉は、思考や感情、イメージや情景などに形を与え、見えるようにしてくれます。

他の人に届けることができます。

わもんでの話し方・聞き方は、私にとっては、話し手と聞き手が「一緒に開けてみようか」と、言葉という入れ物を開けているようなイメージです。

急に例えが身近なものになってしまいますが、話し手と聞き手がお菓子を一緒に食べようと、袋を開けるようなもの。

話し手がお菓子の袋を取り出したとき、聞き手はそのままもらって、後で一人で食べることもできますし、もらわないで返すこともできます。

なぜ話し手がお菓子の袋を取り出したかといえば、ひょっとすると、話し手が聞き手の前で自慢げにお菓子を一人で食べて優越感をあじわいたかったという理由かもしれません。

あるいは自分はいらないけれども、聞き手が欲しそうにしていたから取り出したのかもしれません。

しかし、おそらくは、一緒に食べたかったから取り出したのではないかと思います。

とすると、話し手が一緒に食べたいと思っていたお菓子を、聞き手がその場で一緒に食べるならば、食べてほしいと思っていたことが実現したとも言えます。

「聞けば叶う」「言えば叶う」は、車輪の両輪。

聞き手と話し手の相互作用です。

聞き手と話し手の間で、言葉の袋を開けると、夢や思いが溢れてくる。

そんな思いを、わもんな言葉に込めて♪

サノトモ


Fw:わもんな言葉62−音楽を聞くように人の話を聞く《わもん黒 帯三段:サノトモ》

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先日、わもんコーラス部が結成されました。

年末の小布施で行われる「わもん黒帯二段100人達成記念祝賀会」にて最初のお披露目となります。

私も部員の1人で、曲を練習しています。

といっても、発表曲を聞いているだけです(^-^;)

曲自体は知っている曲なので問題ありませんが、歌詞を覚えていませんので、まずは歌詞を覚えたいと思います。

歌を覚える方法は人それぞれにあるかと思いますが、私の場合は何回も聞くこと。

何回も聞いて、曲に合わせて歌ってみて、とすることでしか覚えることができません。

歌詞を覚えようというよりも、曲に合わせて言葉が出てくるようにしようとしています。

ふと、音の方を先に覚えているな、と思いました。

「曲自体は知っている」ということは、歌詞よりも音やメロディの方を先に覚えているということです。

音やメロディを先に覚え、その後、歌詞を覚えるという順番です。

わもんでは、音を入口に話を聞くといいます。

音調、音階、波長を合わせて話を聞くともいいます。

話し手の曲を聞いています。

良き聞き手は、話し手の曲に合わせて、一緒に歌ったり、ハモったり、コーラスで後押しをしたりしているのではないかと思います。

曲に合わせて歌詞が出てくると素敵ですね。

サノトモ


Fw:わもんな言葉61−素数《わもん黒帯三段: サノトモ》

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「素数」とは、1と自分自身以外に約数を持たない、1でない自然数のことです。

例えば、5の約数は、1と5なので素数。

6の約数は、1と2と3と6なので素数ではありません。

素数ではない自然数を「合成数」といいます(1は除く)。

ちなみに、今回のわもんな言葉「61」も素数です。

「素数」という言葉が、わもんで頻繁に使われているわけではありません。

ただ、先日の「黒帯だけのわもん入門塾」で話を聞いて、面白いなと思ったので書いてみます。

もともとは紳士服で有名なAOKIの創業者、青木擴憲さんの著書(おそらく『何があっても、だから良かった 人間を磨き、格を高める経営』)から得た言葉とのこと。

申し訳ありません。

未読です。

人に何か教えたり、指示を出したりするときの例えで、「素数で伝える」という言葉があったそうです。

よりわかりやすく、これ以上は割り切れない最小限の言葉で伝えるという意味だと思います。

より具体的に、イメージしやすいように。

「12」を素因数分解すると、「2×2×3」です。

やってほしいことを素因数分解をして丁寧に伝えていくという意味です。

さて、ここから私のイメージが飛躍します。

素数でも分解自体は可能です。

例えば「3」という数は素数ですが、「1+2」のように和の形には分解できます。

積の形でも、「2×1.5」のような分解も可能です。

分解のやり方次第では、幾通りもの分解が可能。

しかし、「素因数分解」というやり方での分解は1通りだけです(素因数分解の一意性)。

「素数で伝える」というのは、指示や説明を素因数分解のように一意に決める伝達方法だと考えます。

すると、そこには「素数」にあたるものがあるのではないか。

私はそれが「言葉」、その中の「基本レベルの言葉」だと思っています。

言葉の中には、合成数にあたるようなものもふくまれています。

小数や分数もあると思います。

それらを素数で表わす表現があると思います。

一方で、素数で表わす表現よりも、ひとつの数としてわかりやすいときもあります。

「12」を「2×2×3」というよりも、そのまま「12」と伝えたほうがいい場合も多々あります。

大切なのは、素因数分解できることとともに、逆に素因数分解の形からもとに戻せることができることではないかと思っています。

わもん入門塾」の講師の立場から言うと、「わもん」を素因数分解して、「わもん」とは○○だという説明ができると同時に、○○というのをひとまとめにすると「わもん」と呼ぶ、と言えることが大切だと思うのです。

ちなみにこのブログ記事は、もう少し素因数分解ができるのではないかと思います。。。

サノトモ


Fw:わもんな言葉60−お札商売《わもん黒帯三段: サノトモ》

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長野県上高井郡小布施町。

わもんに出会うまでは、小布施という所を知りませんでした。

小布施町は人口約1万1千人の町で、大きい町とは言えませんが、歴史や文化、自然を活かしたまちづくりがなされていて、観光地としての認知度も高くなっています。

今年初めて行きましたが、機会があればまた行ってみたいと思えるところでした。

特に印象に残っているのが、「オープンガーデン」です。

個人の庭を開放し、自由に庭を歩き眺めることができます。

オープンガーデンとは異なるかもしれませんが、「通り抜け禁止」とかの看板などあってもよさそうなところも、普通に歩けたりします。

「あんなところに庭があるな」とか、「この裏道はどこに通じているだろう」とか、いろいろと歩き回りました。

私の中では、なぜか「小布施」と「お札商売」が結びついています。

わもんに出会ってから小布施を知ったからかもしれませんし、「小布施(おぶせ)」と「お布施」が似ているからかもしれません。

しかし、「また行ってみたい」と思えることが一番の理由ではないかと思っています。

「お札商売」と聞くとインチキ臭く感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではご利益のあるお札を思い描いてください。

