Fw:わもんな言葉135−わもんエスパー《しもん協会: サノトモ》

1420722311325.jpg

エスパーを日本語でいうと「超能力者」ということが多いですが、Wikipediaによると「超能力」は、「ESP」と「サイコキネシス(念力)」に大別することができると書かれていました。

エスパーを英語で書くと「esper」です。

語尾の「-er」は人を表す接尾辞ですので、エスパーとは「ESPを持っている人」ともいえます。

「ESP」というのは「ExtraSensory Perception」の頭文字をとったもの。

直訳すると「超感覚的知覚」です。

Wikipediaでは、「ESP(超感覚的知覚)」の種類として3つ挙げられていました。

「テレパシー」「予知」「透視・千里眼」です。

この3つであれば、できるとは言えませんが、できそうな気がします。

「テレパシー」は、ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること。

「あの人ならば、こう考えるだろう」と思いを馳せることはできます。

その断定形が「テレパシー」なのではないか。

「予知」も、「こうなるだろう」はしばしば思いますが、「こうなる」と断言できるのが「予知」ではないか。

「透視・千里眼」にしても、「かもしれない」ではなく、「だ」。

何となくそのような気がします。

やぶちゃんは「超能力」とは言わず、「超・能力(ちょうてんのうりょく)」と言います。

このときの「超」は、「超スピード」とかの「超」で、「とてもすごい」というような意味です。

本来持っている能力を磨き続けた結果、とてもすごい能力になったということです。

誰も持っていない特殊能力のことではありません。

五感・知覚を研ぎ澄ませたものが「ESP(超感覚的知覚)」。

「超能力者」と聞くと胡散臭いイメージもありますが、「エスパー」の語源をみると「わもん聴覚」を磨き続けた延長線上にありそうです。

《しもん協会:サノトモ》


Fw:わもんな言葉134−宇宙の音《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

現在開催中の『「ひとりの志が世界を変える」リンポチェ師と歩む平和への祈り2016』ツアー。

2/16(火)の博多での前夜祭を皮切りに、17日は広島、18日は大阪、そして19日金沢、20日八戸、21日東京(黒帯限定)、22日名古屋、23日沖縄と続きます。

各会場レポートは、わもん名人初段のくろちゃんの投稿をご覧ください。

ひとりの志が世界を変える〜リンポチェ師と歩む平和への祈り〜初日(前夜祭)スタート
ひとりの志が世界を変える〜リンポチェ師と歩む平和への祈り〜二日目(広島会場)

博多の前夜祭と、本日(2/18)の大阪に参加し、その中で私が最も気になっている言葉がリンポチェ師のいう『宇宙の音』という言葉です。

リンポチェ師は英語で『sound of universe』と表現していました。

宇宙はひとつの音とともに生まれ、その音は今も鳴っているし、私たちの中にもある音でもあり、出すこともできる。

その音が、マントラの最初の音としてよく使われる「オーム(Om)」という音である。

このような内容だったと思います。

言葉に興味がある私は、「sound of universe」という言葉を聞いたとき、「universe」の「uni-」は「ひとつ」という意味だなと思っておりました。

ユニフォーム(uniform)やユニコーン(unicorn)などの「uni-」です。

unify(統合する)や United States(合衆国)などにも関連しています。

とすると、「universe」の「-verse」とは何か?

たしか「韻文」のことを「verse」といったような…、とリンポチェ師の話を聞きながら考えておりました。

(このあたりは修行不足のところがあります…)

韻文とは詩の形式の文章。

詩には音があり、リズムがあります。

「universe」とは「ひとつの韻文」「ひとつの詩」。

『宇宙の音』は単一の音ではなく、ひとつの曲ではないか。

こんな想像をしていました。

また、本日の話の中では、「あらゆる音」とも表現されていたと記憶しています。

光をプリズムで分解すると七色になりますが、透明な光の中にすべての色が含まれているとも考えることができます。

あらゆる音を集めて聞くと、それは透明な音で、それが「宇宙の音」ではないか。

だから「宇宙の音」はどこにでもあるけれど、気づかれていないのではないか。

こんな想像をしていました。

「宇宙の音」に出会うことができる『「ひとりの志が世界を変える」リンポチェ師と歩む平和への祈り2016』ツアー。

「宇宙の音」に毎日触れるやぶちゃんの変化も楽しみです。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉133−わもんフィロソフィー《わもん研究所所 長:サノトモ》

1420722311325.jpg

現場で通用する黒帯のあり方をやぶちゃんに学ぶ『Let’s わもん’s Way Program』(黒帯限定講座)。

その冒頭で「わもんフィロソフィー」の映像が流れます。

文章はさのとも、朗読はまきちゃん、映像編集はさとたかです。

何度か「あの文章はどうやって書いたの?」という質問を受けましたので、この場を借りて残しておきたいと思います。

やぶちゃんから依頼を受けたのは、昨年(2015年)の2月。

なぜ覚えているかというと、昨年、1ヵ月エブリディ(5月)、47都道府県エブリディ(7・8月)、100日連続エブリディ(9〜12月)を成し遂げたつよっさんの本『聞き合う社会』の出版記念講演会に参加したときに依頼を受けたからです。

「『わもんフィロソフィー』をつくってほしい」

「小学生にもわかるようなものを」

「『Let’s わもん’s Way Program』の冒頭に、音声といっしょに映画みたいにテロップで流れるようなイメージ」

やぶちゃんから依頼された内容はこれだけです。

ただ、そのときに浮かんだ文章があります。

それが「わもんフィロソフィー」の最初の文「人は、死ぬ瞬間まで、輝き続けることができる。」というものです。

当時の黒帯心徒塾の中で頻繁に話されていた内容でもあり、この文章だけはどこかに入れたいと思いました。

その他、「わもん」と聞いて連想すること、たとえば「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」や「心ある一人」、あるいは「話す」「聞く」ということなど、それらを取り入れた文章にしようと作りました。

朗読することもありましたので、一文を短く、そして読むときのリズムを考慮しながら書き進めたため、詩的な文章となりました。

小学生にわかるかどうか、というところは微妙なところがありますが、朗読と映像が加わったものを見たところ、我ながらいいことを書いているなと思います(^^)

この「わもんフィロソフィー」を、わもん書家つっちーが書にしたためてくれました。

来たる1月23日に、Facebook上で頻繁に見ることができると思います。

こちらも楽しみです(^^)

ちなみに「フィロソフィー(philosophy)」の意味は「哲学」ですが、「知(-sophy)を愛する(philo-)」というのが原義です。

愛知県ともご縁がありそうです(^^)

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉132−クロマニアン《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

シャーロック・ホームズのファンのことを「シャーロッキアン」といいます。

やぶちゃんのファンのことを「ヤブロキアン」といいます。

そして、

「くろちゃんのファンのことを『クロマニアン』と呼ぼう!!」

こんな現象が起きています。

ちなみに、やぶちゃんはシャーロキアンで、くろちゃんはヤブロキアンです。

さて、シャーロキアンは英語で書くと「Sherlockian」で、シャーロック・ホームズの「シャーロック(Sherlock)」に、接尾辞の「-ian」を付けて構成されています。

「-ian」は、「ミュージシャン(musician)」や「マジシャン(magician)」などに使われています。

とすると、「ヤブロキアン」は「ヤブロック(Yaburok)」に「-ian」を付けた言葉、「クロマニアン」は「クロマン(Kuroman)」に「-ian」を付けたものとなるはず!!

ですが、実際は違います(^-^;)

英語と日本語では異なる法則が用いられているようです。

いや、英語と日本語での違いではなく、個人に帰する違いなのかもしれません。

「ヤブロキアン」の名付け親は、くろちゃん。

「クロマニアン」の名付け親は、くろちゃんをこよなく愛する方々。

既存の枠に捉われない方々ですので、英語の法則にも捉われない。

枠に捉われない生き方をされている方々が「クロマニアン」なのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉131−信じる力は翼になる《わもん研究所所長 :サノトモ》

image1_4.jpg

2015年10月2日、わもんマスタートレーナーまきちゃんの本が出版されました。

タイトルは『信じる力は翼になる』。

まきちゃんがこれまでの人生経験から学んだこと・気づいたことについて書かれています。

まきちゃんにお会いしたことがある方ならわかると思いますが、「日常をテーマパークに」という言葉どおりに、まきちゃんはいつも笑顔で楽しそうな雰囲気を漂わせています。

この本に書かれているような波乱万丈の人生を歩んできたようには見えません。

“ディズニーで働く中で、多くの体験を通じて人の輝きと可能性を信じきる力を育てていただいた。
そして、”わもん”では人を信じきる力の真価、誰もが持っている無限の可能性をみせてもらっている。

この出逢いで、紆余曲折、波乱万丈だった私の人生の体験すべてが意味のあるものになった。”

「信じる力は翼になる」という表現を借りていうなれば、辛く苦しいことや困難なことを乗り越えたというよりは、「(翼でもって)飛び越えた」といった方がいいかもしれません。

この本の中に、「信じる力の深さとパワーを身を持って体験できた」として書かれているエピソードがあります。

2度目のガンになり、その治療方法の選択で「命の決断」をしたときの話です。

“私が2度目のガンになった時、治療方針、術式もいろいろある中、ほんとにこれでいいのかな? 迷い悩んだあげく、これでいこうと命の決断をしたとき、やぶちゃんに「ええやん!!」って言ってもらえてほんとに勇気をもらった。”

“信じてもらえることで、自分を信じることができた。本当の自分と繋がることができたのだ。治療方法の選択は命が懸かっている重い決断だったから、たった一人、私の決めたことに「ええやん!」と言ってくれて、深いところで信じてくれる人がいることで、どれほど心強かったことか!生きる勇気が溢れてきた。”

“命の決断に対して「ええやん!」って言ってもらったことで生きる勇気をもらえて、心が軽くなった。”

誰かに信じてもらうことが勇気となり、自分を信じる力が増していきます。

軽くなることで飛びやすくなります。

以下、結城浩さんの『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』からの引用です。

“「ねえ、母さん」
「なあに?」デザートメニューを熟読していた母が顔を上げた。
「僕は――何やってんだろうね」
「美しい母と食事」
「なんだか――崖から落ちていく気分だ。何も準備ができていないのに……あとひと月で高三。あと一年で受験。毎日が過ぎて、崖が近づいてきて――地面がなくなる。どうやって歩けばいいんだろう」
「空を飛べば?」と母が言った。「地面がないなら、空を飛べばいいのよ」
「え?」
「二枚の翼をぱたぱた動かせば、飛べる。信じられないかもしれないけど、あなたは飛べる。左と右、一対の翼があれば十分よ。崖があるのは飛ぶために決まってるじゃない――あなた、何が怖いの?」”

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉130―五段〜七段60人プロジェクト《わもん研究所所長 :サノトモ》

1420722311325.jpg

現在、わもん界を中心としたさまざまなプロジェクトが走っています。

その中のひとつに「五段〜七段60人プロジェクト」というものがあります。

これは、「今年(2015年)12月23日までに黒帯五段〜七段の人数を60人以上にしよう」というプロジェクトです。

9月8日現在、五段〜七段の人数は31人、そして四段の人数は47人。

年内に名人を目指している方(少なくとも3人)はいますので、単純に考えると、47人の四段の方のうち32人が五段になればいいということになります。

もちろん、現在三段の方や、まだ見ぬ方が年内に五段となってもOKです。

しかし、先ほど「単純に考えると」と書いたのは、このプロジェクトが発足した事情があるためです。

なぜ、五段〜七段の人数を60人以上にしようとしているのか?