ご利益のあるお札は、「○○のお札はご利益がある」と求められます。

遠方からも求めにくる方がいらっしゃいます。

そのお札を手にすることで、「ありがたや」と感謝されます。

「遠くからも来てくれる」「手に入れることで感謝される」のが「お札商売」。

そして、何より「値切られない」(笑)

商売の理想を描いたものが、「お札商売」です。

「小布施」と「お札商売」が結びついているのも、小布施という土地が「お札商売」のひとつだと思うからです。

来る12月23日、小布施にて「わもん黒帯二段100人達成記念祝賀会」が開催されます。

「お札商売」の地に、「お札人間」が集まってきます。

さて、どんな会になるのか。

楽しみです。

サノトモ


Fw:わもんな言葉59−心ある一人《わもん黒帯三段: サノトモ》

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『黒帯日めくりカレンダー』、27日の言葉は「心ある一人――自分のあり方が世界をつくる最初の一滴になる。」

この言葉を見たのは、池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』という本を読み終えたときでした。

以前に、わもんな言葉で「バタフライ効果」というものに言及したことがあります。

「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスで台風となる」という例えで、無視できるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となることを指します。

冒頭の一滴は、蝶の羽ばたきと捉えていいでしょう。

自分のあり方が、世界をつくる最初の一滴、羽ばたきです。

『単純な脳、複雑な「私」』のなかで、「自己組織化マップ」の紹介がありました。

「自己組織化」というのは、簡単にいうと、教えていないのに自然に秩序が生まれてくることをいいます。

紹介されていた「自己組織化マップ」は、10×10マス(計100マス)の色の変化のシュミレーションで、ランダムに色づけされた10×10マス(計100マス)に色を混ぜていく様子です。

ランダムに色づけられた100マスのパレット内ひとつに色を混ぜます。

このとき混ぜる色は、これもまたランダムに色づけられたもの。

ルールは2つで、1つは、ランダムに色づけられた1色を100マスの色の中で一番近い色のパレットに混ぜるということ。

もうひとつは、その色の混ざったパレットの上下左右斜めの8マスのパレットにも色を混ぜるということです。

もちろん、一滴ではほとんど変わりありません。

しかし、何十回、何百回、何千回と繰り返していると、次第に色が分類されているように見えてきます。

パレットのひとつが私だとしましょう。

私が一滴の色を受け、周りの人に同じ色を与える。

私には世界がどのように変わっているのかはわかりません。

しかし、それは世界を変える一滴だと思うのです。

最初で最後かもしれません。

それでも、世界を変えた一滴だと思います。

サノトモ


Fw:わもんな言葉58−わもんメビウスの法則《わもん黒帯三段 :サノトモ》

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メビウスの輪(あるいは、メビウスの帯)というのをご存知でしょうか。

帯状の長方形の片方の端を180°ひねって、もう片方の端に貼り合わせた形をしています。

メビウスの帯上の平面をトコトコと歩いていると、最初は外側を歩いているのに、一周すると内側を歩くことになり、また一周すると外側を…、というおもしろい平面です。

このような平面を研究していたのが、数学者のメビウスさんで、メビウスの帯と名付けられました。

「わもんメビウスの法則」というのは、数学ではありませんが、「SOS理論」と「SNS理論」を組み合わせたもの。

「SOS理論」とは「そう 思ったら そう」の略、「SNS理論」とは「そう なれば すごい」の略(笑)

組み合わせると、「そう思ったらそうなればすごいと思ったらそうなれば…」。

「SOSNSOSNSOS…理論」(笑)

メビウスの帯には、数学的にいうと「向き付け不可能性」という特徴があります。

「向き付け不可能性」というのは、簡単にいうと、どちらが表でどちらが裏か決定できない、ということです。

先ほどは「SOS理論」を先に「SNS理論」を後に書きましたが、鶏が先か卵が先かと同じように、どちらが先とも言えません。

「ウラがあっても、おもてなし」という言葉がありますが、本当の「おもてなし」は、ウラもないものだと思います。

「もてなす心」にも通じるものがありますね。

サノトモ


Fw:わもんな言葉57−同通( どうつう) 《わもん黒帯三段: サノトモ》

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話し言葉において、ある言語から別の言語に変換することを「通訳」といいます。

通訳には「逐次通訳」と「同時通訳」という2種類の形式があるそうです。

例えば日本語の話者の話を通訳者が英語に訳す場合でいうと、話者が日本語で区切りがいいところまで話し、その話を通訳者が英語で話し、また話者が日本語で話し、通訳者が英語で話し、と交替交替に通訳をしていくやり方が「逐次通訳」。

「同時通訳」というのは、日本語の話者が話しているそばから、英語の通訳者が話をしていくやり方です。

「同時通訳」のことを略して「同通(どうつう)」。

「逐次通訳」と「同時通訳」は、どちらも異なる言語を訳すということで、その2つ(以上)の言語を知っていなければなりません。

「逐次通訳」も「同時通訳」も、どちらも日本語しか知らない私にとっては難しいことですが、どちらかというと、「同時通訳」の方が難しいように感じます。

その理由は、「逐次通訳」ならば、一塊の文章をいったんまとめて異なる言語に言いかえて話す、ということができそうですが、「同時通訳」は、その話者が次に言わんとすることを予測して訳していかなければならないと感じるからです。

私にとって一番身近な言語は日本語で、その次は学校で習ったことのある英語となるので、日本語と英語のことでしか思い浮かべていないからかもしれません。

例えば日本語の場合は動詞が文の一番最後に来ます。

しかし、英語は主語の後にすぐ動詞が来ます。

日本語を英語に同時通訳をする場合、日本語では動詞がまだ現れていないときに、英語では動詞を発していないと文にならないのではないかと感じるためです。

日本語話者の話をよく聞き、このようなことを話すだろうと当たりをつけ、いわば先取りして英語で話すことをしなければならないのではないか、だから難しいと感じます。

「同時」通訳といっても実際は多少のタイムラグがあるとは思いますが、これがもし仮に本当に同時であるならば、つまり、日本語で話し始めると同時に英語でも話し始め、日本語で話し終わると同時に英語も話し終わるということができれば、その2人の話者は異なる言語で話しているとはいえ、一心同体ではないか、つまりは話聞一如の状態ではないかと思います。

サノトモ


Fw:わもんな言葉56−聞くことで救える命がある《わもん黒帯三 段:サノトモ》

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facebookのシェアで、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor)さんのことを知りました。