それは、「推薦人問題」を解決したいと考えているためです。

ここでは詳細は省きますが、「推薦人問題」というのは、三段認定に必要な推薦人が限られてしまうという問題です。

三段認定前には、少なくとも五段〜七段の方5人の方の推薦が必要です。

特に北海道や東北、九州など、黒帯さんの人数が多いにもかかわらず五段〜七段の人数が5人に満たない地域では、推薦人を選ぼうとしてもなかなか選ぶことができない、という状況があります。

その推薦人問題を解消する目安として、「今年中に五段〜七段の人数を60人以上にしたい」という思いがあります。

そして、三段の人数を増やしたいということのさらに先には、聞く力を持った人を増やしたい、日本の聞く力を深めたい、という思いがあります。

未来から現在を見て、「2015年12月23日までに五段〜七段の人数を60人以上にする」という目標があります。

目標設定では、期限を設けることが重要になります。

いつまでにどうするか。

また、「2015年12月23日までに五段〜七段の人数を60人以上にする」というのは、プロジェクトチームでの目標です。

では、自分はどうするのか。

他人事から自分事へ。

すべては自分へのメッセージとして。

あの手この手、千手観音手。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉129−心聞士塾《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_5.jpg

前回の「わもんな言葉128−できる」のなかでお伝えした「心聞士塾」が先日開講され、1日目・2日目が終了いたしました。

心聞士塾は、心聞士を育成していく塾ですが、心聞士塾を受講しただけでは、心聞士にはなれません。

心聞士になるためには、現在、2つの条件があります。

ひとつは、心聞士塾を受講し認定されること、そしてもうひとつは、わもんの名人になることです。

あり方が深まった上でやり方が活きるということを形にしたような条件です。

「孫子の兵法」と言われる兵法書、『孫子』のなかの有名な語句に以下のものがあります。

“彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。”

岩波文庫版『孫子』の訳を引用すると、「敵情を知って身方の事情も知っておれば、百たび戦っても危険がない」という意味です。

実は、これには続きがあります。

“彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。
彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。
彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。”

このように書かれると、私の場合は、「彼れを知りて己れを知らざれば、どうだろう?」と考えてしまいますが、それはさておき。

心聞士塾では、やり方として「わもん至法」を学んでいきます。

そして、「わもん至法」の基本的な考え方のひとつとして、「必ず目的を果たす」というものがあります。

「わもん」は、「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」ですので、いわば「己れを知る」に近いと感じます。

そして、「わもん至法」では「事実集積」なども扱い、敵ではありませんが、いわば「彼れを知る」に近いと感じています。

とすると、「わもん」であり方を深めた名人が「わもん至法」でやり方を身に付けることは、「彼れを知りて己れを知る」ことではないか。

さて、今回の心聞士塾の1・2日目は、私が講師として板の上に立ちました。

参加者の方に満足いただけたようですので、自分自身に○(まる)をつけましたが、同時に、まだできたことはあったという伸び代も見つかりました。

一番勉強させていただいたのは私のような気がします。

まだまだ自分のことをわかっていないようです。

さて、自分のことをわかっていないのに、「わもん至法」の解説をするというのは、「彼れを知りて己れを知らざれば」にあたりそうなのですが、どうだろう?

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉128−できる《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_4.jpg

いよいよ、この7月から「心聞士塾」が開講します。

わもんな言葉でも取り上げたことのある「心聞士」。

僭越ながら、私も心聞士塾の講師の一人として、「わもん至法」の解説に携わっています。

プレッシャーもなくはないですが、それよりも楽しみの方が勝っています。

海のものとも、山のものともわからない「心聞士」。

そのような「心聞士」を育成していく仕組みである「心聞士塾」。

この「心聞士塾」の内容もまだ明確にはわかっておりません。

それでも楽しいと思えるのは、おそらく、まだわからない「心聞士」や「心聞士塾」が具体的になっていくその過程を間近でみることができるからではないかと思います。

「心聞士」というひとつのアイデア(ミジンコと呼んだ方がいいかも)からはじまって、具現化していく。

見えなかったものが見えるようになってくる。

形のないものが形になっていく。

そのプロセスに関わり、ともに作り上げていくことに楽しみを感じます。

「できる」とは「出で来る」。

「作品ができた」など、何かが出来上がるときにも使います。

イメージとしては、浮かび上がる、出来上がるというように、上へ向かう方向性です。

深く沈んでいたものが浮かび上がり、見えるようになる感覚です。

一方で、「できる」とは、可能も意味します。

誰にでも可能性はあります。

その可能性が具体的になったとき、「できる」と思えるのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉127−響き《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

内田樹さんの講演録である「最終講義」(『最終講義 生き延びるための七講』所収、文春文庫)の中で、声の響きについて言及されていた箇所がありました。

“アイデアの尻尾をつかまえたときに、それをたどっていけるかどうかは知的なイノベーションにおいて死活的に重要なことですが、それにはその場が声の響きがよいかどうかが深くかかわっています。”

内田さんが勤められていた神戸女学院大学の建物でもあるヴォーリズの建築の特徴として「声の通りが良い」ということを挙げ、「声が気持ちよく響くという音声環境は学校教育にとっては大切な条件」である、と言っています。

「音声の悪い教室とよい教室ではそこで営まれる知的営みの質に決定的な差が出てくる」、つまり、声が気持ちよく響く音声環境では、アイデアの尻尾をつかまえたときに、それをたどっていきやすいということです。

“何か思いついて、それを口にすると、その言葉につられるように次々とあとの言葉が紡がれてくる。センテンスを言い終わる前に、次のセンテンスがうまく繋がる。それは自分の発している言葉の持つ音楽性というか、物質性というか、そういうかすかな手がかりがとらえられるからできることなんです。”

ここでは、学ぶ個人と、学ぶ環境ということで語られていますが、「話し手」と「聞き手」としてとらえなおすこともできるのではないかと思います。

聞き手は、話し手の話す場、環境をつくります。

話し手が何でも話せるような安心空間をつくることもできます。

逆に、聞き手次第で、話しにくい雰囲気がつくられてしまうこともあります。

聞き手は、話し手にとっての環境となりえます。

話し手が話すときの音声環境によって、そこで営まれる知的営みの質に決定的な差がでてくるならば、環境としての聞き手の役割は重要になります。

話し手の声がいかに気持ちよく響くような環境をつくることができるか。

聞き手がつくる環境が、話し手の知的な営みに影響します。

話し手の気づきや知的イノベーションを促すことができます。

そのためにも、まずは自分自身の響きに意識を向けるといいかもしれません。

どんなときに声が気持ちよく響くのか。

どんなところで不快な響きが出てくるのか。

そうすることで、周りの響きにも意識が向くと思います。

響きを感じるところからはじめませんか?

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉126−観察《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_2.jpg

“You see, but you do not observe. The distinction is clear. For example, you have frequently seen the steps which lead up from the hall to this room.”

“Frequently.”

“How often?”

“Well, some hundreds of times.”

“Then how many are there?”

“How many? I don’t know.”

“Quite so! You have not observed. And yet you have seen. That is just my point. Now, I know that there are seventeen steps, because I have both seen and observed. By the way, …”

冒頭から英語で驚いた方もいらっしゃるかもしれません。

上記の引用は、シャーロック・ホームズ「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』所収)からの一節です。

ホームズファンならばたいていは知っている有名な箇所です。

ホームズは、「きみ(ワトソン)は見ているが、観察はしていない。(You see, but you do not observe. )」と言って、階段を例に出します。

ワトソンも何百回と見ている、ホームズの部屋へとあがる階段です。

「じゃ、何段ある?」

ホームズからの質問にワトソンは答えられませんでした。

ここでは階段の段数について述べられていますが、何も階段の段数を数えることが観察というわけではありません。

「見る」と「観察する(観る)」の違いは、その対象の特徴を表現できるかどうかということもあるのではないかと私は思っています。

ホームズは段数を言い表すことで表現しました。

絵を書いたり、階段の模型をつくったりして表現することもできるでしょう。

対象を頭の中に写し取っているとも言えます。

「わもん」では、人の話を聞く際、言葉ではなく「音」に意識を向けます。

見るわけではありませんが、音を観察します。

音が観察できているかどうかは、その音を表現することができるかどうか。

実際にその音声や声色を出すという表現もあれば、言葉で説明したり、音階で説明したり、表現方法は様々です。

できるだけ忠実に表現するならば、その人の言葉や声の強弱、音圧、音調等と、同じ声を出すことになります。

ものまねや似顔絵など、似ていると思うものは、全く同じではないけれど特徴をよく捉えています。

特徴を捉えるためには、観察が必要です。

観察をすることで、特徴あるいは本質が浮かび上がってきます。

まずは観察、そして洞察。

さて、この「わもんな言葉」は何回目でしょうか?

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉125−決める《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

ふと思いました。

「決める」という漢字「決」は、なぜサンズイなのだろう、と。

サンズイの漢字は、たいてい水と関係しています。

「決める」と「水」の関係は?

漢和辞典を引いてみると、「決」の右側の部分「夬(カイ)」は、「手の指一本をコ型に曲げ、物に引っ掛けるさま。また、コ型にえぐるさま。」を表したもので、サンズイを伴うことで、「決」は「水によって堤防がコ型にえぐられること」を意味するようです。

「ずばり切る」「がっぽりと切る」ことから、決定の意味に転じたと書いてありました。

堤防がえぐられると、水はその方向に勢いよく流れていきます。

「決める」ことで、エネルギーがその方向に流れていきます。

何かを決めると、やり方を探しはじめ、行動にうつります。

人は、多かれ少なかれ、様々なことを決めて生きています。

小さなこともあれば、大きなこともあります。

あるいは嫌々「はい」と返事をしてしまうこともあるかもしれません。

嫌々「はい」と返事してしまったことは、周りが決めたこととも言えます。

周りが決めて、流されてしまった状態です。

自分の生き方をしたいと思うならば、自分で決めて、流れをつくっていきましょう。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉124−ルンバ《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

「ルンバ?」

先日、今後の黒帯心徒塾の予定を確認しようと「やぶちゃん暦」を見ていたところ、目に入ってきました。

それまでは、ガチ壁心徒塾が予定されていた日時のイベントタイトルが、「ガチ壁心徒塾」から「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」に変更されていたためです。

最近の黒帯心徒塾に参加していればイベントタイトル変更の話を聞くことがあったのかもしれませんが、私が前回参加した黒帯心徒塾では出てきていなかった話。

「『ルンバよ、さらば!!』とはどのような意味合いなのだろう?」

言葉に魅かれる私としては、考えずにはおれません。

「おそらくは、何かを『ルンバ』に例えているのだろうな」と。

かといって、考えたところで答えがでるはずもなく、保留しました。

そして本日、「扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」のイベントページができていました。

実際どういった意味合いで名付けられたのかは聞いていませんが、イベントページに書かれている内容から「ルンバ」の意味合いを想像してみます。

まずはイベントページを確認。

扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」の講座内容の欄に、以下の内容が書かれていました。

“これまでの自分の思考、行動パターンを乗り物や機械に例え、
その思考行動パターン故の悩み(ルンバ(自動掃除機))に別れを告げて
新しい乗り物、機械に買い替えるというプログラム。
やぶちゃんがしている、判断決断の早さはどこからくるのか?
やぶちゃんから学ぶ運気があがるメソッドです。”

「その思考行動パターン故の悩み(ルンバ(自動掃除機))に別れを告げて」ということから、「ルンバ」は「思考行動パターン故の悩み」を指しています。

さすがにこれだけでは、つまらないですので、さらに深読みしていきます。

「ルンバ(Roomba)」は、アイロボット社が製造しているロボット掃除機です。

スイッチを入れるだけで自動的に部屋中を動きまわり掃除をしてくれます。

実際にルンバの動きを見たことはありませんが、単純に考えると次のような動きをするものと思われます。

・真っ直ぐ進む。
・障害物や段差があれば方向を変える。

(ホームページを見ると、スピードを変えたり、ゴミセンサーがついていたりとありますが、詳細は省きます。)

悩みも同じようなものなのかもしれません。

あっちに進もうとしては障害物があって方向を変え、こっちに進もうとしては壁があり…。

部屋の中であっちへ行き、こっちへ行き、しているような状態が「悩み」です。

部屋から出れば悩みは解決できるのかもしれませんが、「これまでの自分の思考、行動パターン」では、部屋を出ることができません。

そこで、扉を開いてあげます。

すると、その開いた扉から、ルンバの行動パターンであっても、部屋の外に出ることができます。

部屋の外に出たルンバはどうなるでしょう?

同じ行動パターンで掃除をし続けます。

ルンバは乗り物ではありませんが、ルンバに乗っているとしましょう。

「悩み」とは、部屋の中をぐるぐると動きまわっている状態です。

扉が開いて部屋の外に出たとしても、同じ思考行動パターンだと同じことの繰り返しです。

誰かに扉を開けてもらわないとさらに外へはいけません。

さらに外へ行くには、ルンバに別れを告げて、違う乗り物に乗り換えたくなるかと思います。

あくまでも、ルンバは掃除機で、乗り物ではありません。

掃除をするために効率のいい思考行動パターンを持っています。

「思考行動パターン故の悩み」というのは、どこかに出かけていきたいのに、掃除をするための行動パターンをし続けているために部屋から出ることができない状態ということもできます。

天命への道を進んでいきたいならば、ルンバのような思考行動パターンではなく、別の思考行動をとっていこう。

扉が開くとあなたは動く〜ルンバよ、さらば!! 天命への道〜」とは、そのような講座なのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉123−なんか星《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_2.jpg

先日の京都での黒帯心徒塾(2日目)のこと。

午前中、自己紹介前の「わもんトピックス」では、主に2つの話題がありました。

ひとつは、今回のブログのタイトルにしている「なんか星」について。

もうひとつは、「つよっさんの聞き合うライブ」について、です。

わもんを知りたい、学びたいと集まってくる人は、よく次のようなことを言います。

「なんかわからんけど、参加してみた。」

「なんかありそうだと思い、1度参加しようと思った。」

「なんか魅かれるものがある。」

「なんか……。」

「なんか」という言葉を使うことが多いのです。

なので、もういっその事、このような人たちは「なんか星」から来た「なんか星人」としよう、という話。

そして、つよっさんのライブについての話に移ります。

5月中の31日間連続エブリディ聞き合うライブを終え、次は7月より47都道府県エブリディ、そして9月からは100日連続エブリディのライブを予定しているつよっさん。

この場で100日連続エブリディライブをすべて、東北の会場で開催することを決めました!