シェアされていたのは、TEDの映像ですが、テイラーさんの本があることを知り、読んでみました。

『奇跡の脳』という本です。

テイラーさんは脳科学者ですが、ある日、脳卒中を起こしてしまいます。

『奇跡の脳』には、脳卒中により脳の機能が衰えていく様子や、手術・リハビリ等により回復していく様子が、脳科学者の視点から詳しく書かれています。

脳科学者が自分の脳を解説した稀有な本です。

手術後のリハビリ中のことを書いた章「最も必要だったこと」に、次の言葉がありました。

”これまでのわたしではなく、これからのわたしを愛してくれる人々が必要だったのです。”

脳科学者として様々な活動をされていたテイラーさんは、脳卒中により記憶能力も言語能力もおぼつかなくなってしまいました。

回復するために、最も必要だったのは、周りの人々。

脳卒中前の優秀な脳科学者としてのテイラーさんではなく、「これからのわたしを愛してくれる人々」です。

”どうしても、自分を今ここにいる、ありのままのわたしとして受け入れてくれる人々が必要でした。”

脳卒中だけでなく、聞くことで救える命はあると思います。

今ここにいる、ありのままのあなたとして受け入れて話を聞く。

このような聞き方を「わもん」と名付けています。

サノトモ


Fw:わもんな言葉52−わもんな言葉《わもん黒帯三段: サノトモ》

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「わもんな言葉」が、不定期ながら、50回を超えました。

最初は、自分が読んだ本の中で、「わもんと同じようなことを言っているな」と思って紹介したのがきっかけで書きはじめ、それが、やぶちゃんをはじめとして一部の方々に好評で、そのうち自分が読んだ本に限らず、「わもん」で語られる言葉について書きはじめて今に至っております。

今回、振り返りも兼ねて、「わもんな言葉」をテーマにしてみました。

「わもんな言葉」を書くとき意識していることは、少し違った視点から「わもん」を見てほしいということです。

押し付けるわけではありませんが、「このような考え方もある」「こんな風に思っている人もいる」ということを知ってもらいたいと思っています。

やぶちゃんが言う説明や解説をそのまま書くのは簡単ですが(いや、簡単ではありませんが…)、なるべく独自の考え方とか、あるいは突飛な例えとか、なんらかのオチをつけたりとか、そのようなことを盛り込んで書きたいと思っています。

ときには今回のように、自分以外には誰も拾わない言葉を拾ってみたり、とか。

だから、「わもんの言葉」ではなく、「わもんな言葉」です。

私は、どちらかというと、文章を書くのがニガテです。

この文章も「どんなことを書こうか」「何から話そうか」などと考えながら書いています。

そしておそらく、書き終わった後にまた見直して「変なことは書いていないだろうか」「もう少しわかりやすくするにはどうしたらいいだろうか」などと考えることでしょう。

ときには、「これでいいや」と公開することもあります(^-^;)あ、漢字変換で「後悔」がでできた…。

それはさておき。

わもんでは、「音」や「波長」など、非言語部分を重視します。

話し手の出している音、あるいは身振りやしぐさなどに、そのときの話し手の感情などの無意識の部分がひょっこりと顔を出します。

かといって、言葉を軽視しているわけではありません。

言葉への理解はそのままに、その言葉についてくる音にも注意を向けましょう、

音を入り口に話を聞いてみましょう、という提案です。

では、このブログは何のために書いているのか。

音声情報ではなく、文字情報として書き連ねている意図は何か。

わもんを通じて、音でしか伝えられない、伝わらないことがあることが多々あることを知りました。

ならば、文字として、文字でしか伝えられないことも、ある。

これをお読みいただいている皆さまが、「ガチ聞き」ならぬ「ガチ読み」として、この「わもんな言葉」をお読みいただくことで、より深い、より輝く「わもんな言葉」となっていくと思い、これからも「わもんな言葉」を書き続けていきたいと思います。

サノトモ


Fw:わもんな言葉51−明治維新《わもん黒帯三段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

わもんな言葉に「明治維新」というのも少しおかしな話かもしれませんが、ときおり「明治維新」がキーワードと思うことがあります。

やぶちゃんが幕末の志士、中岡慎太郎のオタクであったり、常ちゃんが心徒塾を松下村塾に例えた話をしたり、わたふさんの「わもんの現場」では明治維新について風水的な観点からの話があったり、など。

そして先日、長野で行われた「佐久間象山塾」。

「明治維新」に関連ある人物や動きが、ときおり顔をのぞかせます。

一方、私は…、明治維新のことをあまり知りません…。

もちろん「明治維新」という名称や、それに関わった人物の名前であるとか、そういったことは知っていますが、さて、「明治維新」とは何か?と問われると答えることができません。

いろいろなことが変わった、というくらいの認識です。

そのため興味を持って、少しずつ明治維新について調べたりしています。

特に、幕末の動きについて。

しかしまだ、「知っている」とは言えません。

とはいえ、何となくですが、その胎動が感じられる気もしています。

おそらくは明治維新といえども、1日でガラッと変わったわけではなく、幕末の黒船の来航など大きな出来事は多々ありましたが、変化としては少しずつで、それがやがて大きな波となりうねりとなって変わっていったものと思われます。

人々の意識の変化は、右向け右で一気に変わるものではありません。

小さな蝶の羽ばたきが、その蝶が2羽になり、3羽になり、そして大きな風となったのだと思います。

先日行われた「佐久間象山塾」では、安藤忠雄さんから「これからの時代をつくる君たちへ」と題する講演がありました。

いわば、若い世代に向けて、「羽ばたいていこう」というメッセージです。

そして、やぶちゃんの講演では、まだ最初のひと振りかもしれませんが、舞台に上がって実際に羽ばたいてみた若い世代の方々がいました。

歴史に名前が残っている人は、大きく羽ばたいた人であったり、何度も羽ばたいた人であったり、遠くから見れば目立つ人だったのだと思いますが、小さな羽ばたきはそこらじゅうにあったと思います。

その大小の羽ばたきの最中にいるような雰囲気が今、感じられる。

幕末から明治にかけて日本がひとつの国として意識され、まとまったように、世界が、そして地球が、ひとつとしてまとまっていくような動きの中にいるような感覚が、「わもん」に触れていると感じられます。

特に、若い世代へと「わもん」の心が伝わっていくときは尚更。

明治維新のように、後から見ると大きな変化となるような、そんな時代に自分は生きている気がします。

サノトモ


Fw:わもんな言葉50−深める《わもん黒帯三段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

「聞く力を『高める』と言っていましたが、最近『深める』と言いはじめました」

やぶちゃんが最近ときどき言っている言葉です。

そして私が以前から気になっている言葉です。

「高める」と「深める」。

以前に自身のブログで「知識とスキル」という記事を書いたことがあります。

知識は「深い」「浅い」と言い、スキルは「高い」「低い」と言うことから書いたものです。

「知識を深める」とは言うけれど、「知識を高める」とはあまり言わない。

「スキルを高める」とは言うけれど、「スキルを深める」とはあまり言わない。

ここで「聞く力」を考えてみると、「聞く力を深める」「聞く力を高める」、両方言える。

「力(ちから)」だけで考えてみると、「力を深める」よりは、「力を高める」の方がふさわしいような気がするのになぜでしょう。

「知識」は「わかる」と関係しています。

「わかる」は「分かる」「解る」「判る」「別る」。

何かを分解することが「わかる」。

一方、「スキル」は「できる」と関係しています。

「できる」は「出来る」「出で来る」

何かから創造することが「できる」。

知識を得るためには、分析することが有効。

スキルを得るためには、統合することが有効。

知識は「静」、スキルは「動」。

「わかる」と「できる」は違うと言われます。

「わかっていても、できなければ何にもならない」など。

「わかる」というときには下方向へ、「できる」というときには上方向へのイメージがあります。

「知識」は「深い」、「スキル」は「高い」というイメージからでしょう。

となると、「わかっていて、できる」というのは、下へ行って戻ってくるようなものでしょうか。

「聞く力を高める」「聞く力を深める」と両方言えるのは、上方向への「できる」にも、下方向への「わかる」にも関わっているからではないかと思います。

「可能性を引き出す」力ならば、「高める」の方がふさわしく、一方「可能性を見つける」力ならば、「深める」がふさわしく思います。

「聞く力を『深める』」と言いはじめたのは、可能性を見つけていく、あるいは可能性を明らかにしていく方へ、さらに焦点が近づいてきたのではないかと思っています。

「わもん」の目的は「自己わもん」。

自分の声なき声を聞くために、深く深く潜っていくのです。

サノトモ


Fw:わもんな言葉49−『壁打ちわもん』《わもん黒帯三段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

何度か「壁打ちわもん」を見たことがあります。

「壁打ちわもん」というのは、話し手が2人(あるいは複数)、聞き手が1人。

話し手の2人をAさん、Bさんとすると、聞き手はまずAさんの話を聞き、その非言語を言語化してBさんに伝え、そしてその話を伝えたBさんの話を聞き、その話の非言語をAさんに伝え…、というのを壁打ちのように繰り返し行っていくというものです。

非言語を伝え合うことで、AさんとBさんの間にあったちょっとしたズレが解消したり、双方の理解度がよりよくなったりしていきます。

先月の萩での黒帯心徒塾で、「壁打ちわもん」を見た方の感想に、「2人の間にあったアクリル板がなくなっていったようだった」というものがありました。

ここで「アクリル板」というのは、その黒帯心徒塾の冒頭で以下のようなアクリル板の例え話があったからです。

ピラニアは獰猛な魚です。

水槽にピラニアと小魚をいっしょに入れておくと、ピラニアは小魚に襲いかかります。

そこで、ピラニアと小魚の間を透明なアクリル板で仕切ると、ピラニアは最初同じように小魚を襲おうとしますが、間のアクリル板に阻まれ、そのうちあきらめてしまいます。

その後にアクリル板を外しても、ピラニアはアクリル板があるものと思ってか、小魚に襲いかからない、という話。

カマスの例としても述べられます。

自分で限界を作っているのではないかという例え話です。

さて、この小魚を襲うのをやめてしまったピラニアを元に戻すには…。

アクリル板の存在を知らないピラニアを水槽に入れること。

アクリル板の存在を知らないピラニアが小魚を襲うのを見て、アクリル板がないことに気付き、元に戻る、とのこと。

そして、今回参加した黒帯心徒塾でも「壁打ちわもん」を見ました。

そこでは、「聞き手が絶対尊敬を話し手の2人に贈ることで、2人の間も絶対尊敬でつながり、そして終わった後でもそれが続く」というコメントがありました。

話し手2人の間に、本当は存在しないアクリル板。

聞き手は、アクリル板の存在を知らないピラニア。

アクリル板がない聞き方そして伝え方をすることで、話し手2人はアクリル板がないことに気付く、というのが「壁打ちわもん」ではないかと思っています。

とすると、壁打ちわもんができるには、話し手2人の間にアクリル板がないと思うこと。

というよりは、元々ないものなので、そんなことすら感じないでしょう。

サノトモ


Fw:わもんな言葉48−ハイタッチわもん《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

内田樹さんの『修行論』を読んでいると、次のような文章に出くわしました。

“右手と左手を打ち合わせて拍手するとき、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを私たちは言うことができない。というのも、両手は同一の共身体から枝分かれして、右手と左手は同じ時間を生きているからである。そこに先後はない。”

「石火の機」「間髪を容れず」を説明するためのひとつの例として挙げられている文章です。

そこで、思考が飛びます。

ならば、「ハイタッチ」はどうだろう?

ハイタッチは、自分の手と相手の手を打ち合わせて「パンッ」と音がします。

タイミングが合えばきれいな音が鳴り、気持ちがいいものです。

一方、タイミングが合わないと、相手の手を叩いたように、あるいは叩かれたようになってしまいます。

ということは、ハイタッチでも、最初はどちらかが仕掛けてということはあるかもしれませんが、「パンッ」ときれいな音が出るその瞬間には、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを言うことができない。

ならば、ハイタッチがきれいにできたとき、その瞬間は、両者は同一の共身体から枝分かれして、同じ時間を生きているとも言えそうです。

そこで、思考が飛びます。

「ハイタッチわもん」はこれか!

話し手と聞き手がつながりあったとき、話聞一如の状態になったとき、きっと、きれいな音が出るのでしょう。

どちらが話し手、どちらが聞き手であるのでなく、同一の共身体から枝分かれして同じ時間を生きているのではないかと思います。

その先は、隻手の声も聞こえるのかもしれません。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉47−場づくり《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

最近、「場づくり」をする機会があり、ヤブログ放送室の「場づくり」と「最新の場作り」を聞き直しました。

聞いているときに、蜘蛛の巣の張り方を思い出していました。

会場の四隅に、二礼二拍手後、「スパイダーマンが中指から糸をシュッと出すように」という表現があったからだと思います。

また、以前に「動態聴力」の例えの際に、蜘蛛の巣を挙げたことがあったことも影響しています(「絡新婦の教え」参照)。

蜘蛛が巣を張るその方法は、蜘蛛の種類によって異なることもあるでしょうが、まずは縦糸を張っていきます。

中心から外枠にのびるように放射状に縦糸を張ります。

縦糸を張り終えると、中心から螺旋状に横糸を張っていきます。

巣を張り終えると、静かに獲物が網にかかるのを待ちます。

会場の四隅に絶対尊敬の糸を張り、その間にも糸を張り八方陣を敷く。

それは、蜘蛛が巣を張るときに縦糸から張るのに似ています。

では、横糸はなんだろう?