そして、その応援団長として、つよっさんの盟友まっちゃんが指名されました!

「同じこと(つよっさんの100日連続ライブ)はできんけど、できることをしていく!」と。

続く自己紹介の内容は、「なんか星」と「つよっさんの思い」を聞いた感想が並びます。

「自分にもなんかできることがある」など。

それを聞きながら、私も思いました。

「自分にも何かできることがあるだろう」と。

さて、何ができるだろうかと考えながら、他の人の自己紹介を聞いていると(注:わもんでは、自己紹介中も「聞く」修行です。このときは自己紹介に集中せず違うことを考えていました。反省。)、「なんか星」という言葉がときどき聞こえてきます。

何ができるだろうか、と考えながら聞いていたせいか、「なんか星」と聞こえる度に、次のように言われている気がしました。

「なんかせい!」

「お前にも何かできることがあるだろう! 何かしろよ!」と。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉122−アジト《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

なぜか「アジト」と呼ばれることが多い「わもんシェアハウス」。

以前までは名人くろちゃんとさのともの2人で住んでいましたが、先月より住人が増え、4人になりました。

決して悪巧みをしているわけではありません(^-^;)

あまり知られていないかもしれませんが、くろちゃんとさのともの2人で「わもんの話」という音声を You Tube にてお届けしております。

住人が増えてからの様子はそちらをお聞きください。

わもんの話第十回「わもんシェアハウス」
(名人くろちゃんのブログへリンクしています。)

さて、なぜ「アジト」と呼ばれるのか?

「アジト」と聞くと、私(さのとも)は何となく秘密結社のようなイメージを持ってしまうのですが、語源を確認したことがなかったので、調べてみました。

手元の国語辞典では、ロシア語のагитпункт(agitpunkt、アギトプンクト)を由来として「(左翼運動者などの)秘密本部」という意味(^-^;)

その他、Web上で検索すると、英語 agitating point(アジテーティング・ポイント)の略という由来もありました。

Wikipedia には「労働運動、地下組織の宣伝司令部」と(^-^;)

ここまででは秘密結社のイメージが拭い去れませんので、もう一歩踏み込んで(というよりは、イメージをよくするために)「agitating point」に目を向けてみます。

agitate(アジテイト)というのは、単純に思いつく訳語は「扇動する」です。

しかし、あらためて辞書を引くと、「激しく揺り動かす」という意味がありました。

ラテン語 agitare「激しく揺り動かす」というのが語源で、そこから「扇動する」という意味が派生したようです。

ならば、「アジト」とは「agitating point」、激しく揺り動かす起点となるところとも言うことができるかもしれません。

名人くろちゃんの会社は「日本の聞く力を深める 株式会社聞く力。」

そして、わもんでは今年2015年、「社会に現象を起こす」年としています。

このような活動の起点としての「アジト」としましょう!

決して、悪巧みをしているわけではありません(^-^;)

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉121−最終責任者シップ《わもん研究所所長 :サノトモ》

1420722311325_4.jpg

ツネちゃんが名付けた「最終責任者シップ」。

あらゆる現場で、自分が最終責任者であるという意識のあり方をいいます。

「シップ」というのは、「フレンドシップ(friendship、友情)」や「リーダーシップ(leadership)」などと同じ「シップ(-ship)」で、「シェイプ(shape、形)」と関係があり、状態や性質、能力や技量などを指し示します。

さて、今年の9月にイギリス・ロンドンで予定されているツネちゃんのスピーチでは、「最終責任者シップ」はどのように英訳されるでしょうか?

「最終責任者シップ」の英訳は未定ですが、思いついた英単語は「responsibility(責任)」でした。

「responsibility」という単語は、「responsible」という形容詞の単語に「-ity」という接尾辞を付けて名詞化した単語です。

そして、「responsible」という単語は、「response」という名詞に、「-ible」という接尾辞を付けています。

「response」は、日本語でいうと「返答」や「反応」という意味があり、「応答が早い」「反応が早い」というときに「レスポンスが早い」などと使うこともできます。

「response(レスポンス)」に接尾辞「-ible」を付けて「responsible」。

接尾辞「-ible」は、「できる」という意味のある英単語「able」から来ています。

「be able to 〜(〜できる)」というフレーズを聞いたことがある方は多いでしょう。

「responsible」というのは、日本語でいうと「責任がある」という意味ですが、「応答できる」「反応できる」という意味が含まれます。

つまり、「responsibility(責任)」というのは、「応答できる能力」「反応できる能力」のことです。

余談ですが、「able(できる)」+「-ity(名詞をつくる接尾辞)」で、「ability(アビリティ、能力)」です。

「最終責任者シップ」を考えたとき、最後の最後に反応できる状態、あり方を指すともいえると思います。

自分が、この場の状況に対して、最終の責任者として、油断せず覚悟を持って臨むあり方。

何が起ころうとも、指をくわえて見ているだけではなく、いつでも反応・対応できる状態を保っておくこと。

それが「最終責任者シップ」ではないかと考えています。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉120−種と仕掛け《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

先日、わもん創始者やぶちゃんと、元ディズニーマスタートレーナーまきちゃんによるコラボセミナー「やぶまきミジンココラボ『種と仕掛け』〜究極の承認力と信じる力を徹底解明〜」が開催されました。

参加は・・・、

しておりませんm(__)m

その代わりといっては何ですが、ヤブログ放送室『種と仕掛け』をお聞きください。

ここでも様々な「種」、言葉を変えると「ハト(マイクロバト)」を飛ばしています。

わかる人にはわかる、わからない人にはわからない「種」です。

「種」もしくは「ハト(マイクロバト)」について私自身の例でいうと、以前に「わもんな言葉27−ハト」という記事を書いています。

この記事に関連する「源泉わもん」も、まきちゃんとやぶちゃんによるコラボセミナーです。

何だか妙な符号ですね(^-^;)

そもそも「セミナー(seminar)」の語源は「苗床」です。

「セミ(semi-)」は「種」を意味します。

田植えでは、田んぼに種を蒔くのではなく、苗を植えます。

苗を育てたものが「苗床」です。

種から苗を育てて「苗床」をつくり、田植えではその苗を植えていきます。

稲作では苗を植えることが主流かと思いますが、畑では、苗を植えた方が育てやすいもの、あるいは直接種を蒔いた方が育てやすいもの、様々あると思います。

誰かに「種」を飛ばすときも、「種」のまま蒔いた方がいいのか、それとも「苗」として植えた方がいいのか、いろいろありそうです。

そして、その種を蒔く、あるいは苗を植える土地を耕すことを「場づくり」というのです。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉119−わもん至法《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_2.jpg

縁あって、「わもん至法」の作成にかかわらせていただいております。

「わもん至法」とは、「わもん」があり方として、その「わもん」をベースにしたやり方のことを指します。

もともとは「わもん兵法」と呼んでいたのですが、「兵法」と聞くと「戦略」や「戦術」を思い起こし、「戦い」をイメージすることから、別の名前をつけようということで「わもん至法」となりました。

「至宝(最高の宝)」にもつながりますね。

ナカジさんが「至法」の「至」という漢字の成り立ちを調べたところ、もともと「至」という漢字は、矢が目標地点に飛んでいき、刺さった様子から作られた漢字だということです。

私の手元にある漢和辞典にも、「『矢が下方に進むさま+一印(目指す線)』で、矢が目標線まで届くさまを示す」とありました。

ついでといっては何ですが、「至法」の「法」という漢字も調べてみたく思い、同じく漢和辞典で引いてみたところ、漢字の「法」の成り立ちが以下のように記されていました。

“「水+・(タイ。シカと馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)で、池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま。珍獣はその枠の中では自由だが、その枠外には出られない。広くそのような、生活にはめられた枠をいう。”

「枠」というと少しネガティブなイメージもありますが、「法」には「模範」「手本」というような意味もあります。

「わもん至法」の「至」や「法」の漢字の成り立ちを調べていくうちに、私の中にひとつのイメージが湧き上がってきました。

矢が水中を深く深く進んでいくイメージです。

矢が下方向に、水底に向かって、水を切り裂きながら進んでいきます。

水が去っていくような勢いで。

そして、矢が目標線に届くと、そこには、「珍獣」がいる(笑)

それは、深海魚なのか、ミジンコなのか。

「わもん至法」とは、ミジンコ(直感)を捉える方法なのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉118−あの手・この手・千手観音手《わもん研 究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

以前、沢庵禅師の『不動智神妙録』からの引用を使って「わもんな言葉」を書いたことがありました。

「わもんな言葉8−わもん聴覚」です。

実は、その引用部分の前後には、千手観音について書かれています。

「わもん聴覚」での引用部分も含めると、以下の文章です(池田諭さんの訳です)。

“千手観音だとて、手が千本おありになりますが、もし、弓を持っている一つの手に心がとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役にはたちますまい。一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つのです。
いかに観音とはいえ、どうして一つの身体に千本もの手を持っておられるかといえば、不動智を身につけることができれば、たとえ身体に千本の手があったとしても、立派に使いこなせるのだということを人々に示すために作られた姿なのです。
たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
このことを悟った人は、つまり千手千眼の観音と同じです。”

一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つ。

一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見える。

さて、「あの手・この手・千手観音手」。

ありとあらゆる手を打つことを意味します。

そのうちの一つの手に心をとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役には立たないのかもしれません。

たとえば、何かしら一生懸命、ありとあらゆる手を打って出した結果があるとします。

のちのち、その結果が出たときは、この手が一番有効だった、と振り返ります。

次に同じような結果を出したいときに、一番有効だった手しか打たなかったらどうでしょうか。

おそらく同じような結果はでないのではないかと思います。

振り返りは大切ですが、一つの手にとらわれてしまうと、残りの手が役に立ちません。

「あの手・この手・千手観音手」を、いつでも・どこでも・誰にでも。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉117−自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養 法《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_5.jpg

「わもん」を漢字で書くと「話聞」となります。

「話す」と「聞く」で「わもん」です。

先日、視点が違うということが話題になり、そこで思いました。

人であれ、動物であれ、物理的にはまったく同じ視点(目の位置)から何かを見ることはできません。

隣どうしで座って同じ方向を見ていたとしても、まったく同じところには座っておらず、若干違う視点から見ています。

右眼と左眼が見ていることも、わずかではあるかもしれませんが、まったく同じではありません。

しかし、だからこそ、奥行きがあり、立体的に見ることができます。

物理的にはまったく同じ視点から何かを見ることはできませんが、見ようとすることはできるかもしれません。

そして、それは「わもん」にも通じることだと思いました。

視点の話でいうと、話し手の話を聞くことときには、話し手の視点で見ようとして聞きます。

話し手がどこを見ているか、聞き手の視点ではなく話し手の視点で話を聞きます。

話し手の視点で見ようと、自分の視点を離れることが「離我」することにつながります。

物理的には、話し手の目の前には聞き手がいます。

聞き手が話し手の視点で見ようとして、見ることができたならば、物理的な目の前には聞き手としての自分がいます。

聞き手は自分自身を見ることになります。

「自己わもん」の入り口です。

聞き手は、話し手の話を、話し手の視点で聞くことで、自分を見ることができます。

「わもん」は「聞く修行」として、聞き手という修行が中心です。

しかし、違う視点から見ると「話す修行」として捉えることもできます。

話をするときには、聞き手の視点から話をしようとすることで、自分に話をすることにもつながります。

話し手と聞き手は、合わせ鏡のようなものです。

「話すわもん」も「聞くわもん」もあります。

合わせ鏡を覗くと、際限なく続いているように見えます。

キリがないことと思われるかもしれません。

だからこそ最後は「信じる」ことになります。

「わもん」とは、「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」です。

ここには「話す」「聞く」という言葉は使われておりません。

際限なくキリがないかもしれませんが、その先には輝きがある、そしてそれを信じる力を養っていく。

「わもん」では、そのためのひとつの手段として「聞く修行」を提案しています。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉116−ミジンコの海《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_4.jpg

最近のやぶちゃんのお気に入りのひとつ、微塵子(ミジンコ)学。

ときどき、「ミジンコアニメーション」と称して、ミジンコが跳ぶ様子やミジンコをつかまえる場所などを説明しようとしています。

このブログを読まれている方は知っているかと思いますが、やぶちゃんは「直感」のことを「ミジンコ」と呼んでいます。

「ミジンコアニメーション」は、直感について説明しようとするひとつの試みです。

人間には、意識できるところと意識できないところがあります。

意識できるところは「顕在意識」、意識できないところは「無意識」。

無意識の中でどのようなことが行なわれているのかをわかりやすく説明しようとしているのが「ミジンコアニメーション」です。

「ミジンコアニメーション」について、詳しくは実際にやぶちゃんの説明を聞いてもらいたいですが、簡単に説明をすると、次のようなことです。

水面より上を顕在意識、水面下を無意識の領域として、水面下、海底あたりにミジンコ発生装置があります。

その発生装置はスキーのジャンプ台のようなもので、ミジンコがそのジャンプ台を勢いよく滑り降りて水面上に飛び出すようにジャンプします。

直感を捉えることが、ミジンコが水面上に跳ねたときにつかまえることに相当します。

ここでのミジンコは人の姿をしていて、ナンバ歩きで「行ってくるよ」と言ってジャンプ台に向かいます。

そして水面上に跳ね、たとえつかまえてもらえなかっても、懲りずにまたジャンプ台に向かいます。

このようなミジンコは「ミジンコの海」から来ているのではないか、といいます。

さて、話は少し変わって、先日くろちゃんよりおもしろい説を聞きました。

それは「やぶちゃん=ミジンコ」、やぶちゃんがミジンコではないか、という説です。

この説を「ミジンコアニメーション」にあてはめると、やぶちゃんは何度もジャンプ台から跳んでいます。

もしかすると、他のミジンコたちに「こうやって跳ぶんだよ」と見せ続けているのかもしれません。

つかまえてもらえなくても、あきらめません。

そうすると「ミジンコの海」はどこだろう?