そう考えたときに、横糸は「人」ではないかと思うのです。

会場に集まった人たち、その場に参加した方々、皆さんが一本の横糸ではないかと思うのです。

八方陣の縦糸を敷いた会場に次々と人が集まって横糸が張られていきます。

始まるときには、巣が張られた状態。

そして、どこが揺れるのか、どんな反応があるのかを静かに待ちます。

始まってから蜘蛛の巣を張っていては遅くなります。

よく知られている(?)ように、蜘蛛の糸は縦糸はくっつかず、横糸はくっつきます。

人間は協力する生き物です。

くっつきます。

魅きつける力があります。

ちなみに、縦糸のことを「経(けい)」、横糸のことを「緯(い)」といいます。

地球の「経度」「緯度」などに使われています。

縦糸と横糸が合わさると「経緯」です。

始まる前に場づくりができている、事前に決まっているというのは、縦糸と横糸が張られている状態、「経緯」が張られている、できている状態。

後は、それに従ってハンドリングするのみ、です。

サノトモ


Fw:わもんな言葉46−さとり《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

「さとり」という妖怪がいます。
人の心を読むことができる妖怪です。
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、「覚(さとり)」という名前で、猿のような姿が描かれています。
Wikipedia「覚」参照)

さて、この「さとり」という妖怪ですが、なぜ妖怪なのでしょう?
人の心が読めるというすごい能力を持っていながら、神様や仏様ではなく、なぜ妖怪なのでしょう?
人の言葉を解し、人の心を読めるけれども、獣として描かれた理由は何でしょうか?

柳田國男(だったと思います)は、妖怪を「神の零落した姿」としました。
零落した理由は何でしょうか?

妖怪「さとり」に対して、鳥山石燕は「覚」という漢字を当てています。
一方、妖怪のことではありませんが、「さとり」を「悟り」と書くことがあります。

「覚り」と「悟り」の違いは何か?
これが、妖怪と神様仏様とを区別する違いだとしたら…。

手元の漢和辞典には、「覚」と「悟」のそれぞれの漢字の成り立ちからの意味について、次のようにありました。
【覚】見聞きした刺激が一点に交わってまとまり、はっと知覚されること。
【悟】神経が分散せず、×型にある一点で交差して、はっと思いあたること。

似たような意味ではありますが、何となく私はこのように考えます。

「覚」には「見」という漢字が使われています。
ちなみに「見」が部首だったのを漢和辞典で知りました。
妖怪「さとり」は、人の身体のちょっとした動きや反応で相手の心を読むことに長けている人(?)だと思います。
見て覚るのが「覚り」。
見たこと聞いたこと、知覚したことをひとつにまとめることができることが「覚り」。

一方、「悟」には、「吾」という漢字が使われています。
部首は「心(りっしんべん)」。
自分の思い、自分の心がひとつにまとまる、まとめることができることが「悟り」。
また、「心」を「言」に換えると「語」になります。

「覚」は外側から一点に収斂する、「悟」は内側から形作り一点になるのではないか、と。

「わもん」には、「聞くわもん」と「話すわもん」があるとのこと。
「覚」を「聞くわもん」、「悟」を「話すわもん」とすると、「わもん」とは「覚悟」となります。

サノトモ


[2013/08/13-14|徳島] 阿波おどり わもん研修のご案内

踊る阿呆に見る阿呆!

真夏の恒例 徳島・阿波踊り わもん研修

8月13日(火)14日(水)

やぶちゃんの故郷・徳島で阿波踊り! 阿波踊りをやぶちゃんと一緒に楽しみませんか?

現地集合
8月13日(火)正午 JR徳島駅前


◆踊る阿呆 13日 午後〜夜 地元連「明日連」さんに合流して、練習後、夕方から 演舞場を踊ります。(初心者可) 衣裳貸与(一部、足袋、白ハーフパンツなど消耗品は個人調達、購入できるお店紹介可) ◆見る阿呆  14日(水)日中〜夜  昼は有名連の選抜組のステージ踊りを堪能。夜は、盛り上がる街の中の桟敷席で満喫します。 フィナーレの総踊りは圧巻です。 ◆費用 踊る阿呆  3000円 宿泊(1泊)  3675円(大部屋にて男女別) 見る阿呆  3600円 食費別 ◆現地マネージャー 朝倉ひろくん(3段) ※2日間のうち1日のみの参加も可 観光客で半端なく込み合うこのシーズン、奇跡的に宿泊できる絶好の機会です。 申し込み→こちら(7/15締め切り)


Fw:わもんな言葉45−わもんの現場《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

禅画の中に、悟りにいたる道筋を牛を主題として表した「十牛図」というものがあります。

牛を「人の心」と見立てたとも、また、牛を「悟り」、童子を「修行者」と見立てたとも言われている十枚一組の画です。

十枚にはそれぞれ名前がついております。
(画像についてはwikipedia「十牛図」などをご参考に)

1. 尋牛
童子は牛を尋ね歩いています。
どこに牛はいるのだろう?

2. 見跡
牛の足跡を見つけます。
足跡をたどれば、その先に牛がいるぞ!

3. 見牛
牛を見つけます。
まだ尻尾ですが見つけました!
追いかけます!

4. 得牛
牛を捕えます。
よっしゃ!!

5. 牧牛
牛を飼いならします。
逃げないように念のため手綱をつけておこう。

6. 騎牛帰家
牛に乗って、家に帰ります。
手綱はついているものの、もう大丈夫!

7. 忘牛存人
牛のことは忘れて、ただ人がいるのみ。
牛は自分の心にいます。

8. 人牛倶忘
人も牛もともに忘れます。
いわゆる「無」の状態。
しかし、ここで終わりではありません。

9. 返本還源
もともとのありのままの状態に戻ります。
そこにあるのは自然の風景です。

10. 入・垂手
街に入り、手を垂れます。
布袋様の姿になって、人を導いている様子です。

わもんは「現場で通用してなんぼ」です。

サノトモ


阿波おどり わもん研修のご案内

踊る阿呆に見る阿呆!

真夏の恒例 徳島・阿波踊り わもん研修

8月13日(火)14日(水)

やぶちゃんの故郷・徳島で阿波踊り! 阿波踊りをやぶちゃんと一緒に楽しみませんか?

現地集合
8月13日(火)正午 JR徳島駅前


◆踊る阿呆 13日 午後~夜 地元連「明日連」さんに合流して、練習後、夕方から 演舞場を踊ります。(初心者可) 衣裳貸与(一部、足袋、白ハーフパンツなど消耗品は個人調達、購入できるお店紹介可) ◆見る阿呆  14日(水)日中~夜  昼は有名連の選抜組のステージ踊りを堪能。夜は、盛り上がる街の中の桟敷席で満喫します。 フィナーレの総踊りは圧巻です。 ◆費用 踊る阿呆  3000円 宿泊(1泊)  3675円(大部屋にて男女別) 見る阿呆  3600円 食費別 ◆現地マネージャー 朝倉ひろくん(3段) ※2日間のうち1日のみの参加も可 観光客で半端なく込み合うこのシーズン、奇跡的に宿泊できる絶好の機会です。 申し込み→こちら(7/15締め切り)


Fw:わもんな言葉44−心聞士《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

このブログが、最近、わもんに浸食されつつあります。

浸食と書くと誤解を生みそうなので、新しい色を出し始めたという意味で「新色」といった方がいいか、それとも深く飾られ始めたので「深飾」と書いた方がいいか、などと言葉遊びをしつつ、新しい職業として「新職」をご紹介。

その職業とは「心聞士」。

「しんぶんし」ではなく、「しんもんし」と読みます。

コンサルタントの日本語名を考えて出てきた言葉とのこと。

その他の案として、「応援士」「救援士」「救命士」「掘削士」「聞き方士」などが出てきたようです。(「心聞士(しんもんし) 誕生秘話【2013/04/14】」参照)

どれも「士」が付いています。

「士」にこだわりを感じます。

「士業」と呼ばれる職業があります。

「弁護士」とか「税理士」とか。

「士業」とは何か?と Wikipedia を見ると、「士業には、高度な専門性を要求される職業が多く、呼称は、その高度な専門性から取得難度の厳しい資格の名称の末尾に「士」の文字がついている場合が多いということに由来している。」とのこと。

また「心聞」は、「心を聞く」ではなく、「心で聞く」という意味。

「心を聞く」ならば「聞心」となるはず。

「心聞士」は、心で聞くことを専門とした職業。

全身全霊をかけて、相手の話を聞くことを生業としている方々。

上から読んでも下から読んでも、その読み方が変わらないように、常に相手シフトで話を聞く専門家です。

サノトモ


Fw:わもんな言葉43−風は西から吹く《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

先日、沖縄日帰りを慣行したとき、飛行機に乗りました。

利用した航空会社は Peach です。

関西国際空港から那覇空港まで、予定フライト時刻は、行きは7:00発9:00着、帰りは20:55発22:45着。

行きの所要時間は2時間、帰りの所要時間は1時間50分。

帰りの時間の方が10分短くなっています。

ご存知の方もいるかと思いますが、これは偏西風の影響。

沖縄から大阪まで、つまり西から東へ飛ぶときは、偏西風が追い風となって早くなります。

逆に、東から西へ飛ぶときは向かい風となります。

目的地に向かうには、もちろん向かい風に立ち向かっていかなければならないこともあります。

また、追い風に乗ったとしてもどこかで降りなければならないときもあります。

しかし、追い風に乗れるときは、乗った方が効率よく、楽に進むことができます。

わもんの風は西から吹く。

目的地は人それぞれですが、方向が同じならば、追い風に乗るのは悪くない選択肢。

早く目的地に着きたい方、来たるべき向かい風に備えて力を蓄えたい方、そんな方々がわもんの風に乗っています。

そして先ほど、黒帯100人誕生の朗報がありました。

偏西風とは大局的に見た風のこと。

局地的に見ると、風は西からだけ吹いているわけではありません。

わもんの風も大局的に見た風。

局地的にはさまざまな風が吹いています。

ひとりひとりが羽ばたきながら一陣の風を起こし、その風を大局的に見るとわもんの風となります。

風に乗りつつ、風を起こす。

そして自ら風になる。

この「わもんな言葉」も一陣の風とならんことを。

サノトモ


Fw:わもんな言葉42−玄(えん)《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

以前に、わもんな言葉で「玄」について書きました(「わもんな言葉35−玄」参照)が、その時は読み方が決まっていませんでした。そして最近、「玄」の読み方が決まりました。「玄」と書いて「えん」と読む、とのこと。
さて、なぜ「えん」となったのか。理由は…知りません(^-^;)
推測や言葉遊びも交えながら、紐解いてみます。
普通に読むならば、「玄」は「げん」です。それが「えん」になるということは…「G」がなくなっている。「げん(gen)」から子音の「g」をとって、「えん(en)」です。
「G」から思い起こすものといえば「重力」。重力(gravity)の頭文字をとって、「G」といえば「重力」とか「重力加速度」を意味します。その「G」がなくなったということは、重力がなくなった「無重力」状態。
また「g」は「グラム」という重さの単位でもあります。重さがなくなり、飛び立ったことを表しているのかもしれません。
はたまた「G」がなくなった…「自我」なくなった…「離我」に通じるのかもしれません。
言葉遊びはともかく、やぶちゃんは「玄」について、「私が『玄』になれるのは、亡くなった後かもしれません」と言います。以前の「わもんな言葉35−玄」でも書いたように、「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。「玄徳」というのが、「木にたとえると根に相当するところの徳」ならば、「玄」は木にたとえると根に相当するもの。重力にも縛られず、肉体にも縛られず、人の心に種を蒔き、根を張り、その人の中で生き続ける。そんなわもんな人が「玄」なのかな、と想像します。
吉田松陰は、『留魂録』の中で、以下の言葉を遺しています。“義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。”人間の一生を四季に例え、松陰は自分の死を間近に控え、自分自身にも四季があり花咲き実をつけたはずだと述べます。その実は籾殻なのか、それとも粟なのかは自分の知る所ではないが、この志を受け継ぐ人があれば、それは蒔かれた種子が絶えず、収穫のあった年に恥じないであろう、と。
私自身も、歴史に名を残したいとまでは思いませんが、せめて身近な人の心には残っていたいと思っています。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉41−聞くライブ《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