現実、現場、身の周りが、「ミジンコの海」なのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉115−未定帳《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

「予定帳」ならぬ「未定帳」。

やぶちゃんは自分のスケジュール帳に、「予定」はもちろん、「未定」も記入しているということです。

「未定」を緑の消せるボールペンで記入して、「予定」になったら緑から黒に書き換えるそうです。

興味深いのは、緑で記入する「未定」のことが、直感にもとづいていることです。

昨年10月末、やぶちゃんはニューヨークの国連本部へ行くことができました。

その数年前から、年が変わりスケジュール帳が新しくなるごとに10月末に「ニューヨーク」と緑の文字で記入していたらしいです。

記入していた年にニューヨークに行けなかったら、「あれ、おかしいな」と。

そして次の年のスケジュール帳の10月末には、また緑の文字で「ニューヨーク」と。

2014年に実現しました。

自分のスケジュール帳を見ると、予定は書かれておりますが、ほとんどが自分ではない他の人のスケジュールです。

もちろん、自分が選択して決めた予定ではあるのですが、どこかで決まり定まったものを書いています。

自分自身との約束として書いてあるものはほとんどありません。

スケジュール帳は自分のためにあるもの。

自分自身との約束や、自分がやりたいことが多く書かれていたいものです。

「未定帳」とは、そのようなものなのかもしれません。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉114−微塵子(ミジンコ)学《わもん研究所所 長:サノトモ》

1420722311325_2.jpg

先日、「日本に生息するミジンコはたった4個体を起源とする北米からの帰化種だった」というニュースがありました。

東北大学大学院の研究チームが日本各地の湖沼でミジンコを採集しDNAの解析をした研究結果です。

ミジンコはたった4個体を起源とする北米からの帰化種だった ―日本に生息する生物の意外な由来―
【研究概要】
 東北大学大学院生命科学研究科の占部城太郎教授の研究チームは、理科の教科書にも掲載されている和名ミジンコ(Daphnia pulex:写真)が、有性生殖能力を失い雌だけで世代を維持していること、遺伝的多様性が極めて乏しくたった4タイプの遺伝子型(クローン個体)しか分布していないこと、それらすべてが別のミジンコ種との雑種であること、在来種ではなく北米から侵入した外来種であることを明らかにしました。また詳細な遺伝解析から、日本への侵入時期が数百〜数千年前に遡ることがわかりました。外来種の侵入定着は殆どの場合近年の人間活動によるものですが、数百年前の侵入は人間活動では説明出来ません。人の往来が盛んになる前にたった数個体がどうやって北米からやって来たのか、また、遺伝的な多様性がきわめて低いにもかかわらずなぜ長期間にわたって日本で個体群を維持しているのかなど、進化生態学の多くの謎を投げかけています。
本研究成果は、2015年3月30日付けで、陸水・海洋学の国際雑誌Limnology and Oceanography 電子版に掲載されました。

掲載誌や論文については確認しておりません。

プレスリリースの内容を確認したところ、北米からの帰化種だったということよりも、別の箇所に目がいきました。

それは、【研究の意義と展望】の3番目の項目にある「もし、新たな移入個体がなければ、ミジンコはやがて日本から消えてしまうことになるでしょう。」というものです。

詳細は省きますが、現在、日本に生息しているミジンコは絶対単為生殖型(有性生殖をおこなわず産卵し子を産む)で、絶対単為生殖型の生物は交尾による遺伝子組み換えがないため、有害な突然変異が蓄積したり病気になりやすいそうです。

そして、千年程度で集団の寿命が尽きるという理論計算があり、日本への侵入時期が700年〜3000年前だとすると、そろそろ寿命の時期ではないか、ということです。

種の多様性は、種として長く存続していくための仕組みとも言えます。

会社や組織の存続、そして人間という種の存続としても、多様性の仕組みを学び、取り入れることができると思います。

一個人としても、新しい考え方や自分の想定外なことに出くわすことで成長する可能性があります。

本物のミジンコ(という言い方もおかしな話ですが)からも学べることはたくさんあることを学びました。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉113−布石徹底《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

「未来に対して布石を打つ」

先日、ようやくわもん黒帯五段の認定を受けましたが、その前日の夜に浮かんできた言葉でした。

もちろん、未来に対して、今まで何もしていないわけではありません。

しかし、どちらかというと、過去に起こったことに対して何か手を打ったりすることが多く、未来に対して手を打つときも「こうなることはほぼ確実だな」というときにしか手を打っていなかったように思います。

「先手を打つ」ことの大切さは、できているできていないはともかく、認識はしていました。

そして五チャレ(五段チャレンジの略)中も先手を打つことは意識していました。

しかし、私にとっては、「先手を打つ」よりも「未来に対して布石を打つ」という方がなんとなくしっくりきました。

あらためて「布石」という言葉を辞書で引いてみると、「?(碁で)対局のはじめのころにうつ、碁石のならべかた。?(将来にそなえての)用意・準備。」とあります。

「布石」の意味が「将来にそなえての用意・準備」という意味ならば、「未来に対して」という言葉は外して、単に「布石を打つ」でもいいですね。

黒帯五段の課題は「ガチ聞きの伴走」です。

ガチ聞きをしている聞き手の伴走をして、聞き手がさらに深まり、結果話し手に現象が起きれば認定です。

「ポジティブサイクルを回す」という言い方もします。

「先手を打つ」より「布石を打つ」の方がしっくりときた理由をあとあと考えてみると、おそらく「先手を打つ」と意識していたときは、闇雲に「先に、先に」と伴走していたのかもしれません。

しかし、「布石を打つ」と意識してからは、未来に対して、将来に対しての準備するという意識に変わったのではないか、と考えています。

そうなると、ガチ聞きの伴走に入る前に勝負が決まっているということもうなずけます。

「布石徹底」とは、徹底的に布石を打つこと。

私はまだまだ打てる手を打っていないときがあります。

エンドポイントを見据えた上で、しっかりと布石を打っていきたいと思います。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉112−そこっ!!《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_4.jpg

「『そこっ』ってなーに?」

小学生から質問があったそうです。

やぶりん!ミジンコカレンダー』のなかには、やぶりんが指をさして『そこっ』といっているイラストがあります。

ミジンコカレンダーの別の場所には『soko』と書かれているイラストも。

それを見て、冒頭の質問です。

そういえば、ガチ聞きライブのポスターにも「そこっ!!」と大きく書かれていますね。

すこし前のことになりますが、その質問がなぜか、私のところに回ってきました(^-^;)

小学生にわかるように説明するには、どのように説明すればいいか、と。

私は、「こそあど言葉」の説明といっしょにすればわかりやすいかもしれないと考えました。

こそあど言葉というのは、指示代名詞などの語をまとめた呼び方です。

たとえば「これ・それ・あれ・どれ」のように、語頭に「こ」「そ」「あ」「ど」が付いていて何かを指し示す働きがある語を「こそあど言葉」といいます。

「そこ」というのは、場所を指し示す代名詞のひとつで、場所を指し示すこそあど言葉は、「ここ・そこ・あそこ・どこ」と挙げることができます。

とりあえず、「『そこっ』ってなーに?」と質問をした小学生に、先生が回答するという設定で、少し芝居をしてみるといいかもしれないと提案しました。

まずは、先生が身近なものを探すふりをします。

先生:「あれ? チョークはどこ?」

生徒:「先生、そこにあるよ」

先生:「ああ、ここにあった」

会話のなかに、「どこ?」「そこ」「ここ」というこそあど言葉が入ればOKです。

生徒に「そこ」と言ってもらうのがベストです。

探しものをするときは、「どこ?」といいます。

おおまかにいうと、あるはずのものが見つからないときです。

自分が何を探しているのかわからないときは「どこ?」ではなく「どれ?」と聞きます。

「どこ?」というときは、探しているものはわかっているけれど、それがある場所がわからないときです。

ここでは探しているものはチョークで、そのチョークがどこにあるのかを聞いています。

生徒が「『そこ』にある」というとき、チョークは先生の近くにあります。

チョークは先生に近く、生徒からは少し遠くにあります。

先生からも生徒からも遠いところにあれば、「あそこ」といいます。

先生に近いところにあるので、先生は「『ここ』にあった」といいます。

「こそあど言葉」で、コ系(「これ」や「ここ」など)の語は近くのものを指し示します(近称)。

ソ系(「それ」や「そこ」など)の語はそう遠くないもの(中称)、ア系(「あれ」や「あそこ」など)の語は遠くのものを指し示します(遠称)。

ド系(「どれ」や「どこ」など)の語は疑問詞(不定称)ですね。

このような説明をしなくとも、生徒は意識せず「ここ」や「そこ」の使い方を知っています。

先生:
「やぶりん(やぶちゃん)は、話を聞いているときに、ときどき『そこっ!!』って言うんだ。話をしている人は、何かを探している。その人の抱えている悩みの解消方法だったり、自分の考えや思いだったり、その何かというのは人それぞれだけど、探しているものはわかっているけど、どこにあるのか気づいていないときがあるんだ。そんなときに『そこっ!!』って言う。探しているものは遠くにあるわけではなく、やぶりんが持っているわけでもなく、話をしている話し手さんのすぐ近くにあるよって言っているんだよ。悩みは自分で解決できる。答えは話し手の中にある。みんなの中にその人らしい輝きがある。ほら、気づいていないかもしれないけど、そこにあるんだよ。それを『そこっ!!』という一言で表しているんだよ」

??:「ザック、ザックやなぁ〜」

先生:「だれっ!?」

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉111−自我《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

ときどき「私」とはどこまでが「私」なのだろうということを考えます。

たとえば、爪を切ったとき。

切った爪はごみ箱行きとなりますが、その爪はもともと私の一部でした。

しかし、切った後は私ではないと感じます。

髪の毛も同じで、切り落とされた髪の毛はもう私ではないと感じます。

ちょっとグロテスクな表現ですが、腕を切り落としたらどうだろう、足を切り落としたらどうだろう、どこまで私でいられるのだろう、というようなことを想像したりします。

私と私以外の境界はどこにあるだろう、と。

逆のことも考えます。

話している言葉や音、行動やしぐさなどで性格などがわかります。

これらも私の一部になると思います。

ならば、ペンで紙に何か書いているとき、ペンは私の一部になるだろうか、紙はどうだろう。

食べ物ならば、口に入ってきたときは私ではないかもしれませんが、消化吸収されると私の一部になります。

それでも「私」というまとまりは感じることができます。

明確な境界線を引けないだけです。

もしくは、そのときそのときで境界線が違っているだけだと思います。

以下は本川達雄さんの『生物多様性』の中の一節です。

“本書で提案したいのは、空間の上でも時間の上でもまわりと切れてはおらず、次世代や環境という時間的空間的なまわりをも取り込んだ〈私〉観です。まわりとの境界がはっきりせず輪郭がぼやけているのですが、それだけ広い範囲を含むものです。粒子説と波動説という物理学での二つの立場にこじつけて言えば、粒子的ではなく波動的な〈私〉観。バイオリンの音色のように、音は弦の振動も胴の振動も、まわりの空気の振動も、それに部屋の振動も、聞き手の鼓膜や蝸牛中の基底膜の振動も、すべてが関係してつくられている、そんな感じのものが〈私〉なのだというのがイメージです。”

まだまとまってはいませんが、粒子的な〈私〉観が「自我」あるいは「浅我」と、波動的な〈私〉観が「深我」と関わっているような気がしています。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉110−全縁感謝《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_2.jpg