「聞くライブ」とはどのようなものか。

言葉での説明では魅力が伝わらないので、一度は参加されることをオススメします。

基本的には、講演者(?)であるやぶちゃんが会場の誰かを指名し、その人の話を聞く。

言葉にするとそれだけなのですが、下手な講演会を聞くよりは数十倍も心に残ります。

当然のことながら、指名された人がどのような話をするのかは予想できません。

筋書き・シナリオ一切なし。

しかし、終わった頃には、何かシナリオがあったかのような印象です。

以下は、ジョセフ・ジャウォースキー『シンクロニシティ』より。

終りの方の一節です。

“そう言うと、クレアは沈黙した。私たちはみな、350人の人々はみな、広い会場のなかでただ座っていた。何の音もしなかった。誰一人、何一つ、動くものもなかった。しかし、今起きていることのパワーが空間に満ちあふれていた。これほど心をゆさぶられる瞬間が、今までの人生のなかで何度あっただろう。私は、父の魂が私たちとともにいるのを強く感じた。大勢の人々の集まっているその会場のなかにあって、私たち全員のあいだに、親密さを、連帯感を、つながりを感じた。”

『シンクロニシティ』のこの箇所を読んで、「聞くライブ」を思い起こしました。

「シンクロニシティ」というのは、日本語では「共時性」と訳されます。

会場全体で時を共にする「聞くライブ」

是非体験してみてください。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉40−自動ドア理論《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

書籍『わもん』が改題され、『聞けば叶う わもん入門』として生まれ変わります。

改題され、装丁が一新されただけでなく、「音」に関する項への加筆、そして新たな書き下ろしの一項も加わります。

そして、本間先生の推薦の帯もついて。

さて、「聞けば叶う」という言葉ですが、何を聞けば、何が叶うのでしょうか?

それは、自分の声なき声を聞くことができれば、その声は現実となる、という意味です。

ドアの前に立つと、そのドアが自動的に開くように道が開けていく。

話は変わって、最近「自動」のものが増えてきて便利になってきています。

自動ドアもそうですが、階段を自動的に上がるエスカレータ、洗濯機や炊飯器。

トイレも自動的に水が流れる。

一方で、ちょっとした弊害もあるようです。

最近聞いた話では、トイレの水が自動的に流れるので、自動的に流れないトイレでも水を流さないお子さんが増えてきているとか。

極端な話をすると、ドアの前に立っても自動的に開かなければ、それはドアではなく壁だと思ってしまう人もでてくるかもしれません。

それはおかしな話。

ドアならば、自分の手で開ければいいことです。

水が自動的に流れなければ、自分で流せばいいことです。

はたまたおかしな話をすると、歩いていると横で自動ドアが勝手に開くことがあります。

自動ドアが開いたからといって、そこが進む道だと自動ドアを通っていくことはありません。

結局のところは、自分の行きたい行先をしっかりとしておくこと。

目的地、エンドポイントを見定めておくことです。

普段、当たり前と思っていることは、決して当たり前のことではありません。

さまざまな方々、さまざまな事柄が重なって起きた事象です。

自分の行先を見定め歩む上で、さまざまな方々、さまざまな事柄に感謝を持って進まなければ、自動ドアに気付きません。

自動ドアがあると気付くのは、言葉を変えると道が開けたと感じられるのは、おぼろげでも行先がわかっている人、そして、自分以外の意思の存在を感じられる人だと思います。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉39−『絶対尊敬』《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

4月14日(日)、第56回黒帯心徒塾。

前日13日(土)の第55回にも土曜日ながら参加することができたのですが、何となく心ここにあらず、といった感じで終わってしまいました…。

反省。

打って変わって、日曜日は参加メンバー全員が整いました。

黒帯チャレンジャーは前日と同じ10人。

前日は黒帯取得は0人。

そして当日は10人が見事に黒帯取得!

ひとりひとりの力はもちろん、場の力もすごかったです。

書籍『わもん』の冒頭の言葉でありながら、「わもんな言葉」では取り上げていなかった「絶対尊敬」。

実は、よくわかっていませんでした。

もちろん、出会う方々に尊敬の念を持ってはいるものの、それが絶対尊敬かというと疑問が残っていました。

しかし、この場は…信じないわけにはいかない。

別に、強制力でも何でもなく、いけると思える、そんな場でした。

絶対尊敬とは、誰かの尊敬の念と比べる相対的な度合いとは違います。

思えばいつも、自分の持つ尊敬の度合いと、他の誰かが持つ尊敬の度合いを比べていたように思います。

今、読んでいる吉田松陰の『講孟箚記』に、次の言葉があります。

“「其の心を尽す」とは、心一杯の事を行ひ尽すことなり。力を尽すと云へば、十五貫目持つ力ある者は十五貫目を持ち、二十貫目持つ力のある者は二十貫目を持つことなり。”

自分が持つ尊敬の念を、目一杯贈ることが「絶対尊敬」

今回の心徒塾では、四六時中とはいきませんが、目一杯贈ることができた時間がありました。

“一事より二事、三事より百事・千事と、事々類を推して是を行ひ、一日より二日、三日より百日・千日と、日々功を加へて是を積まば、豈遂に心を尽すに至らざらんや。宜しく先づ一事より一日より始むべし”

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉38−『波』《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

4月13日(土)朝5時半頃、寝ていましたが、大きな揺れで目が覚めました。

とりあえず揺れが収まるのを待ち、収まったところで起き上がり、念のためにテレビをつけ震源地を確認。

おそらく震源地は近くにあるだろう、と。

震源地は淡路島付近でやはり近いものの、大規模な被害が出てはおらず、部屋のベランダから見たところでも大きな変化はなく、少し安心しました。

ただし、後でニュースで知るところによると、震源地に近い淡路島では少なからずケガ人や建物の被害が出ております。

震源地に近いと感じたのは、初期微動時間が少なかったからだと思います。

地震波には、P波(Primary Wave)とS波(Secondary Wave)の2種類があります。

P波というのは第1波で、波の進行方向に対して並行する波、S波というのは2番目の波で、進行方向に対して垂直に揺れる波です。

初期微動を起こす波はP波で、それに続くS波は主要動といわれる大きな揺れを起こします。

S波よりもP波の方が速度が速く(先に届くからP波という名前です)、P波が届いてからS波が届くまでの時間を初期微動時間といいます。

もちろん地層などの影響を受けるでしょうが、初期微動時間が短いほど震源地は近く、初期微動時間が長いほど震源地は遠くなります。

地震波は波です。

音波に変えて考えてみましょう。

わもんでは、音波・音調を手掛かりに声を聞いていきます。

地震波にP波・S波があるように、音波にもP波・S波があるのではないか、と。

つまりは、主要動(S波)を実際の声だとすると、初期微動(P波)があるはずだ、と。

その初期微動を感じることで、次の言葉を待つ心構えができます。

初期微動を感じるためには、自分が静かでいること。

完全沈黙が必要です。

そして、震源に近づくほど初期微動時間は短くなる。

初期微動を感じてから構えていては遅い。

震源では、初期微動時間は0(ゼロ)になります。

とすると、いつでも、どこでも、誰にでも。

目指すところは、初期微動を感じた瞬間、間髪入れずの動き。

そしてもう1つ、初期微動の方向が、震源・音源の方向になるな、ということも気付きました。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉37−Elephant in th e room(部屋の中に象がいたら) 《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