これまで様々な方々に出会ってきました。

様々な出来事も経験してきました。

出会いもあり、別れもあり、うれしい経験もあれば、悲しい経験もあります。

しかし、それらすべてのおかげで、今の自分があります。

すべてのご縁に感謝しています。

「全縁感謝」という言葉は、昨年(2014年)10月の「輝くあなたに逢うわもん会in伊勢」にて、本間先生より提案された言葉です。

文字通り、すべてのご縁に感謝という意味です。

昨年10月のことなのに、なぜこの時期にこの言葉をテーマに書いているかというと、つい先日、思い出したためです。

現在、私はわもん黒帯四段です。

黒帯心徒塾では、五段チャレンジとして修行をしています。

五段の課題は「ガチ聞きの伴走」で、ポジティブサイクルを回すことを身につけようとしています。

先日の黒帯心徒塾の中で、私の中から次のようなことが見つかりました。

「私がいてもいなくても、世の中はよくなっていく」

私は、世の中はよくなると思っています。

一時的にはつらく悲しいこともあるかもしれませんが、大局的に見ると世の中はよくなっていくと思っています。

それは、私がいてもいなくても同じことだ、と。

ポジティブサイクルについても同じことで、私がいてもいなくてもポジティブサイクルは回ると考えていたことに気づきました。

ポジティブサイクルが回ること、世の中がよくなっていくことが、私の中で「当たり前」になっていました。

「ありがとう」の反対は「当たり前」といいます。

「ありがとう」は「有り難し」から変化した言葉です。

ひょっとすると、これまで感謝していると思っていたことが、当たり前になっていなかったか。

そんなことを思っていると「全縁感謝」という言葉を思い出しました。

そしてさらに、全縁感謝の「全(すべて)」の中に、「私」が入っていなかったことに気づきます。

私がいてもいなくても世の中はよくなる……。

私がいてもいなくてもポジティブサイクルは回る……。

……私は、自分自身には感謝しているのだろうか、と。

私が経験してきたことは、すべて何かのご縁です。

そしてその経験してきたことは、今までの私が運んできてくれています。

昨日の自分が、今の自分をつくっています。

今まで、自分自身への絶対尊敬が難しいと考えていました。

ここに「因」があったようです。

この気づきを「縁」として、「果」に結びつけたいと思います。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉109−問答修行《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

2007年6月に「わもん」は誕生しました。

その誕生のきっかけとなったのが、チベットのセラ寺で行われていた「問答修行」の風景です。

「問答修行」というのは、文字通り、質問と回答を繰り返し行っていくことで、仏教についての理解を深めていく修行法のようです。

座っている答え手に、立っている問い手が問いを投げかけます。

その際に問い手は、手を打ち、足を踏み込んで問いを投げかけます。

その問いに対して、答え手が答えていきます。

河口慧海さんの『チベット旅行記』に、問答修行の問答の内容について書いたところがありましたので、それを参考にして例を挙げてみます。(口語風に書き換えています。)

問:「仏というものは人であるか?」
答:「そうだ」
問:「ならば、仏は生死から逃れられないだろう?」
答:「仏は生死を逃れている」
問:「いや、仏は生死から逃れられない。なぜなら仏は人であるからだ。人は生死を逃れられない。お前は仏は人だと言った」
答:「仏は人にして生死を逃れている。仏の生死は、仮に生死を示現しているだけだ」

このように問い手は、問い詰めるように質問をしていきます。

答え手はそれに答えていくことで仏教についての理解を深めていきます。

2015年2月、ザ・チョゼ・リンポチェ様とやぶちゃんとの「リンポチェ師と歩む平和への祈り」ツアーの中で、この問答修行の一端を見ることができました。

問い手がリンポチェ様、答え手がやぶちゃん。

手を打ち、足を踏み鳴らすことはありませんでしたが、リンポチェ様が問い、やぶちゃんが答えていきました。

その風景を見たとき、私は「質問が早い」という感想を持ちました。

やぶちゃんが答えるや否や、リンポチェ様の次の質問が出てきます。

もし私が問い手だったら、答えを聞いて、次の質問を考え、それから質問する、というようにテンポが遅くなってしまうと思います。

3日目の東京での際、私の隣にはわたふ名人二段が座っていて、「あれは、やぶちゃんの答えが先にわかっていないとできない」と言っていました。

やぶちゃんが答えを探す場面もありましたが、その探している間にも問いを投げかけます。

質問、問いを繰り返していくと、答えに行き詰るところがあります。

そこが思考の枠の端っこだと思っています。

その枠から一歩でも先に進める問いと答え。

ここが問答修行のはじまりです。

わもんではあまり質問は行ないませんが、この思考の枠を超えたところを聞きに行きます。

先日、台湾にて「リンポチェ師と歩む平和への祈り」が開催されました。

どのような問答があったのかは知りません。

しかし、きっとまた一段と深まっているだろうと思います。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉108−ポジティブサイクル《わもん研究所所長 :サノトモ》

1420722311325_4.jpg

ポジティブ(positive)というと、つい、ネガティブ(negative)と対比してしまいます。

ポジティブは「積極的な」、ネガティブは「消極的」という意味です。

そのため、「ポジティブサイクル」というと、何かしらの言動を積極的にすることで、その積極性が循環するという意味にとれます。

それは間違いではありませんが、ここではもう少し「ポジティブ(positive)」という語を深読みしていきたいと思います。

「ポジティブ(positive)」という単語は、「ポジション(position)」という単語と関係があります。

「ポジション(position)」は「位置」とか「立場」という意味です。

「姿勢」や「態度」という意味もあります。

「ポジティブ」も「ポジション」もともに「posit」という単語の派生形です。

「posit」には「置く、据える」という意味があります。

「ポーズ(pose)」とも関係があると思います。

では、「posit(置く)」から派生した「positive」に、なぜ「積極的な」というような意味があるのでしょう。

それは、「positive」という語の原義として「場所が確定した」という意味があるからです。

「positive」には、「立場がはっきりしている」そして立場がはっきりとしていることで「自信がある」という意味もあります。

はっきりと自信をもった態度は、積極性につながります。

わもんとは「自らの輝きを信じ切る力を養う自己修養法」。

自分を信じることが「自信」です。

自分を信じ切る力が他の人に伝わり、その人の自らを信じる力となる。

その連鎖が「ポジティブサイクル」のひとつの形だと思います。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉107−洞察力《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

あらためて少しずつ英語を勉強をしています。

今度、十数年ぶり(二十年ぶり?)にTOEICを受けてみようと思い、WEB上から申し込みをする際、TOEIC SQUAREというところで会員登録をしました。

ときどき英語の穴埋め問題の入ったメールが届いています。

数日前、以下の問題が掲載されていました。

以下の空欄に入る最も適切なものを選択肢(1)〜(3)の中から選んでください。
This article provides readers with an [ ・ ・ ・ ・ ・] into why men and women communicate differently.
(1) insight
(2) achievement
(3) influence

深く考えることもなく「たぶん(1)だろうな」と思い正解を見ると、答えはあっていましたが、訳文を見て考えはじめました。

訳文は、

This article provides readers with an insight into why men and women communicate differently.
この記事は、なぜ男性と女性でコミュニケーションのとり方が違うのかということについての洞察を読者に与えてくれます。

というもの。

「insight」の訳語は「洞察」というものでした。

問題を解くときには、「洞察」という言葉は自分の中にありませんでした。

もし日本語で、以下のような問題ならば、「洞察」とは答えていないと思います。

以下の空欄に入る最も適切なものを言葉を入れてください。
この記事は、なぜ男性と女性でコミュニケーションのとり方が違うのかということについての[ ・ ・ ・ ・ ・]を読者に与えてくれます。

そのため、どこからinsightという答えが私の中から出てきたかということを考えはじめたのです。

「insight」という答えは消去法で答えたというのが一番大きな理由です。

まずは、insightを日本語で言うならば私は何と言うかを考えました。

私はinsightを「光を当てて注目しているものごと」のような意味で捉えています。

「サイトシーイング(sightseeing)」といえば「観光」ということを知っていたため、「sight」と「光」が結びついています。

「観光」は、「光」を「観る(こと)」。

「sightseeing」は、「sight」を「見ること(seeing)」。

なので、「光」と「sight」が結びついています。

また、中学生か高校生のころ、「アウトオブ眼中」という言葉が流行って(?)いました。

「眼中にない」という意味です。

もとになった英語の表現は「out of sight」です。

そのため、「sight」と「眼(目)」という結びつきもあります。

実際、英和辞典で「sight」を確認したところ、「視力、視覚」「視界、視野、見える範囲」という意味もありました。

視野にないことが「アウトオブ眼中」、視野にあることは「眼中」。

「insight」は「眼(sight)中(in)」というのもいいですね(今、思いました)。

「洞察」という言葉は、「洞」と「察」を組み合わせてできています。

「察」は「察する」という動詞であることは想像がつきます。

「観察する」というのは「観る」と「察する」の組み合わせです。

「洞」は、「洞窟」「洞穴」「鍾乳洞」などに使われています。

「ほら穴」というイメージで、名詞のような気がしていました。

しかし、「洞察」という言葉についてよくよく考えると、「洞(名詞)」と「察(動詞)」の組み合わせならば「察洞」となりそうなので、ひょっとすると「洞」に動詞的な意味があるのではないかと思い漢和辞典を繙いてみました。

すると、「洞」の動詞的意味として、「みぬく。奥にあるものをはっきりと見抜く」と載っているではありませんか。

このように考えたり、調べたりしていると、「洞察」「insight」のイメージが少しずつ湧いてきました。

洞窟など暗い中で懐中電灯などの光をかざして進んでいき何かを見つけにいくというイメージです。

洞窟の中に宝物があるとわかっていれば、このイメージがふさわしく思います。

しかし、もし、宝物があるのかないのかわからないのに洞窟の中でうろうろしていると、だんだんと不安になってきます。

まさに暗中模索。

そんなときに光が見えると、そこが出口だと思います。

これも「洞察(insight)」かもしれません。

宝物を見つける、出口を見つける。

光を求めていき、それを指し示す「洞察」。

相手の輝き、自分の輝きを信じ切ることにもつながります。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉106−エブリデイライブ《わもん研究所所長 :サノトモ》

1420722311325_2.jpg

わもんの仲間、西村剛さん(つよっさん)の本が出版されました。

タイトルは『聞き合う社会』

その出版記念講演会に参加し、帰りの新幹線の中で読み終えました。

その講演会を聞きながら、そしてその後、実際に本を読みながら思い出していたことがあります。

以前に、つよっさんと「本」についての話をことがありました。

書籍や文章などに書き記されたものは、まだ顔を合わせたことのない人の手元に届くかもしれない。

そして、読んでもらったときに、ひょっとすると何かの行動を起こすきっかけになるかもしれない。

このような話です。

そして『聞き合う社会』を読みながら、「この本ならば、以前に話していたことが起こるだろうな」ということを思っていました。

この書籍の中に、「天岩戸を開く」という一節があります。

心の小部屋にひきこもってしまった人たちの天岩戸を開きたい、そのためにも自分がアメノウズメのように踊っていきたいという内容です。

もし、心の小部屋の中にこの本があったならば。

そして実際にひきこもってしまった人たちの手元にこの本があったならば。

この本を手に取る可能性はあります。

読む可能性があります。

そして、そこで楽しそうに踊っているつよっさんを見て、「何を楽しくやっているのだろう」「この人に会ってみたいな」と、天岩戸を開く可能性は十分あります。

4月17日の名古屋での聞くライブを皮切りに、5月からは1ヵ月毎日「エブリデイライブ」、7月からは「47都道府県エブリデイライブ」、9月からは「100回連続エブリデイライブ」と、全国各地でつよっさんが踊りまわります。

「ライブ(live)」には「生の、生きている」という意味があります。

「live」の名詞形は「life(ライフ)」、「生活」「生命」「命」です。

毎日生きている、一日一日を生きている、一回一回生きている「エブリデイライブ」。

私たちも、一日一日生きています。

「ライブ」というイベントを開催するまでもなく、生きて(live)います。

私たちの楽しく生きる姿を見て、誰かの天岩戸が開く可能性があります。

誰かの楽しく生きる姿を見て、私たちの天岩戸が開く可能性があります。

書籍『聞き合う社会』の帯に、やぶちゃんは以下の言葉を寄せています。

「日常のなかで自分と向き合う。
聞き合う社会は、これを可能にします。」

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉105−意識スピード《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

一般に、スピード(速さ)というのは、一定時間にどれだけの距離を動いたか、ということです。

  速さ=距離/時間

時速50kmで走るというのは、1時間に50km走る速さです。

ところで、スピードを上げるというときには、ふたつのアプローチがあります。

ひとつは、上記のように一定時間にどれだけ動くかという距離を伸ばすアプローチ。

もうひとつは、距離は一定で、どれだけ時間を短くするかというアプローチ。

距離は一定で、どれだけ時間を短くするかというアプローチというのは、東京―新大阪間を新幹線のひかりならば3時間で走りますが、のぞみならば2時間半で走るというようなもの。

のぞみの方がスピードが速いということになります。

一方、一定時間にどれだけ動くかというアプローチを同じ新幹線で例えると、ひかりならば3時間で新大阪に行けるが、のぞみならば新神戸まで行けるということです。

どちらも、のぞみの方がスピードが速いということにはなります。

表現の仕方が違うだけです。

意識スピードを上げるという場合、どちらかというと一定時間にどれだけ動くかというアプローチをとっているように思います。

一定時間にどれだけ深く潜れるか。

しかし、やぶちゃんはこうも言います。

「タイムアタックをしている」と。

タイムアタックは距離は一定でどれだけ時間を短くするか、です。

思うにこれは、目的地が決まっているかどうかの違いではないかと思うのです。

目的地が決まっていれば、その目的地まで短時間で行けるようにスピードを上げる。

目的地が決まっていなければ、できるだけ遠くに行けるようにスピードを上げる。

意識スピードを上げるというのは、行動範囲を広げるような意味もあると思います。

幾度となく通り過ぎた道でも、今まで見落としていたもの、行ったことのない道、入ってみたいお店があるかもしれません。

目的地が決まっていたら、そこを目指してスピードを上げる。

目的地が決まっていなかったら、行動範囲を広げてみる。

そして、次なる目的地を見つけていく。

意識スピードを上げるというときには、この両方が含まれていると思います。

表現は違いますが、同じことを指しています。

同じ距離で時間を短くするか、同じ時間で距離を長くするか。

さらには、時間を短くして距離を長くする、と両方意識してもいいですね。

目的地、エンドポイントを常に意識しようと、あらためて思いました。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉104−ビーチフラッグ(バシャバシャ)《わも ん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_4.jpg

想像してみてください。

たとえば、距離を置いて立ててあるビーチフラッグ。

スタートの合図とともに数人が一斉にビーチフラッグを目指して走り出す。

また想像してみてください。

たとえば、大きな庭園にある池や、お城のお堀に、たくさんの鯉。

そこに、お麩などの鯉のエサを投げ込むと、鯉が群がってきて、バシャバシャバシャバシャ!

人前で何か話をするとき、大勢の人に何かを伝えたいとき、まずはそれに向かって聞き手が走り出すようなビーチフラッグのところから話しませんか、という提案です。

話し始めたら、聞き手がバシャバシャとなるようなところから。

そうすると、聞き手は聞く体勢に入り、話が伝わりやすくなります。

聞き手が食いつくような話から、ということです。

ところで、「ビーチフラッグ」とは、いったい何に使う旗なのでしょうか?

ふと疑問に思い調べてみると、私にとっておもしろいことがわかりました。

それは、「ビーチフラッグは、旗ではない!」ということです。

ゴルフのグリーンに立っているピンフラッグ(旗)の短いものをイメージしていましたが、どうやら違っていたようです。

ビーチフラッグというものがもともとあったわけではなく、主にホースの切れ端などを立てていて、その立てたものをビーチフラッグと呼んでいたようです。

風になびくような旗でなく、目印としてのビーチフラッグ。

そういえば目印をつけることを、「フラグを立てる」と言ったりしますね。

ライフセーバーが走力や反射神経を鍛えるために生み出されたスポーツ「ビーチフラッグ(ス)」。

もともと何かのために浜辺で使うビーチフラッグというものがあって、それを利用したと思っていましたが、どうやらそうではないらしい。

ビーチフラッグはあくまで目印であり、目的は走力や反射神経を鍛えるため。

話をする際にビーチフラッグを立てたとしても、それはあくまで目印です。

そこで終わりではありません。

少し言葉がわるいですが、まずは話に食いついてもらうこと。

そこから、自分の思いや提案などを伝えていく。

話の本来の目的、エンドポイントもしっかり押さえておこう、と思いました。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉103−入りの音《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_3.jpg

最近、ガチ聞きの話し手となったときに、よく話すことがあります。

テニスのサーブの話です。

以前にどこかで書きましたが、高校生のときに部活動でテニスをしていました。

テニスのことで先輩に教えてもらったことの中に、サーブの話がありました。

練習は、サーブを中心にするといい、というようなことです。

テニスは、ラケットでボールを打ち合うスポーツ。

相手の打ってきた球をラケットで打ち返します。

相手のコートに打ち返せないと相手側の得点となりますので、当然、打ちにくいところにボールは飛んできます。

拾いにくいところへ飛んできたボールをいかに打ち返すか、また、相手の取りにくいところへいかに打ち返すか、ということが重要です。

重要ではありますが、相手が打ってくるボールがどのようなものなのかは、相手が打ってから(あるいは相手の構えなどから)しかわからないため、全く同じボールは飛んできません。

一打一打判断して打ち返すことになります。

しかし、最初のサーブは、自分でトスを上げて打つことになります。

風の影響など考慮に入れないといけないことはありますが、自分自身でコントロールできる唯一の一打です。

なので、サーブを練習した方がいい、ということでした。

テニスではサーブ権のある側(サーバー)が有利である理由もここにあると思います。

テニスではサーバーが主導権を握っています。

ガチ聞きの話し手となったときに、よくこの話をするのは、ガチ聞きでの聞き手の最初の音、声、言葉が、サーブと同じだと思うからです。

ガチ聞きに勝ち負けはありませんが、聞き手が話し手に対して入れる最初の音は自分自身が管理できる唯一の音。

話が始まると、その話し手の話す音の音圧、音調、ブレスなどを聞きながら、それに合わせていきます。

ガチ聞きの入りの音が狙ったところへ狙った通りに打てること。

ガチ聞きに勝ち負けはありませんが、先手を打つことができます。

そしてそのうち、サーブを打てるのは、ガチ聞きのときだけではないことに気が付きます。

常日頃からサーブが打てる。

先の先をとることはいつでもできることを実感することができるのです。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉102−遠心力と求心力《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325_2.jpg

2015年1月より、白帯心徒塾の受講の前には、わもん入門塾への参加が必須となりました。

わもん入門塾の位置付けを確認することもあり、1月3日、わもん入門塾認定講師を対象に講座が開催されました。

その講座のタイトルは「求心力の法則」。

初めは「遠心力・求心力の法則」でしたが、「遠心力」という言葉は外れました。

ここで「求心力」というのは、人を魅きつける力のことです。

「遠心力」はその逆。

講座の内容をここで述べることはしませんが、「遠心力」「求心力」から思うことを書きたいと思います。

「遠心力」「求心力」と聞いて、思い浮かべたことは、「高気圧」と「低気圧」。

風は気圧の高いところから低いところ流れます。

気圧というのは気体の圧力のことで、「高気圧」「低気圧」というときは大気の圧力と考えていいでしょう。

水が高いところから低いところへ流れるように、空気も気圧が高いところから低いところへ流れます。

熱帯性低気圧で、最大風速がある一定以上を超えたものを「台風」といいます。

台風は熱帯地方で発生した低気圧で、台風を気象衛星の写真で見ると、雲が渦を巻いています。

中心に向かって強い風が渦巻いて吹いている影響です。

渦巻きは脇に置きますが、低気圧では中心に向かって風が吹き、高気圧では逆に中心から外側に向かって風が吹いています。

低気圧と求心力、高気圧と遠心力が似ていると思うのです。

気圧が高い、低いというのは、同じ体積(で、同じ温度)あたりの空気の量が多いか少ないかの違いです。

同じ容器に空気がたくさんぎゅうぎゅうに詰まっていると気圧は高く、容器に空気が入っていなかったら真空です。

気圧が高いところから低いところに風が流れるのは想像できます。

人を魅きつける力は、低気圧のようなものではないのか。

たとえば容器に入っている「自我」を薄くすれば、気圧とはいえないですが、低気圧のような風がおこるのではないか。

またたとえば、「器」を大きくすれば、魅きつける力が生まれるのではないか。

こんなことを考えています。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉101−無意識共同体《わもん研究所所長: サノトモ》

1420722311325.jpg

たとえば、歩いているときを想像してみてください。

右足と左足を交互に前に出して歩いています。

バランスを取りながら、倒れないように。

このとき、個々の細胞は何をしているでしょうか?

人間には、60億個ほどの細胞があると言われています。

身体を動かすときに主に活動するのは筋細胞かと思いますが、それぞれの細胞がそれぞれ絶妙なタイミングで活動して、人間の歩くという行為を成り立たせています。

それぞれの細胞はそれぞれに活動しています。

すぐ隣の細胞の情報から動くこともあれば、自ら伝達物質を発する場合もあるでしょう。

できることも限られています。

このような細胞の集まりで人間は構成されています。

ときどき思うことがあります。

私たちひとり一人が、ひとつの細胞なのではないか、と。

勝手な想像ですがご容赦ください。

私たちは、自ら動いたり、周りの環境によって自分の動きを決めて行動しています。

自分一人ではできないことも多々あります。

周りの人とコミュニケーションをとって、情報を交換したりもしています。

人間という種を一人の人間と見立てたとき、私たちひとり一人、個人はひとつの細胞であると思うのです。

もともとひとつの細胞から細胞分裂を繰り返し、60億個もの細胞になり、ひとりの人となります。

細胞分裂の過程で、筋細胞や脳細胞などに分化していきます。

似たような細胞が集まって、ひとつの器官や組織となっていきます。

人間も集まって、会社などの組織をつくっています。

組織を英語で言うと organization と言いますが、その語源である organ は器官や臓器を表します。

細胞のひとつひとつが、自分の役割を認識して活動しているかどうかはわかりません。

自分ができることをして、結果それが役割に沿っている活動なのかもしれません。

細胞側からみると何をしているのかわからないかもしれませんが、人間側からみると歩くという行為をしているかもしれません。

ひとつの生命体を構成するたくさんの細胞は、もともとひとつの細胞から分裂、分化していったもの。

見た目や役割など違っているところはあるけれども、同じところもある。

私たちひとり一人が細胞だとすると、その細胞が集まってできている生命体を「無意識共同体」と呼ぶのではないかと思っています。

《わもん研究所所長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉100−一人一天命《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_6.jpg

「天命」と聞くと思い出す一節があります。

儒学の四書のうちの一つ『中庸』の冒頭部分です。

“天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を修めるをこれ教と謂う。”

『中庸』では、天の命じたこと、つまり、天命のことを「性」といいます。

そして、その性に従って生きることを「道」。

その道を整えたものが「教え」です。

「性」というのは、本性や性格、人間性や特性などの「性」。

「個性」も「性」のひとつでしょう。

そうすると、個性は天命とつながっています。

人にはそれぞれ個性があります。

それぞれ性格も違います。

それとともに人間性も持っていますし、男性・女性などの性もあります。

これらの性は持って生まれたもの。

天が命じたものともいうことができます。

ひとりひとりそれぞれ違う「天の封書」を持っています。

それぞれ違う個性があります。

性に従って生きると、道となります。

ひとりひとり違う道があります。

ひとりひとり、それぞれの天命があります。

私自身の天命が何であるのかは、まだわかっておりません。

しかし、何らかの天命があるということはわかっています。

この「わもんな言葉」を書き続けていることは、私しかしていないことで、現在は私だけの道です。

ここには私の「性格」や「個性」が反映されています。

ならば、天命につながってもおかしくない。

普段何をしているときが楽しいか、自分らしいのはどんなことか。

素の自分とは、どんな自分か。

日ごろの中に個性があります。

道があります。

その道は天命につながっていると思うのです。

そして、日ごろのあり方を整える方法のひとつが、わもんだと思うのです。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉99−素を聞き直にする《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_5.jpg

今年2014年10月、やぶちゃんが聖(ひじり)認定となりました。

「第2回輝くあなたに逢うわもん会in伊勢」でのことです。

今年は上田比呂志さんをお迎えし、「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」と題されて開催されました。

その2日目、神宮での正式参拝の際、上田比呂志さんに言葉が降りてきます。

やぶちゃんに伝えてほしいという言葉で、やぶちゃんにはお役目として、「素(そ)を聞き、直(ちょく)にする」という役割があるということです。

そして最近、偶然、吉田松陰の『講孟箚記』を読みなおしたところ、「序」の中に以下の文言がありました。

“然れども天下の人、方且に富貴に淫せられ貧賤に移され、安楽に耽り艱難に苦しみ、以て其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。宜なるかな、其の道を見て以て高く且美しくして及ぶ可からずと為すや。”

其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。

「平素の心がけを失い、そのような混乱から抜け出ることができないでいる。」と訳されています。

「素」というのは平素の「素」でもありますが、手元の漢和辞典を引くと次の意味が載っていました(名詞的意味のみ抜粋)。

?より糸にする前のもとの繊維。蚕から引き出した絹の原糸。
?人工を加えたり、結合したりする前の、もととなるもの。
?人工を加えない本質。生地のままのさま。飾り気のないさま。