かなり異色なわもんな言葉(?)。

ヤブログ放送室「本間先生から見たやぶちゃん」を聞いて思いついた話です。

サノトモ

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こんな夢を見た。

宮殿の一室に一匹の象がいる。部屋の隅に四足で立っており、大きな置物と見間違ってもおかしくないほどほとんど身動きをしない。室内には数名の人がいて、象がいることにおそらくは気付いている様子だが、取り立てて珍しく眺めたり話題にあげたりはしていない。

何となくさびしそうである。

そのうち、数名の盲人が部屋に入ってきた。一人が象の鼻を撫で、「木の枝のようだ」と言った。またある者は耳に触れ、「否、これは扇だ」と評した。腹を触った盲人は「壁のようだ」と言い、牙を撫でた者は「パイプのようだ」と、あれやこれやと言っている。

近くにいた者がこのやりとりを聞きつけ、「これは象です」と伝えた。何でも、子どもの頃は気性が荒かったのだが、訓練によっておとなしくさせたという。訓練といっても鎖をつけていただけである。

象の足に鎖をつなぎ、子どもの象では動かせない杭にその鎖をつなげておく。最初のうちは、鎖を引きちぎろうとしたり、杭を引き抜こうと四苦八苦するものの、それが無理とわかるとあきらめてしまう。あきらめた象は、鎖をつなげられただけで引きちぎれないものだと認識し、逃げようとしないということらしい。見ると部屋にいる象にも足に鎖がついている。

盲人たちは感心しながら聞いている。「なるほど。これは象なのか」「力強いと思っていたが案外おとなしいものだ」など。そして、「やはり人間は象よりも賢いな」と。

すると、別の方向から男の声がした。「象は賢い動物ですよ」

その男が言うには、象は今まで自分の身に起ったことを全て覚えているくらい記憶力がいい、という。鎖につながれておとなしくしているのは、あきらめたわけではなく、そうすることが象にとって一番いいと感じているからそうしているだけだ、とも。

そうして部屋のあちらこちらで象の話が持ち上がってきた。ある人は象を撫で、またある人は象に話しかけ、その部屋にいる誰しもが象と戯れるようになった。

象も喜んでいるように見えた。

とても大きく力強いにも関わらず、鎖につながれおとなしくしている。しかし、部屋の誰しもが話題にして戯れることで、活き活きとしてくる。

誰かが冗談交じりに、この象を「理想像」と呼んだ。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉36−板の上に立つ《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

話を聞いた当初は、まな板の上、という思いでいました。

3月31日(日)岡山で行われた「やぶちゃんの聞くライブ3!」にて、三段チャレンジ。

観客がいる中でのガチ聞きです。

申し込みをした時は、私はまだ黒帯初段。

三段チャレンジする方の雄姿を見たいと思って申し込みをしたのですが…。

3月20日付ヤブログ放送室『わもん声楽レッスン〜直樹先生と対談〜』
“http://yabuchan.jp/yabubroadcast/2013/03/20/0148/”
の中で、「板の上に立つ者」という言葉が出てきます。

コンサートなどで舞台に立つ者、あるいは、セミナーなどで人の前に立つ人、という意味です。

そして、さらにやぶちゃんはリスナーに向けて言います。

「あなたも板の上に立っているんじゃないんでしょうか」

今、この一時は1回切りの勝負だ、と。

「まな板の上の鯉」という言葉は、抵抗することもなく為されるがままの状態、という意味もあるのかもしれませんが、慌てず泰然として覚悟を決めた状態でもあります。

「人事を尽くして天命を待つ」という心境です。

思えば、鯉は力強い魚。

中国の故事では、黄河の急流のにある竜門という滝を登ることができたのは鯉だけだった、そして、竜門を登り切った鯉は竜になったという話があります。

「鯉の滝登り」や「こいのぼり」の話。

そして、鯉が竜になったという故事から、「登竜門」という言葉もあります。

はたして、自分は人事を尽くしているのだろうか。

まな板の上にも立っていたのではなく、まな板の上に寝転がってはいなかっただろうか。

残念ながら、今回は黒帯三段という竜門を登ることはできませんでしたが、今も板の上には立っています。

人は誰しも、人生という板の上に立っています。

自分の板の上では自分が主役、他の誰かの板の上ならば名脇役として立ってみたいと思います。

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉35−玄《わもん黒帯二段: サノトモ》

2013/ 2/24 15:55

先日、伊與田覺さんの『中庸に学ぶ』を読みました。

儒学の四書のうちのひとつ『中庸』について、伊與田さんが行った講演の講演録です。

その中の一節。

“この「徳」には二つの面があります。一つは、目には見えないが、内にあって大きな働きをしている徳。木にたとえると根に相当するところの徳を「玄徳」といいます。他方、外に現れる徳。木にたとえると幹や枝、葉・花・実にあたる部分ですが、これを目に見えるから「明徳」というのです。”

当然(?)のことながら、「玄」を思い出します。

わもん黒帯は「初段」から「七段」まであり、次は「名人」。

その後、「匠」「聖」「玄」と続きます。

この段位がいつどのように名付けられたか、由来は全く知らないのですが、「玄徳」と関係がありそうな気がします。

「玄徳」とは、「木にたとえると根に相当するところの徳」というのも、また面白いところ。

言葉は「言の葉」で、1枚の葉っぱに気をとられると全体が見えなくなる。

音を入り口に話を聞き、葉っぱのみならず根っこへ。

根っこの音が「本音(根)」。

「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。

学習理論でいうところの「無意識の有能」を思います。

「わもん入ってる」ことさえ忘れた心境。

意識せずとも話を深く聞ける心境。

「道は則ち高し、美し、約なり、近なり」とは、吉田松陰の『講孟箚記』の序の冒頭。

高く美しくもあり、簡単で身近なもの。

まだまだ私は「意識的な無能」段階かもしれませんが、「意識的な有能」そして「無意識の有能」へと学んでいきたいと思います。

《サノトモ》