松陰は、天下の人々が、富貴貧賤・安楽艱難に染められ、素を失ってしまい、抜け出ることができないでいることを嘆いています。

道というものは、高く美しいものではあるが、身近で簡単なものであるのに、と。

『講孟箚記』とは、吉田松陰の『孟子』の講義録。

『孟子』の一節を思い出します。

“己を枉ぐる者にして、未だ能く人を直くする者はあらざるなり。”

己(おのれ)を曲げる者で、人を真っ直ぐにする者は未だいない。

素を聞き、直にする。

やぶちゃんにふさわしい役割です。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉98−直感は未来からの予告《わもん研究室室長 :サノトモ》

13800167963431_4.jpg

最近、「U理論」というものに興味を持っています。

U理論とは、MITのオットー・シャーマー博士の提唱している理論で、その著書『U理論』の副題からいうと、「過去や偏見にとらわれず、本当に必要な『変化』を生み出す技術」です。

そのU理論の考え方の一つとして、「出現する未来からの学習」があります。

「人には二つの異なる源(ソース)による学習」があり、一つは「過去の経験からの学習」、もう一つは「出現する未来からの学習」。

そして、『学習する組織』の著者で、組織学習で有名なピーター・センゲは、『U理論』の序文の中で、「出現する未来から学ぶ」ことについて以下のように述べています。

“こうした学び方(過去の経験からの学習)はつねに重要だが、現代のように大きな変化が生まれつつある時代では、到底それだけでは十分とはいえない。そこで、まだよく知られていないが新しい学習方法が求められる。シャーマーはこれを「出現する未来から学ぶ」と表現する。出現する未来から学ぶことはイノベーションには不可欠だ。出現する未来から学ぶには直感が必要だ。非常にあいまいかつ不確実な状況を許容し、失敗を恐れないことが求められる。想像もつかないようなことに直面し、不可能なことを試みることを覚悟しなければならない。我々は恐怖と危険を感じつつも、これから出現しようとするきわめて重要な何かに貢献しているのだという気持ちによって、前進を続けることができる。”

U理論の「U」は、何かの略号ではなく、いったん深く潜って帰ってくる形が「U」の文字に似ていることから名づけられました。

書籍『聞けば叶う〜わもん入門〜』での「話聞一如」の説明には「心の奥底」という表現が使われています。

“「わもん」をおこなうことによって、聞き手が話し手の「声なき声」を高い精度で感じとったとき、両者が言葉を介することなく思いを分かちあっている状態。聞き手が完全沈黙の状態を保ち、絶対尊敬を贈りつづけて、話し手の心の奥底にある思いをすっかり受けとめきったときに発生する、最高のありよう。両者は自他の境界をこえ、「無意識共同体」でつながりあう。”

「声なき声」は「直感」ともいえます。

心の奥底に「声なき声」は生まれます。

深く潜り、Uの底で「声なき声」が生まれ、言葉として結晶化(クリスタライズ)して帰ってくるのです。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉97−音を入れる《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_3.jpg

わもんでは、「ガチ聞き」などで、よく「音を入れる」ということをいいます。

抽象的ないい方になりますが、魂が震えるような音を入れます。

会話での「あいづち」を、漢字では「相槌」と書きます。

刀鍛冶が刀を打ち鍛えるときに、刀鍛冶とその弟子が2人で交互に槌をふるって刀を打っているのが語源です。

刀鍛冶が本気で刀を打っているとき、弟子が手抜きをしているとどうなるか。

会話も同様で、話し手が本気の話をしているのに聞き手が気を抜いた相槌をすると、どうなるか。

刀の製法について詳しくは知りませんが、熱した鉄を打つのは、固く丈夫にするためだと思います。

自信、決意、覚悟…ときどき揺らぐことがあるかもしれません。

そのような話をしているとき、しっかりとした相槌を入れることで、自信や決意などを固く丈夫にすることができるかもしれません。

自分以上に信じてくれているという相槌を打つ。

そのような相槌を打つことを、「音を入れる」といいます。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉96−教育とわもん《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_2.jpg

大学生のときに、教育実習に行ったことがあります。

先生になりたいということは特に思っていませんでした。

しかし、せっかく大学に入ったのだから教員免許の資格を取っておこう、そして、教育実習の経験がどこかで役に立つかもしれない、そのような軽い気持ちで教育実習に参加しました。

そのような気持ちを知ってか知らずか、教育実習初日のオリエンテーションの際、教育実習担当の先生に釘を刺されます。

「この中には、先生になりたいと思っている人も、思っていない人もいると思う。しかし、生徒は、皆さんを将来先生になる人だと見ている。もし、現時点では先生になる気がなかったとしても、『先生になる気はない』というようなことを生徒には話さないでほしい」

このようなことを言われました。

そして、教育実習が始まりました。

クラスのホームルームも担当しました。

私が前に立って、生徒の質問を受けるという機会です。

「なぜ、先生になりたいと思ったのか?」

生徒からそのような質問がでてくるのは予想できることですので、問われたらこう答えようと準備をして臨みました。

案の定、「なぜ、先生になりたいと思ったのですか?」という質問がでました。

用意した答えを言おうと思っていましたが、緊張もあり躊躇しました。

そして、回答として出した最初、次の言葉を言いました。

「別に先生にはなりたいと思っていない」

言ってはいけないことを言ったなと頭の片隅では考えていましたが、生徒たちの真剣な目がこちらに向いているのを感じ、今は作られた回答よりは現時点での本当の考えを伝えたほうがいいと感じました。

そして、言葉を続けます。

「先生になりたいと思っていないというのは、先生になるのが嫌だというわけではない。『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』という言葉があるが、自分の名前を残したいと思っている。名前を残すというのも有名になるというわけではなく、誰かの心に残るような人になりたい。先生はその選択肢のひとつではある。実際、A先生(担当したクラスの先生)は私の心に残っている」

このようなことを言いました。

「名前を残したい」ということは、それまで考えたことがありませんでした。

しかし、この経験から、私は今でも、「名前を残したい」ということを意識するようになりました。

教育実習での出来事は、わもんと出会う前の経験ではありますが、思い返すと、生徒たちの聞く姿勢とそれにふさわしい場があったため、上っ面の回答はできないと感じたのではないかと思っています。

「先生になる気はない」ということを言ってはいけないと外から言われたことを守るより、自分の思いを素直に話したほうがいいと感じて、そのようにした。

この経験では、話し手が私で、聞き手は生徒たち。生徒たちの聞く力が、私の中にあった思いを引き出してくれた経験です。

自分の中の制限に気づき、その制限を超えた経験でした。

生徒や教育現場に限らず、聞く力、場の力はどのような人にもあります。

聞く力が深まると、場も深まります。

場が深く整っていれば、気づきを促しやすくなります。

聞く力を深めることで、気づきを促す場づくりができます。

教育の現場にも「わもん」は有効かもしれません。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉95−透明心徒塾《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431.jpg

「黒帯心徒塾」「白帯心徒塾」に加えて、「透明心徒塾」というものが開催されています。

やぶちゃんが聞く力の可能性への挑戦と銘打たれた心徒塾です。

内容は、そのときどきによって変わりますので説明できません。

今では複数の○○心徒塾がありますが、始まりは、「黒帯」や「白帯」「透明」は付いていない、心徒塾からでした。

心徒塾が進化するにつれ、心徒塾に参加される方のスタートラインを揃えたいというところから「白帯心徒塾」が誕生。

白帯心徒塾が誕生したことで、従来の心徒塾を「黒帯心徒塾」と呼ぶようになりました。

現在、白帯心徒塾は、わもんの黒帯の方々が中心になって運営されています。

そんな中、やぶちゃんも白帯心徒塾を開催していたところ、やぶちゃんの白帯心徒塾のレベルが深まっていきます。

ときには、白帯心徒塾のレベルをはるかに超えることも…。

そこで、やぶちゃんが思う存分やりたいということから、白でもない黒でもない、オール直感進行の「透明心徒塾」が誕生しました。

さて、なぜ「透明」なのか?

透明心徒塾は、「白帯」「黒帯」という流れの延長線上にあるものではなさそうです。

聞く修行のステップでも番外編として取り扱われています。

色としての「白」「黒」は、光の反射によって説明されます。

可視光線のほとんどを反射(散乱)する物体は白く、可視光線のほとんどを吸収する物体は黒く見えます。

「透明」は色ではありません。

可視光線が散乱もせず、吸収もされない状態のことです。

可視光線は、人間が見ることのできる電磁波のことを言います。

電磁波は波長があって、人間の目で感知できる波長の電磁波が可視光線です。

人間の目で感知できない電磁波に「赤外線」や「紫外線」があります。

透明心徒塾は、ひょっとすると人間には捉えられないことをしているのかもしれません。

しかし、「赤外線」や「紫外線」「X線」など、人間は目に見えない電磁波を様々なことに利用しています。

透明心徒塾の中に、何か利用できるもの、役に立つものがあるかもしれません。

「聞く力の可能性への挑戦」。

透明心徒塾は、そのような心徒塾、と、ひとまず理解しておきます。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉94−オールブラックガチ聞きライブ《わもん研 究室室長: サノトモ》

13800167963431_4.jpg

10月26日、名古屋にて「オールブラックガチ聞きライブ」がありました。

無料です\(^o^)/

ヤブログ放送室でもありましたが、「オールブラック」と聞くと、「オールブラックス」を思い出します。

「オールブラックス」というのは、ラグビーのニュージーランド代表の愛称。

その名の通り、黒のユニフォームです。

そして、有名なのは「ハカ」。

You Tube で「All Blacks Haka」で検索すると動画を見ることができます。

あらためて、ハカについてWikipediaを見てみると、「ハカ=平和的=友好的と解釈される」とのこと。

今まで「ハカ」を挑戦的・戦闘的な踊りと思っていましたm(__)m

また、合わせてWikipediaには、「カマテ」の意味が載っていました。

「カマテ(ka mate)」というのは、ハカの一種で、意味は「私は死ぬ」!

カマテの意味:
「私は死ぬ! 私は死ぬ!
 私は生きる! 私は生きる!
 (以上を2回繰り返し)
 見よ、この勇気ある者を。
 ここにいる毛深い男が再び太陽を輝かせる!
 一歩はしごを上へ! さらに一歩上へ!
 一歩はしごを上へ! そして最後の一歩!
 そして外へ一歩!
 太陽の光の中へ!」

少し変えれば、「オールブラック聞くライブ」にふさわしくなるように思います。

私は死ぬ! 私は死ぬ!

私は生きる! 私は生きる!

私は死ぬ! 私は死ぬ!

私は生きる! 私は生きる!

見よ、この勇気あるものを。

ここにいる黒帯たちが再び太陽を輝かせる!

一段深く! さらに一段深く!

一段深く! そして最後の一段!

そして外へ一歩!

太陽の光の中へ!

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉93−声楽《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_3.jpg

あらためて、シャーロック・ホームズを読みたくなりました。

先日、ロンドンへ行ってきたためです。

手に取ったのは『緋色の研究』(阿部知二訳、創元推理文庫)。

読んでいると、驚くことに、ホームズが次の台詞を口に出していました。

“「君は、音楽についてダーウィンがいったことばをおぼえていますか。彼の説によると、音楽をつくりだしたり観賞したりする力は、言語能力よりもずっと古くから人類にそなわっていたという。ぼくたちが音楽をきいていいいようもなく感動をうけるのは、きっとそのためだろうね。われわれの魂のなかには、世界の幼年期の、霧につつまれたような日々の、おぼろげな思い出が生きているのだ」”

音楽をつくりだしたり観賞したりする力は、言語能力よりもずっと古くから人類にそなわっている。

2012年10月24日付ヤブログ放送室『声楽とわもん』で、直樹先生が言っていたこととほぼ同じです。

また別の本になりますが、岡ノ谷一夫『言葉はなぜ生まれたのか』では、言葉を話す条件のひとつとして、文法を使いこなせる能力があることを挙げた上で、「単語を組み合わせて、文章にする能力」について、

“「単語が先にあり、単語を組み合わせていくことによって、ことばができた」
のではなく、
「歌のような音の流れがまず先にあり、それを切り分けていくことによって、単語ができた」
と考えるのです。”

と、言葉をもつ以前に、歌詞のない歌を歌っていたのではないかという仮説を立てています。

「わもん」での聞き方について、話し手のキートーンを汲み取る、というような説明がなされるときがあります。

話し手の音の流れの中からキートーンを汲み取ることは、話し手の声なき声を汲み取ることにつながるとも考えられます。

音楽を聞くように人の話を聞く、また、歌うように話す「わもん」

そして、話すように歌うことを目指す「声楽」

「わもん」と「声楽」は、密接なつながりがあります。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉92−わもん研究室《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_2.jpg

ありがたいことに、現在「わもん研究室室長」という肩書きをいただいております。

何をしているか…は、さておき。

今回は「わもん研究室室長」の誕生について書きたいと思います。

時系列から言うと、まず一番最初に、くろちゃんからの提案がありました。

心徒塾の帰りの電車の中、くろちゃんから「さのともさんの肩書き考えた!『わもん研究所所長』!」と言われたことがあります。

いつのことだか忘れてしまいましたが、たしか京都のわもん本社で心徒塾が行われていたころ。

そのときは、研究所というのは、研究所という建物があり、数名の研究者がいて…というイメージでしたので、「建物もなく、研究者もいないのに所長というのは…」と笑って過ごしました。

そして、話は今年に飛びます。

ご存知の方も多いと思いますが、私は今年2014年7月末で十数年勤めていた会社を辞めました。

「わもん」を中心とした活動をしていきたいと思ったからです。

7月30日が会社の最終出社日で、翌31日は休日でしたので、やぶちゃんがファシリテーターをするNPO法人メイクザヘブンのミーティングにオブザーバーとして参加させてもらいました。

ミーティングの休憩中、退職の話となり、てんつくマンより質問を受けます。

「明日から何するん?」

「わもん」を中心とした活動をするということは決めていましたが、具体的に何をするのかは決めていません。

そのため、話が長くなるのもどうかと思い、「自由人です」と答えました。

このとき、肩書きみたいなものがあった方がいいかも、と思いました。

翌日8月1日は奈良での聞くライブに参加。

三段お披露目をするかわかみちゃんの調整役として、ガチ聞きの話し手をさせていただきました。

その際に、てんつくマンからの質問のことを話し、当然のことながら、今後どうしていきたいかという話となり、「わもんの研究みたいなことがしたい」と言いました。

そして、奈良の聞くライブの帰り道。

たまたまやぶちゃんと同じ電車でした。

そこで、てんつくマンから受けた質問から考えたことを話し、「『わもん研究家』と名乗ってもいいですか?」と切り出しました。

やぶちゃんはしばらく考え、「ベスト、ベター、グッドでいくと、ベターやな」と言い、「ベストを探そう」と聞く体勢に入りました。

そのため、ここまで書いてきたこと、そして仕事を辞めたため、ブログのタイトルを「わもん研究室」にしてもいいか、ということを話しました。

すると、やぶちゃんが「それなら…、『わもん研究室室長』はどうか」、そして「『わもん研究室室長』を私が任命します」

「!?」となって、わもん研究室室長が誕生しました(笑)

思い返すと、やぶちゃんはギリギリのところを突いてきています。

『わもん研究室室長』を名乗ってもいいということだったら、おそらく私は受け容れなかったと思います。

任命されたからこそ、躊躇はありましたが、受け容れることができたと思います。

また、このときに『わもん研究所所長』を任命されていたら、辞退していたと思います。

私がギリギリ受け容れるだろうところを見越してのことだと思います。

そして最近、「来年から『わもん研究所所長』に格上げ」と言われました。

「室長」と呼ばれることにようやく慣れてきた矢先です。

「室長」として何をしたのか…は、さておき。

また、ギリギリのところを突いてきたように思います。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉91−リングトーニング《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431.jpg

最近、例えば、黒帯心徒塾での午後からの離我トレーニングの前などに「リングトーニング」ということをやっています。

数名で手をつなぎ輪になって、まずはその中の一人が自分が最も美しいと思う音(声)を出します。

残りの人は、その音に合わせて音を出します。

これを輪になった全員が一人一人音を出していき一周します。

9月5日京都で開催された「一人一天命プログラム」で誕生し、そこに参加されていた本間先生が後に「リングトーニング」と名付けました。

グラス・ハープを連想されたとのことです。

私も「一人一天命プログラム」に参加をしていて、そのときの様子をみており、漠然と名前をつけたいと思っておりました。

出てきていたのは、音を合わせているということから、「○○シンフォニー」というのがいいかなという程度です。

シンフォニー(Symphony)という単語は、syn-(〜とともに)と、phone(音)からできた単語だからです。

その後、思考が飛びます。

そういえば、ミーティングのことを「打ち合わせ」というな、と。

「打ち合わせ」という言葉は、雅楽を演奏する前に、打楽器を打ってリズムを合わせることから、物事がうまくいくように事前に相談することを「打ち合わせ」というようになったと聞いたことがあります。

「打ち合わせ」がリズムを合わせるならば、音を合わせるのは何だろうか、と考えていました。

「調律」「調音」「チューニング」などが出てきましたが、どれもしっくり来ず。

そんな中で、「リングトーニング(Ring toning)」というネーミングを聞きました。

音を合わせて、リズムを合わせる。

打ち合わせの前に、リングトーニングをすると効果があると思います。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉90−伊勢《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_3.jpg

『第2回輝くあなたに逢うわもん会in伊勢』の開催が近づいてきました。

今年は10月1日・2日、上田比呂志さんをお迎えし、「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」と題されての開催です。

イベント自体も楽しみですが、私は伊勢には行ったことがないので、こちらも楽しみです。

さて、神道にも歴史にも詳しくない私ですが、伊勢神宮のご祭神が天照大御神であることや、天岩戸の話などは知っています。

天照大御神が天岩戸に隠れ、世界が暗闇になったという話です。

オモヒカネやアメノウズメ、タヂカラオなど他の神々が知恵や力を合わせて、天照大御神を外に出そうと作戦を立てます。

隠れている天岩戸の外で、アメノウズメが舞い踊り、他の神々が楽しくしていると、天照大御神が「何をしているのかな」と岩戸を少し開けてのぞきます。

そこをタヂカラオがぐっと押し開けます(引っ張り出した、だったかもしれません)。

そして、世界に光が戻ったという話です。

日食とか、あるいは大きな火山の爆発による火山灰で太陽が見えなくなったとか、そのような現象をもとにした神話ではないかとも言われています。

さて、天照大御神はなぜ天岩戸に隠れてしまったのか?

詳しくは覚えていませんが、乱暴者の弟スサノオにあきれたか、愛想をつかしたか、そのような理由だったと思います。

今回の『輝くあなたに逢うわもん会in伊勢』は「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」です。

乱暴者のスサノオにあきれて、心の中の天岩戸に隠れてしまった天照大御神を外に出そうとする作戦です。

過去の経験だとか、誰かから言われたことだとか、人それぞれに天岩戸に隠れてしまった理由があると思います。

中からちょっとのぞいてみてもらうには、岩戸の外で楽しくすることです。

なので、楽しみます♪

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉89ーできると思う人はやり方を探す《わもん研 究室室長: サノトモ》

13800167963431_2.jpg

出来ると思う人はやり方を探す。

出来ないと思う人は理由を探す。

この言葉を聞いたときに思い出すことは、『論語』の言葉です。

『論語』雍也編に以下の言葉があります。

冉求曰く「子の道を説(よろこ)ばざるには非ず。力足らざればなり」
子曰く「力足らざる者は中道にして廃す。今汝画(かぎ)れり」

「先生(孔子)の道を学ぶのをうれしく思わないわけではないが、力が足りないのです。」と冉求が言ったところ、孔子は「力が足りない者は、道半ばでやめるだろう。今、お前は自分で見切りをつけた」というような意味です。

冉求は、できないと思って理由を探し、「力が足りない」と言いました。

「汝、画れり」

孔子は、やる前(あるいは途中?)から「力が足りないのでできない」と言った冉求に対して、「自分で限界をつくった」と言っています。

あっ! 

『論語』に言いたいことが書いてありますね!

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉88−船長室《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431.jpg

最近、やぶちゃんが「聞く」ことの説明をするときに、「船長室」の例えがよく出てきます。頭(脳)を「船長室」に例えて、「聞く」ことについての説明をしています。
船長室の中には「船長さん」がいて、話し手が話をするときに聞き手の船長さんが動き出すことがあります。聞き手の船長室の中で、船長さんがわからないと思ったときは「わからない」が身体に表れます。
「聞く」というのは、船長さんが船長室を飛び出して、話し手の船長室にいくこと、という例えです。
では、なぜ「船長室」なのでしょうか?「船長さん」でなくとも、運転手やパイロットなど、例えになりそうなものはいくつかありますが、なぜ「船長さん」なのか?思えば「ミジンコ(直感)」でも同じような問いを立てました。実際の船長さんがどのようなことをしているのかということは想像でしかありませんが、いくつか思いつくままに書いてみたいと思います。
まずは、頭(脳)を「船長室」に例えているということは、身体を「船」に例えているということです。「船長室」があるような、結構大きな船。船長さん自身が運転しているわけではなく、他に乗組員が何人もいて、その乗組員が全員ではないにしろ、船の運転をしています。船長さんは、方向を決定したり、他の乗組員に指示出しをしたりしています。身体と頭(脳)の関係のイメージに合います。頭で考え判断し、身体に指示命令をするイメージです。頭と身体の関係が、船長と船の関係に似ているため、「船長室」の例えが出てきたということは理由のひとつにあるかと思います。船以外の乗り物では、あまりこのような例が浮かびません。
もうひとつの理由として、人生を航海に例えることがあるためではないかと思います。人生とは、大海原を航海するようなものだという例えです。目的地を目指し、針路を確認しつつ、途中嵐に遭うなど何が起こるかわからない航海です。現在は安全性が高まっていますが、大航海時代ともなれば、それこそ命がけです。新しいことが始まることを船出といったり、厳しい状況に遭うことを荒波にもまれるといったりします。人生を航海に例えるならば、人を船に例えてもおかしくありません。
「船長室」の例えからここまで書きましたが、「船長室」や「ミジンコ」など、やぶちゃんが使う例えや比喩が「水」と関係するのも興味深いところです。また、比喩やメタファー、アナロジーの力というものも興味があるところです。

《わもん研究室室長:サノトモ》


Fw:わもんな言葉87−本気度×場数《わもん研究室室長: サノトモ》

13800167963431_3.jpg

何事にも経験は必要です。

やってみて、たとえその時はできなかったとしても、またやってみる。

そうしているうちにできるようになります。

しかし、漫然とやっていても、すぐには上達しません。

いろいろとやってみて、考えてみて、試してみて…。

試行錯誤しながら上達していくものです。

その試行錯誤のひとつひとつを、どれだけ本気でやるか。

その本気度によって、上達のスピードが変わってきます。

聞く力を深めるのも同じ。

どれだけ本気で聞いていたか。

「聞く」という行為自体をしない日はありません。

しかしその内、本気で話を聞いたことはどのくらいあるか。

本気度を測る目安は、次の問いを自分に聞いてみることです。

「本気やったか?」

《サノトモ》


Fw:わもんな言葉86−壁打ちの型《わもん研究室室長: サノトモ四段》

13800167963431_2.jpg

「わもんな言葉」へようこそ!

今回もさのともが自由に語ります!

さて、今回はいわちゃんからお題がきております。

お題は「壁打ちの型」

では、いわちゃん、どうぞ!!

「先日の黒帯高知で「壁打ちの型」が編み出されています。
 あさこさんの美しい型の動画をやぶちゃんから見せていただきました。

 これをわたふがやると超高速になるし、
 まっちゃんいわちゃんで速さ重さを競ったりして楽しいです。

 本題ですが、壁打ちの型をすることは何をすることになるのでしょうか?
 型が表しているのは何なのでしょうか?」

さすが、いわちゃん、いい質問をしますね〜。

いつものさのともならば、「型がなかったら形無しになるからです」と答えるところですが、ここは丁寧にいきましょう。

壁打ちの型だけでなく、他の事柄でもそうですが、型を学び繰り返し実践することは、意識せずとも身体が動くように身体に覚え込ませることだと思っています。

考える前に動く、考えなくとも動ける。

言葉としての印象は良くありませんが、「自動化」「機械化」が型の効用です。

壁打ちの型であれば、AさんからBさんへの切り替えのタイミングやスピードなどを身体に覚えさせる。

この「わもんな言葉」でも何度か挙げたことがありますが、「無意識の有能」を目指していると思っております。

壁打ちをしていると、ふと我に返ったり、あるいはお披露目の場では緊張したり、様々な予期せぬことも起こり得ます。

そんなときに身体がさっと動く、固まったり、止まったりすることなく次の一歩が出ている。

型はそのためにあるのではないか、と考えています。

なので、型は基本。

ただし、型は万能ではありません。

私の好きな考え方のひとつに「有構無構の教え」というのがあります。

宮本武蔵の『五輪書』に書かれていたことです。

有構無構というのは、構えがあって構えがない、ということです。

『五輪書』にはいくつか構えについても述べていますが、敵の出方やその場所、状況にしたがって敵を斬りやすいように刀を持つことが重要だとしています。

形にはめて構えるのではなく、敵を斬るための太刀の位置が構えとなる。

構えというのはあってないようなものだ、ということです。

壁打ちの型は、今までの壁打ちの経験などからできたもの。

私の立ち位置といわちゃんの立ち位置で、心構えも違ってくると思います。

《サノトモ》